FC2ブログ

 私が育った家の前には 現在では きれいなコンクリートの側溝になって 蓋もされ
整備された側溝がある。

 私が子供の頃は きれいな水が流れる疎水だったから
朝は この疎水で顔を洗ったり 使った後の茶碗などの粗洗いなどもしていた。
流れには 沢蟹もいたし小魚も泳いでいた。

 この流れは 冬になっても凍らないで 雪をかぶりながら流れていた。

 私が小学二年か三年の冬のこと。
 多分 ほんこ様が近づいていて 両親は本家へ手伝いに出かけていたと思う。
 本家とは 二百メートルも離れていなかった。

 私と弟は 近所の子供たちと雪の積もった中 流れに沿った通りで遊んでいた。
 当時はまだ車の通りも珍しかったから 家の前の道は かっこうの遊び場だったのだ。
 よく雪が降った後だったから 子供たちは外で遊んだ。

 みんなそれぞれ 竹で作った短いスキーのようなものを履いたり そりなどで
通りをあっちへ行ったりこっちへ行ったりして 遊んでいた。

 私と弟は箱ぞりで遊んでいた。
そのうち私と弟は 交代でお互いを乗せてそりを引っ張った。
箱ぞりに付けられていた紐は かなり長いわら縄だった。

 私が引っ張る番になって 弟がそりに乗った。
長いわら紐を 私は 勢いよく引っ張って走った。
あまりにも勢いよく走って引っ張ったものだから そりは雪道をすごいスピードで滑って
私が停まった場所よりもはるか向こうへ滑って行き おまけに紐が長いから                             行先を失い 紐がたわんで そりは 冷たい疎水の中へ。
ドボ~ン!と音をたてて 弟はそりに乗ったまま流れの中へ落ちてしまった。

 真冬のことだから 水は凍るように冷たい。
 私は 予期しないことに なにが起きたのかわからず 紐を握ったまま立っていた。

 だれかが知らせてくれたのか 本家から母が慌てて雪の中を走ってきた。
そして ようやく川の中で立ち上がった弟を引き上げて 家へ入った。
多分 弟は着替えさせられたのだと思うが 私は覚えていない。
叱られた覚えもないから 母も状況から 察したのだと思う。

 大人になって 家族の中で 時々この時のことが 話題になった。
 弟は当時五歳くらいだったが この時の出来事はよく覚えていた。
しかし 弟や母も笑って話ていたから 私をうらんではいなかった。

 が私は 弟に申しわけないことをした という思いが 今もある。

スポンサーサイト



 今も田舎の旧家では 伝統が守られて 続けられているが
子供のころ 私の家の本家でも 初冬になると 毎年「ほんこ様」が行われた。

 「ほんこ様」とは 報恩講のことで 飛騨では 「ほんこ様」 とよんでいる。

 本家の 幾つかの続き座敷の境の襖を外して 大広間の座敷にする。
 その周りには 江戸時代から本家に伝わっている 飛騨の学者であった
田中大秀の筆になる 三曲だったか六曲だったかの 大きな屏風を何双も立て回して
正面には 一間幅を超えるきらびやかな仏壇に燈明が明るく灯されていた。

 この行事には 先祖からの遠戚の主から 現在の親戚筋までの
大勢のおじいさんやおじさん方 代理のおばさんやおばあさん方が
紋付姿で訪い その末席には 私たち孫も連なっていた。

 お坊様が到着して 小座敷で衣紋を着替えた後 お経が始まる。
子供には そのお経の長かったこと!足が痺れてたまらなかった。

 お経が終わると いよいよ銘々に高足膳が運ばれ 食事となる。
 お運びは 母や親戚のおばさんたちだ。
 親戚の女達は この日のために 何日も本家に集まって料理を作っていた。

 われわれ子供たちも 大人の中で 緊張しながら膳についた。
 座敷には この時以外 われわれ孫たちは入れなかったから 
あまり知らない遠戚の怖そうなおじいさんやおじさんの前で 緊張して正座した。
 
