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 私が育った家の前には 現在では きれいなコンクリートの側溝になって 蓋もされ
整備された側溝がある。

 私が子供の頃は きれいな水が流れる疎水だったから
朝は この疎水で顔を洗ったり 使った後の茶碗などの粗洗いなどもしていた。
流れには 沢蟹もいたし小魚も泳いでいた。

 この流れは 冬になっても凍らないで 雪をかぶりながら流れていた。

 私が小学二年か三年の冬のこと。
 多分 ほんこ様が近づいていて 両親は本家へ手伝いに出かけていたと思う。
 本家とは 二百メートルも離れていなかった。

 私と弟は 近所の子供たちと雪の積もった中 流れに沿った通りで遊んでいた。
 当時はまだ車の通りも珍しかったから 家の前の道は かっこうの遊び場だったのだ。
 よく雪が降った後だったから 子供たちは外で遊んだ。

 みんなそれぞれ 竹で作った短いスキーのようなものを履いたり そりなどで
通りをあっちへ行ったりこっちへ行ったりして 遊んでいた。

 私と弟は箱ぞりで遊んでいた。
そのうち私と弟は 交代でお互いを乗せてそりを引っ張った。
箱ぞりに付けられていた紐は かなり長いわら縄だった。

 私が引っ張る番になって 弟がそりに乗った。
長いわら紐を 私は 勢いよく引っ張って走った。
あまりにも勢いよく走って引っ張ったものだから そりは雪道をすごいスピードで滑って
私が停まった場所よりもはるか向こうへ滑って行き おまけに紐が長いから                             行先を失い 紐がたわんで そりは 冷たい疎水の中へ。
ドボ~ン!と音をたてて 弟はそりに乗ったまま流れの中へ落ちてしまった。

 真冬のことだから 水は凍るように冷たい。
 私は 予期しないことに なにが起きたのかわからず 紐を握ったまま立っていた。

 だれかが知らせてくれたのか 本家から母が慌てて雪の中を走ってきた。
そして ようやく川の中で立ち上がった弟を引き上げて 家へ入った。
多分 弟は着替えさせられたのだと思うが 私は覚えていない。
叱られた覚えもないから 母も状況から 察したのだと思う。

 大人になって 家族の中で 時々この時のことが 話題になった。
 弟は当時五歳くらいだったが この時の出来事はよく覚えていた。
しかし 弟や母も笑って話ていたから 私をうらんではいなかった。

 が私は 弟に申しわけないことをした という思いが 今もある。

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 今も田舎の旧家では 伝統が守られて 続けられているが
子供のころ 私の家の本家でも 初冬になると 毎年「ほんこ様」が行われた。

 「ほんこ様」とは 報恩講のことで 飛騨では 「ほんこ様」 とよんでいる。

 本家の 幾つかの続き座敷の境の襖を外して 大広間の座敷にする。
 その周りには 江戸時代から本家に伝わっている 飛騨の学者であった
田中大秀の筆になる 三曲だったか六曲だったかの 大きな屏風を何双も立て回して
正面には 一間幅を超えるきらびやかな仏壇に燈明が明るく灯されていた。

 この行事には 先祖からの遠戚の主から 現在の親戚筋までの
大勢のおじいさんやおじさん方 代理のおばさんやおばあさん方が
紋付姿で訪い その末席には 私たち孫も連なっていた。

 お坊様が到着して 小座敷で衣紋を着替えた後 お経が始まる。
子供には そのお経の長かったこと!足が痺れてたまらなかった。

 お経が終わると いよいよ銘々に高足膳が運ばれ 食事となる。
 お運びは 母や親戚のおばさんたちだ。
 親戚の女達は この日のために 何日も本家に集まって料理を作っていた。

 われわれ子供たちも 大人の中で 緊張しながら膳についた。
 座敷には この時以外 われわれ孫たちは入れなかったから 
あまり知らない遠戚の怖そうなおじいさんやおじさんの前で 緊張して正座した。
 
 黒漆の高足膳の上には 輪島塗のお椀や伊万里の皿などが並んでいた。
 中でも 中皿には 大きく切ったコンニャクや人参、春に採って干して保存してあった
わらびやぜんまい、飛騨のコモ豆腐などの煮物が盛られていた。
このお皿のモノは お膳の傍に配って置いてある 二三枚の これも秋に前もって準備された
ホウの葉とわらしべで 宴が終わって帰る時に それぞれが包んで持ち帰るのだ。
 持ち帰る品物の中には 白と黄色の大きなお饅頭の箱もあった。

 伯父の挨拶のあと 子供たちが待っていた食事が始まる。
 大人たちは お酒も入り 歌なども出て 皆でそれに合わせて手拍子を打ち
賑やかな宴が続いた。

 この「ほんこ様」の光景は 座敷の周りに立てられた 背の高い筆文字の屏風や
大根をさいの目に切って具にした味噌汁の美味しかったことなどと一緒に
子供時代の 忘れられない思い出である。

 私が小学校へ入学して 初めての机は 前から二列目の窓側だった。
当時の机は二人分が繋がっていて ふたを上げ下げして文房具 教科書やノートを
しまう 重い木の机だった。

 私が並んで座ったのは田*清*君だった。
 彼はかなりのわんぱくで 隣の私に いつもちょっかいをだしてきては私を困らせた。

 その田*君は 大人になってからだが 早くにあの世へ行ってしまった。

 そのクラスで いつの季節だったか 授業参観があった。
 なんの授業だったかも覚えていないが クラスのみんなが                                      教壇に立っている先生の方を向いて 当然 真剣に学習していた。

 突然 後ろの方で ガタン!! と大きな音がした。

 一番背が高いから 一番後ろの机に座っていたクラスメートが 授業が退屈だったらしい。
座っていた椅子を前後にユラユラ揺すって遊んでいて 後ろに椅子ごとひっくり返った。