 黒漆の高足膳の上には 輪島塗のお椀や伊万里の皿などが並んでいた。
 中でも 中皿には 大きく切ったコンニャクや人参、春に採って干して保存してあった
わらびやぜんまい、飛騨のコモ豆腐などの煮物が盛られていた。
このお皿のモノは お膳の傍に配って置いてある 二三枚の これも秋に前もって準備された
ホウの葉とわらしべで 宴が終わって帰る時に それぞれが包んで持ち帰るのだ。
 持ち帰る品物の中には 白と黄色の大きなお饅頭の箱もあった。

 伯父の挨拶のあと 子供たちが待っていた食事が始まる。
 大人たちは お酒も入り 歌なども出て 皆でそれに合わせて手拍子を打ち
賑やかな宴が続いた。

 この「ほんこ様」の光景は 座敷の周りに立てられた 背の高い筆文字の屏風や
大根をさいの目に切って具にした味噌汁の美味しかったことなどと一緒に
子供時代の 忘れられない思い出である。

 私が小学校へ入学して 初めての机は 前から二列目の窓側だった。
当時の机は二人分が繋がっていて ふたを上げ下げして文房具 教科書やノートを
しまう 重い木の机だった。

 私が並んで座ったのは田*清*君だった。
 彼はかなりのわんぱくで 隣の私に いつもちょっかいをだしてきては私を困らせた。

 その田*君は 大人になってからだが 早くにあの世へ行ってしまった。

 そのクラスで いつの季節だったか 授業参観があった。
 なんの授業だったかも覚えていないが クラスのみんなが                                      教壇に立っている先生の方を向いて 当然 真剣に学習していた。

 突然 後ろの方で ガタン!! と大きな音がした。

 一番背が高いから 一番後ろの机に座っていたクラスメートが 授業が退屈だったらしい。
座っていた椅子を前後にユラユラ揺すって遊んでいて 後ろに椅子ごとひっくり返った。

 その子の後ろには 大勢のお母さん方が参観に来ていたから きっと驚いただろう。

 その子は さすがにちょっと恥ずかしそうにして 立ち上がり 椅子を元にもどして座った。

 このクラスでの事は 「う~さぎ う~さぎ~ 何見てはねる~」 という歌に合わせて
みんなが即興で踊った時 歌の最後の 真ん丸おォ月さァまァ~見てはァァねェるゥ~ の
部分で 私一人が 片膝を床について 頭の上で両手で大きく丸を作ったら
先生がそれを見て クラスのみんなの前で もう一度私だけに踊らせて                               みんなに見せた事などを 覚えている。

 そのクラスは 先生が急に辞められたから たった一学期だけの学級だった。

 参観日に椅子を揺すっていて後ろに倒れた子とは その後小学校卒業まで
一緒のクラスにはならなかったが 高学年になってから クラブで一緒だった。

 中学生になってからは 二年生の途中で学校が三校統合して
ようやく ここでその子と同じクラスになった。

 そして それからの一年半ほどの間だけ同じ教室で学んだ。

 人と人との縁は 本当に不思議だ。

 たったそれだけの年月 一緒だっただけなのに
その子は 今も深い繋がりのある親友になっているのだから。

 

 

 我が家から離れた所にある畑は まるで 夫の遊び場のようだ。
勿論 そこから収穫できる作物が目当てではあるが
作っているモノが種々の果樹が主で その他に野菜もあるから
結局 彼は一年中農閑期のない 忙しい有様となっている。

 今は 桃の袋かけだ。
昨日も今日も 仕事に行く前に畑へ寄って 一時間から一時間半袋かけ。
また 仕事帰りにも 同じくらいの時間袋かけをしてから 帰宅する。
まだまだ 何日もこの日課が続くだろう。

 私が車を運転できて 日中一人ででも行って手伝ってあげられたらいいのだが
それができないために 夫は一人ですべての作物の管理から収穫から                               そのあとの始末まですることになってしまう。

 体も年々老いるから 少しずつ果樹の本数を減らしたら と私は言っているのだが
樹が枯れたりしてダメになると いつの間にか代わりの樹が植えられていて
一向に減っていかない。

 収穫したモノを人様に差し上げて おいしかった と言っていただけるのが
嬉しいらしい。孫も喜んでくれる。

 隣の畑では 今 そら豆が ちょうど収穫時だ。
夕方 畑から帰って来たら 多分 東京の孫へ送るつもりでいるのではないか。

 有機野菜 それも無農薬栽培だから 豆は甘くて美味しいに違いない。

 夫の気持ちは理解できても 体を考えるとねェ~複雑だわァ~。

 