 その子の後ろには 大勢のお母さん方が参観に来ていたから きっと驚いただろう。

 その子は さすがにちょっと恥ずかしそうにして 立ち上がり 椅子を元にもどして座った。

 このクラスでの事は 「う~さぎ う~さぎ~ 何見てはねる~」 という歌に合わせて
みんなが即興で踊った時 歌の最後の 真ん丸おォ月さァまァ~見てはァァねェるゥ~ の
部分で 私一人が 片膝を床について 頭の上で両手で大きく丸を作ったら
先生がそれを見て クラスのみんなの前で もう一度私だけに踊らせて                               みんなに見せた事などを 覚えている。

 そのクラスは 先生が急に辞められたから たった一学期だけの学級だった。

 参観日に椅子を揺すっていて後ろに倒れた子とは その後小学校卒業まで
一緒のクラスにはならなかったが 高学年になってから クラブで一緒だった。

 中学生になってからは 二年生の途中で学校が三校統合して
ようやく ここでその子と同じクラスになった。

 そして それからの一年半ほどの間だけ同じ教室で学んだ。

 人と人との縁は 本当に不思議だ。

 たったそれだけの年月 一緒だっただけなのに
その子は 今も深い繋がりのある親友になっているのだから。

 

 

 我が家から離れた所にある畑は まるで 夫の遊び場のようだ。
勿論 そこから収穫できる作物が目当てではあるが
作っているモノが種々の果樹が主で その他に野菜もあるから
結局 彼は一年中農閑期のない 忙しい有様となっている。

 今は 桃の袋かけだ。
昨日も今日も 仕事に行く前に畑へ寄って 一時間から一時間半袋かけ。
また 仕事帰りにも 同じくらいの時間袋かけをしてから 帰宅する。
まだまだ 何日もこの日課が続くだろう。

 私が車を運転できて 日中一人ででも行って手伝ってあげられたらいいのだが
それができないために 夫は一人ですべての作物の管理から収穫から                               そのあとの始末まですることになってしまう。

 体も年々老いるから 少しずつ果樹の本数を減らしたら と私は言っているのだが
樹が枯れたりしてダメになると いつの間にか代わりの樹が植えられていて
一向に減っていかない。

 収穫したモノを人様に差し上げて おいしかった と言っていただけるのが
嬉しいらしい。孫も喜んでくれる。

 隣の畑では 今 そら豆が ちょうど収穫時だ。
夕方 畑から帰って来たら 多分 東京の孫へ送るつもりでいるのではないか。

 有機野菜 それも無農薬栽培だから 豆は甘くて美味しいに違いない。

 夫の気持ちは理解できても 体を考えるとねェ~複雑だわァ~。

 

 昨日孫が退院し 自宅へ帰った。
(実は 孫があまりにも痩せていくものだから 
それに 小児病棟の大音響の泣き声大合唱と喧噪に 次第に参っていく孫の様子に
娘が 孫の精神衛生を考えて 医師との相談で退院したのだが)

 自宅に帰り いつもの食事になると 孫はモリモリ食べているらしい。
 そして しっかりお昼寝もできているという。

 この分なら 日に日に体力も回復していくだろうと ホッと胸をなでおろしている。

 やはり ギリギリでも退院の許可を得たのは 正解だった。

 大人でさえ家が一番なのだから 幼い子供はなおのこと家が一番いい。


 ところでだ。
長らく家を空けていると 夫の食生活が気にかかってくる。
今回もそうだったが 私が家を空けると 夫は 自分の好きなものしか食べない。
 
 夫の好きなモノ=カレー  だから毎食でもカレーとなる。
だからと言って 留守の間の食事を作って外出しようとすると 彼はひどく嫌がる。
 自分で作ったり買ってきたり 自由にしたいから いいのだという。

 今回も 私が帰宅してみると案の定 夫はほとんど食事はカレーで済ませていたようだ。
好きだからいいと言えればいいのだが ところがそうは言っていられない。
 何故なら 必ず夫の血圧が高めになってしまうからだ。
 普段は 検診時の医師に 「体を丸ごと換えてもらいたい」 と言わせるほど
夫は健康体なのだ。
 
 常日頃 食生活には気をつけているし もともと丈夫なのだと思う。
 結婚当時 暴飲暴食で胃潰瘍だったのを 根気よく食事と自家製の健康食品で治した。
だからだろうか。 夫が体調を崩すと 正直 「どうして?!」 と
少し 腹立たしい気持ちになってしまう。
せっかく私が日ごろ気を配って健康を維持してるのに という気が底にあるからだろう。

 とにかく カレーは 香辛料が多いから食べ過ぎは禁物なのだと
夫にわかってほしいと 心からお願いしたい。お願いします!!

 

 東京最後の昨日 孫がようやくお昼寝に入ったから
娘と二人で オソオソのお昼ご飯を食べようと 病院にほど近い商店街へ
小道を抜けながら 歩いて行った。

 商店街には さすがに 雑誌などにも取り上げられるだけあって
こじゃれたお店がたくさん並んでいた。

 何を食べようか どこに入ろうかと あちこち入口に出してあるメニューを見ながら歩く。
あるレストランの店先に 昔イタリアで食べた ミラノ風カツレツの写真があった。
懐かしさもあって 私が ここがいいわ と言い そのお店に入った。

 娘と私は それぞれ二三品ずつ選んでオーダーした。

 ほどなく 銘々に最初の料理が運ばれてきた。味はまあまあだ。

 二品目が運ばれてきて それぞれが 互いの料理に手をつけた。

 その時!娘が 「あッ!!」と言って 今 口にした料理をお皿の上に吐き出した。
私は 何があったのかわからず 変な匂いでもしたのかと 思った。

 娘は 「すいませ~ん」「ちょっとオ~」と大きな声でお店の人を呼んだ。

 ナント!! 娘に運ばれてきたお皿に 透明のガラス片が
幾粒も ポツリポツリと 散らばっているではないか!

 慌てて何事かとテーブルへ来た店員に その旨を見せながら伝えると
さすがに 店員は 事の重大さを察したのか 緊張して謝りながらお皿を退いていった。

 直後 お店のシェフやマネージャーが 店員と共にテーブルへ来て
何度も平謝りに誤ってくれたが こちらの気持ちは驚いて興ざめだ。

 もう食べる気も失せて 出ようかと思ったが 他のお店へ入りなおすには時間がない。
仕方なく 憮然とした面持ちで食事を終えた。味もなにもあったものではない。

 それでもなんとか食べ終えて 会計をしようとしたら
今度は お店のオーナーが 先ほどのシェフたちと一緒にテーブルまで来た。
 再び腰を折り曲げての お詫びが始まった。

 どうしてもこちらの気持ちを懐柔したいらしい。
 今日の代金はいいから 再度チャンスをいただきたい と言う。

 お店にとっては 口コミも重要だから何としても悪い印象は避けたい。

 仕方なく 娘は いいですよ 再びこのような事がないように と言って店を出た。

 それにしても 今までも 婿や娘が いろいろなレストランへ連れて行ってくれたが
こんな経験は したことがない。
 勿論 私が住んでいる近辺でも こんなことは一度もなかった。

 何故 お皿の上にあのような ガラスの破片がポツポツと載っていたのだろう。
あり得ないことが 実際に起こった。

 お店も このような事が 衛生局などに通報されると 営業停止か
キツイお叱りを受けるから なんとしても お客の懐柔作戦に出たらしい。

 孫の入院以来 初めて二人でお昼を食べたのに 残念なランチになってしまった。

 病院まで帰る道は 二人とも口数も少なくなっていた。

 ホントに!!何てこと!! 

 あの娘が腹立たしさを抑えて よく我慢したと思う。

一週間ぶりに帰宅した。

 ギリギリまで病院にいて 孫を看てきた。
 今日は 血液検査の結果が 思わしくはないがかなり改善している ことから
明日一度退院して 熱の上がり方や血液の状態を観察することになった。
今夜 熱さえ上がらなければ の話だが。

 蛋白質の吸収率が悪いし 病気も完治の目安の数値には至っていないとのこと。
 蛋白質が何故吸収率が悪いのか 何が原因なのか 今はまだ不明だそうだ。
それを 通院しながら見つけ出すという。
 病気改善の目安の数値が 医師の思うように下がらないのは何故かも
退院して 家庭で通常の生活をしてみて その変化によって治療するうちに
わかってくるといいが。

 明日退院と決めて さっそく点滴の管が外れた。
 入院以来 初めてシャワーを浴びた。
 子供ながら さっぱりしたようだ。

 川崎病は 幾つかある症状が一度に揃って出るとは かぎらないらしい。
 勿論 心疾患が現れれば 即診断が下るが そうでない場合
 最後の最後に 手足の指先の皮がボロボロむけるまでは はっきりと診断を下せない と
主治医の説明があった。
 とはいえ 孫の場合は 初めから疑い濃厚という見地での治療だったから
まだ 予断は許されないようだ。

 明日 自宅に帰れば 孫の気持ちも落ち着いて 体にもいい影響がみられることを
願っている。

 入院生活で あまり話をしなくなってしまったが また笑ったりお喋りしたりする
明るい顔になってくれたら嬉しい。 続きを読む

 孫は 九度台より上がる熱は なくなったようだから 嬉しい。

 いつもは娘が早朝病院へ行くのだが
今日は 娘を休ませて 私が 七時の開門に間に合うように
病院へ行った。

 さすがに この時間帯だと 東京も空気が 清々しい。
 この地域は 緑が多いから 特に感じるのかもしれない。

 病棟に着いてみると あちこちから 子供たちの大きな鳴き声が聞こえる。

 足ばやに病室へ行くと 柵を高くベッドの四方に張られた中に
チョコンと小さな孫が 入口の方を見ていた。
 母親が早く来てくれないかと 待っているのだ。

 私と目が合うと 弱弱しい顔で ニコッと笑った。

 病気と アレルギーのために他の子より熱量が少ない食事のせいで
元々細かった孫は 益々細くなってしまい 手足など棒きれのように痩せてしまった。
 乳製品と卵がダメだから 牛乳の時はジュースだし スイートポテトの時はゼリー。
それも 普段食べなれていないから 食べようとしない。
 顔も より小さくなって顎がとんがっている。