 昨日孫が退院し 自宅へ帰った。
(実は 孫があまりにも痩せていくものだから 
それに 小児病棟の大音響の泣き声大合唱と喧噪に 次第に参っていく孫の様子に
娘が 孫の精神衛生を考えて 医師との相談で退院したのだが)

 自宅に帰り いつもの食事になると 孫はモリモリ食べているらしい。
 そして しっかりお昼寝もできているという。

 この分なら 日に日に体力も回復していくだろうと ホッと胸をなでおろしている。

 やはり ギリギリでも退院の許可を得たのは 正解だった。

 大人でさえ家が一番なのだから 幼い子供はなおのこと家が一番いい。


 ところでだ。
長らく家を空けていると 夫の食生活が気にかかってくる。
今回もそうだったが 私が家を空けると 夫は 自分の好きなものしか食べない。
 
 夫の好きなモノ=カレー  だから毎食でもカレーとなる。
だからと言って 留守の間の食事を作って外出しようとすると 彼はひどく嫌がる。
 自分で作ったり買ってきたり 自由にしたいから いいのだという。

 今回も 私が帰宅してみると案の定 夫はほとんど食事はカレーで済ませていたようだ。
好きだからいいと言えればいいのだが ところがそうは言っていられない。
 何故なら 必ず夫の血圧が高めになってしまうからだ。
 普段は 検診時の医師に 「体を丸ごと換えてもらいたい」 と言わせるほど
夫は健康体なのだ。
 
 常日頃 食生活には気をつけているし もともと丈夫なのだと思う。
 結婚当時 暴飲暴食で胃潰瘍だったのを 根気よく食事と自家製の健康食品で治した。
だからだろうか。 夫が体調を崩すと 正直 「どうして?!」 と
少し 腹立たしい気持ちになってしまう。
せっかく私が日ごろ気を配って健康を維持してるのに という気が底にあるからだろう。

 とにかく カレーは 香辛料が多いから食べ過ぎは禁物なのだと
夫にわかってほしいと 心からお願いしたい。お願いします!!

 

 東京最後の昨日 孫がようやくお昼寝に入ったから
娘と二人で オソオソのお昼ご飯を食べようと 病院にほど近い商店街へ
小道を抜けながら 歩いて行った。

 商店街には さすがに 雑誌などにも取り上げられるだけあって
こじゃれたお店がたくさん並んでいた。

 何を食べようか どこに入ろうかと あちこち入口に出してあるメニューを見ながら歩く。
あるレストランの店先に 昔イタリアで食べた ミラノ風カツレツの写真があった。
懐かしさもあって 私が ここがいいわ と言い そのお店に入った。

 娘と私は それぞれ二三品ずつ選んでオーダーした。

 ほどなく 銘々に最初の料理が運ばれてきた。味はまあまあだ。

 二品目が運ばれてきて それぞれが 互いの料理に手をつけた。

 その時!娘が 「あッ!!」と言って 今 口にした料理をお皿の上に吐き出した。
私は 何があったのかわからず 変な匂いでもしたのかと 思った。

 娘は 「すいませ~ん」「ちょっとオ~」と大きな声でお店の人を呼んだ。

 ナント!! 娘に運ばれてきたお皿に 透明のガラス片が
幾粒も ポツリポツリと 散らばっているではないか!

 慌てて何事かとテーブルへ来た店員に その旨を見せながら伝えると
さすがに 店員は 事の重大さを察したのか 緊張して謝りながらお皿を退いていった。

 直後 お店のシェフやマネージャーが 店員と共にテーブルへ来て
何度も平謝りに誤ってくれたが こちらの気持ちは驚いて興ざめだ。

 もう食べる気も失せて 出ようかと思ったが 他のお店へ入りなおすには時間がない。
仕方なく 憮然とした面持ちで食事を終えた。味もなにもあったものではない。

 それでもなんとか食べ終えて 会計をしようとしたら
今度は お店のオーナーが 先ほどのシェフたちと一緒にテーブルまで来た。
 再び腰を折り曲げての お詫びが始まった。