 そんな状態で笑った姿は哀れで 一日も早くここから出してあげたいと思う。

 朝食の後 看護師の了承を得て 狭い病棟の中を ソロソロと歩いてみた。
熱が上がり始めてから まったく歩いていないから 足の筋力が落ちてしまった。

 点滴棒を私が引いて 手すりにつかまってゆっくり歩くが
足がもつれて 思うように歩けない。転ばないように。転ばないように。

 この分だと たとえ退院しても 体力や脚力が回復するまでには
かなりの日数が必要になるだろう。

 アッという間の小さな冒険だったが 気分転換には 多少なったようだ。

 明後日は私の病院受診日だから 明日には帰らなければならない。
 後ろ髪を曳かれる思いだが 仕方がない。

 自分の体調と相談しながらだが
孫の容態や 娘の仕事によっては また来ることになるかもしれない。

 ヘルパーに頼むと 娘は言うが
病気の子を 知らない他人に任せるのは 不安がある。
ヨワヨワしていても 肉親なら 孫の精神衛生にもいいだろう。

 そんなことを考えている。

 今日の孫は 極端に熱も上がらず 改善方向に向かっているようだ。

 少し体が楽になると 自然に眠りを欲するのは 大人も子供も同じだ。
 体力を回復させるために 脳が「眠り」の指令を出すのだろう。

 孫は 今日入院以来初めてお昼寝をした。それも グッタリとしたように。

 寝てくれると 付き添っている者も ほっとする時間が持てる。

 だから 子供にとっても大人にとっても お昼寝はありがたい。

 同室の子供が泣こうがわめこうが 身じろぎもしないで 寝た。
 神経質な孫なのに よほど体が疲れているのだろうと思う。

 別に甘やかすわけではないが いっときでも 点滴チューブのことを忘れたり
病気から 気分を紛らわすためにと 毎日何かしら 病室へ持って行く。

 一昨日は パジャマやら甚平やらの衣類。
 昨日は キティちゃんの籠底の巾着袋。
 今日は 動物の絵合わせカード。

 一番出番が多いのは キティちゃんの袋だ。
中に 何かしら入れてみたり出してみたり お出かけごっこをしてみたりと
しばらくは それで遊んでくれる。

 大きくなったら そんなことは忘れてしまうだろう。

 ただ いっときでも笑った顔が見られれば それでいい。


 娘の住まいから 孫の入院している病院へは
まず すぐ近くのバス停からバスに乗り 渋谷駅まで行く。
そこからはたくさんのルートでいろいろな会社のバスが出ている。
そのうちの一路線に乗って 病院前で降りる。

 電車だと 渋谷から一駅乗って タクシーを使う。
 渋谷駅からでも 勿論タクシーに乗ればいいのだが 少しでも安く行こうとするから
たった一駅でも 電車に乗る。
 昨日も今日も雨だったから 一駅電車に乗ってから タクシーで行った。

 それにしても 渋谷は日にちに関係なく いつも繁華で 人が多い。
 昼日なかに どうしてこんなに人が歩いているのかと不思議なほどだ。

 電車も同じだ。
 とにかく 空いた座席がないどころか 立っている人の方が多い。

 それに バスにしろ電車にしろ
乗り換えやホームと改札口の間など とても「歩き」が多い。
おまけに 階段だらけだから 昇り降りしなければ電車に乗れない。

 足の悪い私は エスカレーターやエレベーターを探すのも大変だ。

 思うに きっと 都会の老人の方が 田舎の老人より 足腰は強い。
田舎は なんたって どこへ行くにも車だ。
だから 動いてはいるかもしれないが 「歩き」ではないから 足は都会には負ける。

 案外 都会の老人のほうが 長命かもしれない。

 閑話休題

 今日 早朝に病院へ出かけて行く娘の代わりに
家事を終えて マンションを出ようとしたら
コンシェルジュに
「ご苦労様でした」 と言われてしまった。

 住人の部屋へ出入りする 家政婦かハウスクリーナーに
間違われたらしい。

 そんなこともあろうかと いつもなら 東京へは着物で行く。
 マンションの玄関に いつもコンシェルジュが座っていて
人の出入りを視ているし 住人の装いも乗っている車も それなりだから
へたな恰好だと(こちらにしたら普通の服装なのだが)
娘と一緒に外出すると まるでお手伝いさんか乳母のようにみられるからだ。

 それが今回は緊急だったし 病院へも通わなくてはいけないから
着物ではなく洋服で 出入りしている。それも いつも一人でだ。

 だから というか 案の定というか 間違われてしまった。

 娘に話したら 笑いながら
「なにそれェ~ なんでェ~」 と言っていたが。

 孫が緊急で入院したのは 東京都に幾つか設けられている ER がある
大きな基幹病院だ。

 だから おそらく 設備も対応も 一流なのだろう。

 それでも 入院している患者には 様々不満が出てくる。

 たとえば 体温計。 どうして 即時に熱が測れる体温計でないのか。

 たとえば食事。 熱があって食欲のない子供なのに
どうして おにぎりや いちごの一粒さえも 許されないのか。

 別段 お腹に悪い食品でもないように思える 豆乳さえも与えられない。
幼くて アレルギーがあり 卵や乳製品が摂れないのだから
普段口にしている食品で 消化のいいものなら よさそうに思えるのだが
まったく 許されない。

 大人が入院するのでさえ 病院はいやなところだ。

 おまけに これはお互い様と言えばそれまでだが
生まれたてのような小さな赤ん坊が あっちでもこっちでも 時を選ばず
甲高い声で 悲鳴のように泣いている小児科病棟の病室は
静かだったことがない。

 これが大人だったら きっと文句の一つや二つ出ようというものだ。

 多分 どこの小児科病棟も 似たりよったりなのだろう。

 **ちゃん!! 早く善くなって おうちに帰りましょうね!!

 ガンバレ!! ガンバレ!!

 
 

 孫娘の容態が なかなか善くならない。

 今日ようやく お昼前辺りには 三十七度八分くらいまで下がって
少し よくなったかとホッとした。

 子供は げんきんなもので 体温が下がって 体が楽になってくると
機嫌もよくなり お話もしたり おもちゃで遊んだりする。
 時には 笑い声をあげたりするから ついている大人も そんな様子に
ホッとできる。

 ところが いったん熱が上がり始めると てきめんに愚図りだす。
普段は 聞き分けがよくて 小さいながら 我慢強いのに やんちゃになり
なにを言っても なにをしても 泣いてばかりだ。

 きっと 体がだるくなって 頭もボ~ッとしてくるのだろう。

 そうなると 母親だけに縋ってしまい こちらの出る幕ではなくなってしまう。

 点滴の管に四六時中繋がれ 高い柵のベッドに寝かされて
してほしくもないのに しょっちゅう看護師にあちこち触られ
なにやら突っ込まれたり テープを引きはがされたり くっつけられたり。

 おまけに 食べたいものも食べられず 昼寝もできない。

 まったく子供にしてみたら 理解できないことだらけだ。

 こんな境遇からは 一日でも早く脱出したいと思っているだろう。

 できるものなら このババが代わってあげたいが それもならず

 明日こそは 熱が下がりますようにと 世界中の神様にお願いするよりほかない。

  先週初めに「風疹」と診断された孫は 次には「風疹」ではなく「手足口病」と
診断が次々に変わっていった。

  そうしているうちにも 熱は上がって全然さがらなかったようだ。

  それで 先週末に都立の病院へ緊急で罹り 今日改めて診察を受けた。

  すると 検査の結果 どうも「川崎病」の可能性が大 と診断され
即ERに 入院となってしまった。

  自分だけいったん帰宅して 入院用の荷物を調えながら
娘が 慌ただしく電話してきた。

  何てこと!!
  昨日も様子を聞いたら 熱はあるけど元気だし食欲もあるから大丈夫 
と 言っていたのに。

  まさか「川崎病」と診断されるなんて・・・・・・。

  先月の婿殿の 酷い怪我といい 孫の深刻な病気といい
悪いことが重なって降りかかってしまった。

  電話の娘の声は かなりマイって疲れているようだった。

  こんな時は だれかに寄りかかりたいはずだ。
  夫は 外国人だから 日本的な感覚はわからない。

  なんでも一人で被って 頑張ってしまう性格の娘のことだから
さぞかし 内心では悲鳴をあげていることだろう・・・。

  そう考えると やはり行って傍にいてあげたい。
  孫の病状を善くすることは 勿論できないが
娘の傍にいれば 気持ちのはけ口くらいにはなってあげられるだろうから。

  明日 さっそく出かけることにする。



  

 

 夫が釣ってきた小鮎をメインにして タラの芽ウドの芽タケノコの穂先
新茶の葉を天ぷらにした。
 それに エビと帆立に人参と三つ葉を混ぜたかき揚げだ。

 今年最後の春のモノだから 揚げながら食べることに。

 何回食べても 木の芽は美味しい。

 小鮎は 今年初めてだから 舌にも新鮮な食材だ。

 お茶の葉は 口に入れて噛むと ほんのりお茶の香りがしてすがすがしい。

 畑があるからこそ このように楽しめる。ありがたいことだ。

 お茶は 残りのほうが多いから 新茶を作る。
 我流で作るから 仕上がった新茶は 煎茶なのかほうじ茶なのか
わからないような代物だが 新茶にはかわりない。
 ぬるめのお湯で入れると まろやかで甘さの感じられるお茶になる。

 木の芽のシーズンは済んでしまったが これからは ホウの葉のシーズン。
 色とりどりに様々な材料を載せてのホウ葉寿司と
 搗き立てのお餅を丸くして載せホウの葉で包んだホウ葉餅。

 季節と共に食べ物が変わり それを楽しむ。
 こんなことができるのも 夫がせっせと畑仕事をしてくれるおかげだ。

 夜中の三時に 夫は恩師と共に 滋賀まで小鮎釣りに出かけて行った。

 昨日 いつもの自分の釣り方とは違った方法を教えてくださった恩師は
御年八十をゆうに超えた かくしゃくとしたお方のようだ。

 場所は 恩師が毎年行かれるところだそうだ。

 ところが 日が悪かったのか 釣果もないまま午前中に帰ってきてしまった。
 
 えさなしの釣りということだったから 夫はえさも作らないで行ったので
釣れないから仕方なく帰って来たと言う。

 先生は たったの一匹だったらしいが 夫は わずかに二十匹釣ってきた。

 今夜は この小鮎を天ぷらにしたいという。
 これだけでは 種が少ないからと それを口実にして
夫は お昼ご飯を済ませると すぐに畑へとんで行った。
 タラの芽や新茶の芽でも採ってくるつもりのようだ。

 夫は 毎年友人と数回小鮎釣りに出かける。
学生時代からの友人で 彼は転任先の僻地で渓流釣りの面白さを知って以来の
釣り人だから 小鮎釣りも近年はいつも一緒だ。

 毎年 かなりの数釣ってくる。
 それを甘辛く煮つけて 佃煮のようにして食す。

 今年もまた彼と出かけて行くだろう。

 夫の小鮎釣りは まだ始まったばかり。
 また楽しげに竿や道具の手入れをして 友人と出かけて行くだろう。

 初めての子だった私だから 両親はたいそう可愛がったようだ。

 母はもとより 父も可愛がったと 母から聞かされた。
 私がまだヨチヨチ歩きの頃までは
田んぼの水あてに行くのに 父は 自分のジャンバーの中に私を入れ
ジッパーを上げて 抱えるようにして自転車に乗って行き来したという。

だから 可愛かったのは本当なのだろう。
しかし それほど可愛がってくれていたにもかかわらず
後年の父は 人が変わったような行いで 家族の輪から遠ざかっていった・・・。

 父のしたことで家族はバラバラになり 皆が苦しんだが
母から聞かされていた 私が幼いころ 父が可愛がってくれたということと
なにはともあれ 私に教育をつけてくれたことへの いわば恩義のような
ものを感じていたからこそ 認知になった父を引き取り 最期を看取った。

 およそ十年余りの年月は 父娘としての愛情のうえだけで過ぎていったわけではない。
 亡くなった母の嘆きと苦悩を思い起こしては やりきれない気持ちになったことも
数えきれないほどあった。

 しかし 当の本人が認知症になってしまっている。
 自分が家族になにをしたかは勿論 自分に家族がいることさえ
父の頭からは まったく抜け落ちてしまっていた。
 
 いくらこちらがキリキリと心を痛めてみても 相手が「二度わらし」では
暖簾に腕押し まったく相手にその理由さえ通じない。
 私だけが ぶつける先のない心の内を持て余す 同居の年月だった。