 どうしてもこちらの気持ちを懐柔したいらしい。
 今日の代金はいいから 再度チャンスをいただきたい と言う。

 お店にとっては 口コミも重要だから何としても悪い印象は避けたい。

 仕方なく 娘は いいですよ 再びこのような事がないように と言って店を出た。

 それにしても 今までも 婿や娘が いろいろなレストランへ連れて行ってくれたが
こんな経験は したことがない。
 勿論 私が住んでいる近辺でも こんなことは一度もなかった。

 何故 お皿の上にあのような ガラスの破片がポツポツと載っていたのだろう。
あり得ないことが 実際に起こった。

 お店も このような事が 衛生局などに通報されると 営業停止か
キツイお叱りを受けるから なんとしても お客の懐柔作戦に出たらしい。

 孫の入院以来 初めて二人でお昼を食べたのに 残念なランチになってしまった。

 病院まで帰る道は 二人とも口数も少なくなっていた。

 ホントに!!何てこと!! 

 あの娘が腹立たしさを抑えて よく我慢したと思う。

一週間ぶりに帰宅した。

 ギリギリまで病院にいて 孫を看てきた。
 今日は 血液検査の結果が 思わしくはないがかなり改善している ことから
明日一度退院して 熱の上がり方や血液の状態を観察することになった。
今夜 熱さえ上がらなければ の話だが。

 蛋白質の吸収率が悪いし 病気も完治の目安の数値には至っていないとのこと。
 蛋白質が何故吸収率が悪いのか 何が原因なのか 今はまだ不明だそうだ。
それを 通院しながら見つけ出すという。
 病気改善の目安の数値が 医師の思うように下がらないのは何故かも
退院して 家庭で通常の生活をしてみて その変化によって治療するうちに
わかってくるといいが。

 明日退院と決めて さっそく点滴の管が外れた。
 入院以来 初めてシャワーを浴びた。
 子供ながら さっぱりしたようだ。

 川崎病は 幾つかある症状が一度に揃って出るとは かぎらないらしい。
 勿論 心疾患が現れれば 即診断が下るが そうでない場合
 最後の最後に 手足の指先の皮がボロボロむけるまでは はっきりと診断を下せない と
主治医の説明があった。
 とはいえ 孫の場合は 初めから疑い濃厚という見地での治療だったから
まだ 予断は許されないようだ。

 明日 自宅に帰れば 孫の気持ちも落ち着いて 体にもいい影響がみられることを
願っている。

 入院生活で あまり話をしなくなってしまったが また笑ったりお喋りしたりする
明るい顔になってくれたら嬉しい。 続きを読む

 孫は 九度台より上がる熱は なくなったようだから 嬉しい。

 いつもは娘が早朝病院へ行くのだが
今日は 娘を休ませて 私が 七時の開門に間に合うように
病院へ行った。

 さすがに この時間帯だと 東京も空気が 清々しい。
 この地域は 緑が多いから 特に感じるのかもしれない。

 病棟に着いてみると あちこちから 子供たちの大きな鳴き声が聞こえる。

 足ばやに病室へ行くと 柵を高くベッドの四方に張られた中に
チョコンと小さな孫が 入口の方を見ていた。
 母親が早く来てくれないかと 待っているのだ。

 私と目が合うと 弱弱しい顔で ニコッと笑った。

 病気と アレルギーのために他の子より熱量が少ない食事のせいで
元々細かった孫は 益々細くなってしまい 手足など棒きれのように痩せてしまった。
 乳製品と卵がダメだから 牛乳の時はジュースだし スイートポテトの時はゼリー。
それも 普段食べなれていないから 食べようとしない。
 顔も より小さくなって顎がとんがっている。