 今思うと 父の心にあった「闇」のようなものは 
父自身でさえも解釈のできない さみしく虚しいものではなかったか・・・。

 父が亡くなって随分の歳月が経ったこの頃
ようやくそんなふうに思えるようになってきた。

 

いい天気が続いている。

夫は 野菜苗を植えた。
車で行かなくてはいけない畑には 毎日収穫できるような野菜は植えられない。
そちらには 玉ねぎやジャガイモ ネギ ニンニクなどが植えてある。
今日は 午前中
小さな裏庭に 茄子 ピーマン トマト きゅうり などを 数本ずつ植えたようだ。

収穫期になれば一度になるから 夫と私の二人には それで十分な量になる。

トマトには 雨がかからないように アーチに組んだ骨組に透明なビニールがかかっている。

じっとしていられない性分の夫は お昼ご飯もそこそこに
午後からは 小鮎つりの指南を受けに 知り合いのところへ出かけて行った。
帰宅したかと思ったら 腰も下ろさないで 離れた方の畑へ飛んで行った。

本当によく動く人だ。
結婚して四十年以上一緒にいるが 年々動きが気ぜわしさを増している気がする。

元気でいてくれるのはとてもありがたいが
こうして過ごした後の彼は ヘトヘトになっているのがわかる。
夕飯の最中でさえも 居眠りが始まり お風呂へ入るのがやっとの状態だ。

もっと 体を休めながら動いて と何度言っても 聞き入れない。

自分を痛めつけるのが快感なのかとさえ思えるほどだ。

年齢より若く見られることもあって 他人様は
「お宅のご主人はよく動かれるから 奥さんは楽でいいわねえ」 などと言ってくださるが
連れ合いの身にしてみれば いつ倒れ込むかと 心配な夫の動きだ。

 今日は 夫の勤め帰りが早かったから 二人で温泉へ出かけた。

 そこで「ほうじ茶のアイスクリーム」なるものを 生まれて初めて食べた。
食べたというよりも 舐めたというべきか。

 「黒ほうじ茶」のと「香りほうじ茶」の二種類があった。
 その違いはと言えば 「黒」の方は 茶葉を細かくしたものがそのまま使われていて
「香り」の方は ほうじ茶を煮出したものが使われているのだと お店の人の説明。

 どっちにしようか・・・迷うところだ。
 すると お店の人が「それぞれをダブルにもできますよ」と言う。
 なんという甘い勧誘!!

 「そうか その手があった」と思った瞬間 「じゃあ そうしてください!!」

 帰りの車内で スプーンで掬って口へ 口へ。
 香りが とてもいい。コーヒーの香りに似ている。勿論味も。

 「黒」の方は さすがにクリームの色が
 「ちょっと こんな色 食べ物にはねぇ」と言いたくなるような「黒ずんだ色」。

 でも 味は「香り」のより数段いいように思う。
 私の好みは「黒」だな。

 あッという間にカップはカラに。

 今度行ったら また絶対に食べようと思うほど どっちも美味しかったなあ~。
 

私が三歳の頃のこと。

 その頃我が家は 戦後まもなくの新所帯とあって 間借りしていた。
 家主のところに 同い年の「まみちゃん」がいた。

 私たちは毎日のように 仲良く遊んだ。

 その日 外は雨降り。

 私とまみちゃんは 私の家で お互いの母親の口調を真似ながら ままごとをしていた。
 しばらくして 私の母が 
 「ちょっと用事で出かけるけど お利口しててね」 と二人に言って
 ちょっとの間 近所へ用事に出かけて行った。

 母は 当時から薬膳酒を作るのを趣味のようにしていた人だった。

 (後年 母が亡くなってから戸棚を整理したら 倒れる前に作ってあった  
  いくつかの薬膳酒が出てきた。それらは長年寝かせてあったから まろやかになり
  薬膳そのものだったから お酒好きの夫にはたまらないモノになっていて
  とても喜んで いただいていた)

 その頃も 食器戸棚の下の段に 梅酒の瓶が入れてあった。
 おとなが 美味しそうに飲むのに 自分にはもらえないことを
きっと 当時の私は うらやましく思っていたにちがいない。
 そして しっかり瓶の在り処を覚えていたらしい。

 母が出かけたのをいいことに ままごとの続きで
わたしは 梅酒の瓶をよいしょと持ち出し ままごとの茶碗に 
お茶のように入れて まみちゃんに振る舞った。

 甘くてトロンとしたソレはとても美味しくて 
私とまみちゃんは 何杯もおかわりしてソレを飲んだ。

 当然 酔う。
 私たちは 体がカッと熱くなり 気持ちも悪くなり 座っていられなくて
てんでの方向に頭を向けて 真っ赤な顔をして 畳のうえに転がっていた。

 帰宅したは母は 私たちを見つけて さぞかし驚いたことだったろう。

 私は 気持ち悪くなった後からは まったく記憶がない。

 母はどうやって二人の看病をしたか まみちゃんのお母さんにどのようにして誤ったのか
私はさっぱり覚えていない。
 

 しかし あまりにも強烈な気持ち悪さと 体の変化のひどさからか
この事件のことは 記憶にしっかりとある。

 中学生になって「赤毛のアン」の中で 主人公のアンが                                        私と同じような間違いをして 親友にお酒を飲ませてしまったのを読んだ。

「赤毛のアン」は 今でも大好きな本だが この件を読んだ時には
まるで 自分の酷い体験を書かれているような気さえしたものだった。

 大人になって 私は まったくアルコールが飲めない。
これは ひょっとしたら 三歳のときの体験が 今も尾を引いているのかと思ってしまう。

 この春から 朝のドラマで「花子とアン」が放映されている。
 主人公は まだ「アン」には出会っていないが このドラマが始まって以来
遠い昔の失敗を思い出しては 「赤毛のアン」を想っている。
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 昨日は 東京の娘から 孫が風疹に罹ってしまったと連絡があった。

 そうしたら 今日は 近くに住む長男の嫁から                                              上の孫が 溶連菌の感染で 学校を休んでいる 日曜日にそちらへ行ったから
ひょっとして うつしてしまっていたらごめんなさい と電話があった。

 まあ!なんてことでしょう! こんなことは 初めて。
あっちもこっちも 同時に孫たちが病気になるなんて。

  こういう時には 親の代わりは出来ない。
でも 夫は 長男のところの下の孫の習い事の迎えを頼まれたから 役には立った。

  しかし 私は 何にもしてあげられない。
  せめて 車の運転だけでも許可が出ていれば なにかしらしてあげられるのに。                                                                                                      自分の体が健常でないことを思い知らされるのは こういう時だ。

  無力さと情けなさを痛感する。

 

 

 夕方 娘から電話があった。

 孫が「風疹」にかかったと言う。

 ええ!そんなぁ~ 予防接種したよねぇ。

 確かに 予防接種は済ませていた。にもかかわらず「風疹」。


 症状を聞いてみると やはり「風疹」の特徴が・・・。

 医師には 「予防接種を受けていても稀に罹患する」と言われたらしい。

 スカイプで孫の顔を見ると 熱があるからほっぺが赤い。

 体中にあせものような 細かいブツブツが出ているというから
間違いなく「風疹」だ。

 罹らないようにと受けた接種なのに~。

 先週の金曜日に いつものように一日だけ保育園に預けたから
多分 そこで拾ったのかもねぇと 娘と話した。

 予防接種を受けているから 重篤な症状は出ないだろうが
治り際には かゆがるから ひっかかないようにするのが苦労だろう。

 昔 娘が罹った時には 幾晩も寝ないで 彼女の背中をそっとなでたり
軽くたたいたりして かゆがってむずかるのを なだめたことを思い出した。


 もう四十年近くも前の事なのに その時の 娘の小さかった背中や体温、                     汗ばんだ体と頭のにおいまでが ふいに蘇ってきた。

 今日のお昼は 書道教室の先生と先輩との 久しぶりの食事会。

 年に何回か「食事会しましょうか」と 誰からともなく言い出して
「じゃあいつにする?」となり 先生に場所はお任せ。予約していただく。

 今回は 全国的に有名な清流の畔にある「**楼」の別館「時の**」。
 土蔵を改築したレストラン。建物の中はとてもレトロモダンな和風。

 私たちの席は 二階に用意されていた。

 予約したのは一番安価なコースだったが 
目にも 舌にも とても美味しい料理ばかりで 大満足。

 ちゃんとしたレストランや料理店での食事では
料理の彩や味は勿論だが 供される器の美しさもまた楽しみの対象だ。

 この「時の**」で出される器も クリスタルあり焼き物ありでおもしろかった。

 帰りは お決まりの喫茶店へ寄ることに。

 またここでも長くお喋り。

 いつもはお稽古で お喋りも思うようにはできないから(?)
この時とばかりに 話す話す。

 気づくと もう先輩が病院へ行く時間。

 あらあらまた今日もこんな時間 とお店を出た。


 帰宅すると 私も通院の時間。アラアラ!大変大変!!
と 着替えていると夫のご帰宅。フ~!セーフだったわぁ。
 

 今日は母の日。

 毎年子供たちから なにがしかのプレゼントをもらう。

娘は 連休に帰省した際 早手回しに
「ちょっと早いけど母の日のプレゼント」と言って
高級なハンドクリームをくれた。

 いつも私の手がカサカサしているのを気にかけていて
これまでにも 違ったハンドクリームをもらったことがある。
ちょうどそのクリームがなくなったところだった。

ありがたいことだ。

 少量でよくのびて 使い心地がとてもよかったから
今回のも きっとそうだろう。

 今日午後には 長男家族が揃って来てくれ 母の日を祝ってくれた。

 長男家族からのプレゼントは 今 話題になっている                          蚊帳の生地で作られた 数枚の布巾と台布巾だった。

 これはマスコミでも取り上げられていて 以前から興味があり欲しかった品だった。

 そんな事は知らなくて 選んでくれたのがこの素材のモノだったからビックリ!

 包装を解いてみて 手にしたときには すぐに「あれだ!」とわかった。

 嬉しかった。

 それにしても 私が欲しがっていたのを どうして知っていたのだろう。

 聞いてみると 彼らは この素材が話題になっていることも知らなかった。
そもそも この布巾と台布巾の素材に何が使われているかさえも知らずに
「これなら おばあちゃんが喜んでくれる」と選んだらしい。

 もちろん私がこれを欲しがっていることは全く知らずにいた。

 何かプレゼントにいい品がないか家族で探していたら この布巾があったという。
それも 柄は 私好みのいい感じの布巾ばかり。

 日ごろよく行き来して 和やかに仲良くやっていることが
こうして 目に見える形になって現れるのだと 感動した。

 それにしてもタイミングよく これを見つけてくれたものだ。

 彼らの 何がいいか 時間を費やして探してくれた気持ちを想うと
もったいなくてしばらくは使えそうにない。

 心のこもっている品は 金額の多寡では図れない。

 どれも大切に使わなければ。
 
 さて いつから使い始めようか・・・。

 

 私はこのブログを「公開」にはしているが
どちらかというと「覚え書き」としたように 
思い出の中のこと 忘れられないこと 忘れてはならないこと など
時々に思い起こして 書き留めておくことに 重きをおいている。
だから 一文が長くなる。