 そんな状態で笑った姿は哀れで 一日も早くここから出してあげたいと思う。

 朝食の後 看護師の了承を得て 狭い病棟の中を ソロソロと歩いてみた。
熱が上がり始めてから まったく歩いていないから 足の筋力が落ちてしまった。

 点滴棒を私が引いて 手すりにつかまってゆっくり歩くが
足がもつれて 思うように歩けない。転ばないように。転ばないように。

 この分だと たとえ退院しても 体力や脚力が回復するまでには
かなりの日数が必要になるだろう。

 アッという間の小さな冒険だったが 気分転換には 多少なったようだ。

 明後日は私の病院受診日だから 明日には帰らなければならない。
 後ろ髪を曳かれる思いだが 仕方がない。

 自分の体調と相談しながらだが
孫の容態や 娘の仕事によっては また来ることになるかもしれない。

 ヘルパーに頼むと 娘は言うが
病気の子を 知らない他人に任せるのは 不安がある。
ヨワヨワしていても 肉親なら 孫の精神衛生にもいいだろう。

 そんなことを考えている。

 今日の孫は 極端に熱も上がらず 改善方向に向かっているようだ。

 少し体が楽になると 自然に眠りを欲するのは 大人も子供も同じだ。
 体力を回復させるために 脳が「眠り」の指令を出すのだろう。

 孫は 今日入院以来初めてお昼寝をした。それも グッタリとしたように。

 寝てくれると 付き添っている者も ほっとする時間が持てる。

 だから 子供にとっても大人にとっても お昼寝はありがたい。

 同室の子供が泣こうがわめこうが 身じろぎもしないで 寝た。
 神経質な孫なのに よほど体が疲れているのだろうと思う。

 別に甘やかすわけではないが いっときでも 点滴チューブのことを忘れたり
病気から 気分を紛らわすためにと 毎日何かしら 病室へ持って行く。

 一昨日は パジャマやら甚平やらの衣類。
 昨日は キティちゃんの籠底の巾着袋。
 今日は 動物の絵合わせカード。

 一番出番が多いのは キティちゃんの袋だ。
中に 何かしら入れてみたり出してみたり お出かけごっこをしてみたりと
しばらくは それで遊んでくれる。

 大きくなったら そんなことは忘れてしまうだろう。

 ただ いっときでも笑った顔が見られれば それでいい。


 娘の住まいから 孫の入院している病院へは
まず すぐ近くのバス停からバスに乗り 渋谷駅まで行く。
そこからはたくさんのルートでいろいろな会社のバスが出ている。
そのうちの一路線に乗って 病院前で降りる。

 電車だと 渋谷から一駅乗って タクシーを使う。
 渋谷駅からでも 勿論タクシーに乗ればいいのだが 少しでも安く行こうとするから
たった一駅でも 電車に乗る。
 昨日も今日も雨だったから 一駅電車に乗ってから タクシーで行った。

 それにしても 渋谷は日にちに関係なく いつも繁華で 人が多い。
 昼日なかに どうしてこんなに人が歩いているのかと不思議なほどだ。

 電車も同じだ。
 とにかく 空いた座席がないどころか 立っている人の方が多い。

 それに バスにしろ電車にしろ
乗り換えやホームと改札口の間など とても「歩き」が多い。
おまけに 階段だらけだから 昇り降りしなければ電車に乗れない。

 足の悪い私は エスカレーターやエレベーターを探すのも大変だ。

 思うに きっと 都会の老人の方が 田舎の老人より 足腰は強い。
田舎は なんたって どこへ行くにも車だ。
だから 動いてはいるかもしれないが 「歩き」ではないから 足は都会には負ける。

 案外 都会の老人のほうが 長命かもしれない。

 閑話休題

 今日 早朝に病院へ出かけて行く娘の代わりに
家事を終えて マンションを出ようとしたら
コンシェルジュに
「ご苦労様でした」 と言われてしまった。

 住人の部屋へ出入りする 家政婦かハウスクリーナーに
間違われたらしい。

 そんなこともあろうかと いつもなら 東京へは着物で行く。
 マンションの玄関に いつもコンシェルジュが座っていて
人の出入りを視ているし 住人の装いも乗っている車も それなりだから
へたな恰好だと(こちらにしたら普通の服装なのだが)
娘と一緒に外出すると まるでお手伝いさんか乳母のようにみられるからだ。

 それが今回は緊急だったし 病院へも通わなくてはいけないから
着物ではなく洋服で 出入りしている。それも いつも一人でだ。

 だから というか 案の定というか 間違われてしまった。

 娘に話したら 笑いながら
「なにそれェ~ なんでェ~」 と言っていたが。