 今日も その一つだ。

 人は生きるうえで たくさんの人にお世話になって生きている。

 私が今あるのに最初の恩人は 叔父である。

 予定日より早く生まれた私は 取り上げた産婆さんが
「この子は生きられないかもしれない」と告げたくらい小さかった。

 当時 母も体が弱っていてお乳がでなかったし 世の中はまだ戦後を引きずっていた。
 お乳が出なければ赤ん坊は育たない。

 それでも 私が命を長らえ育ったのは 父の末の弟ー叔父ーのおかげだった。

 進駐軍に勤めていた叔父は 粉ミルクの大缶や石鹸、毛糸などの
まだ国内では出回っていなかった 赤ん坊に必要な貴重な品々を運んできてくれた。 
それも何度も何度もだったという。

「**さんのおかげで あなたは大きくなれた」

 私は 母から度々こう聞かされて育った。

 後年 叔父にこの話をしたら
「兄に赤ん坊が生まれたが母親の乳が出なくて困っている」と
その時に働いていた米軍の将校に話したら その人の奥さんがいい人で
気にかけてくださった」と 当時を懐かしみながら教えてくれた。

 私の知らないところで 米軍の方々の世話になってまで大きくなっていた。

 驚いた。

 この歳になるまで どれほどの方のお世話になって生きてきたことか。

 それに比して 私は誰かを支え 力になって生きてきているだろうか・・・。

 「生かされてきた」ことに感謝しながら 想いをはせる。

 

 
















 今思うと 私は昔から「行ったことのない場所へ行ってみたい」
という気持ちが随分強かったように思う。

 そのためか 高校卒業後 生まれ育った町を離れて学校へ入るのも
期待が先にたって 不安はなかった。

 その後も 就職先 嫁ぎ先 夫の転勤先 今の住まいと
何度も生活の場が変わったが その都度その地での生活を満喫してきたと思う。


 家を建てて現在の場所に慣れたころ
高校生だった娘が留学した。それも「日本人が少ない国」を選んで。

 娘のそれからの生き方をみても                                       彼女の中にも 私と同じような気持ちがあるような気がする。
(娘はこうは思っていないようだが)

 娘の留学に触発されたこともあって
貧乏旅行ながら 四十代から 海外への旅を何度もした。

 最初は かつての娘のホームステイ先への一人旅。

 目的地で娘が待っているとはいえ おっかなびっくりの 心細い乗り継ぎ貧乏旅だった。
 その旅では四ヵ国を娘と巡った。

 その後も友だちとあるいは夫や娘と海外へ旅をし 様々な経験、様々な楽しさを味わった。

 それでも たとえ同じ国へ何回も旅していても まだまだ行ってみたい場所はある。

 たとえば イタリア。
イタリアはミラノより北へは行ったことがないし 南のアルベロベッロへも行ってみたい。

 フランスも ルーブルとオルセーの美術館がよくて 何度も行ったが
パリと古城のある地方以外へは行ったことがない。
ノルマンディー地方や ワインで有名なブルゴーニュ地方にも行ってみたい。

 このように テレビで世界中の知らない国や街が紹介されるのを視るたびに                   ワクワクし「行ってみたいなぁ」と思う。

 しかし今は 足腰に痛みを抱えているから
この思いは単なる「夢」に終わってしまうことを 自身よくわかってもいる。

 それに年金暮らしの今では 若い頃のようにはいかない。 

 現在は 年に数回それも長期で海外に滞在する娘が送ってくるメールや写真が
気持ちだけをその地へ誘ってくれ 楽しませてくれる。

 長時間同じ姿勢でいられない私だが それでもレンタカーを使ってなら                     休み休みにはなっても 国内の旅なら なんとか可能だ。

 だからここ数年は 体調をみながら 国内の旅を夫と楽しんでいる。

 夫となら「今朝は動けない」「これ以上は無理」など遠慮なく伝えられて
その時の体の状態に合わせた動きができるから 旅ができる。

 それでも 帰宅後撮り溜めてきた写真を見ると ずいぶん疲れた顔の私がある。

 そんなにまでして どうしてそんなに旅をしたいの?と聞かれたことがある。

 どうしてか?

 やはり それは私が生まれ持ってきた「どこか知らない場所へ行ってみたい」
という好奇心が下敷きになっていると思う。

 でも その下敷きのさらに下には

「世の中は広いのよ。知らない事もたくさんある。もっとできる人もたくさんいる。
 絶対に自分のいる場所がすべてだなんて考えちゃダメ。広い世界へ出なきゃね。」

と 折に触れて言い聞かせてくれた 忘れられない母の言葉がある とも思う。


 そして 自らも知的好奇心がおおせいだった母のこの言葉が 母から私へ                    そして娘へと 形にならないモノとなって繋がっているような気がする。

 知らず知らずに沁み込んでいる思いや考え方は
ことほど左様に 生き方を左右する。

 この「繋がり」の果てが 「子や孫の幸せな生き方」であってほしいと思う。

 

 書道教室の先輩から すずらんを株分けしていただいた。

 持ち帰るのに 負担にならないようにと
かわいい小さな丸い鉢に入れて 教室まで持ってきてくださった。

 家に帰って 大きな新しい鉢に植え替えようと
そっと鉢から苗を出してみると いただいた鉢の底には                             鉢底石が敷いてあり 根張りがいいように 鹿沼土に植えてあった。

 私の足腰が悪く 帰宅後すぐには植え替えられないことまでも考慮しての
気遣いだと思った。

 先輩は よく気働きのできる やさしい方だとは 解かっていたが
このようにまで 心を配ってくださることに 涙が出るほど うれしかった。

 彼女は いただいたすずらんのような女性だ。

 すずらんの 真白く小さな うつむいて咲く可憐な花のように
目立つことを好まず それでいて 「自分」がしっかりとある
そんな 静かな佇まいの女性だ。

 このような尊敬できる先輩を持ち 親しくしていただけるのは 幸せなことだ。

 「強い花よ」とおっしゃったが
 せっかくいただいたこの花を しっかり育てて大きな株にしなければと思う。

 これからは このすずらんの花鉢を見る度に
やさしい先輩が 傍にいてくださるように感じられるだろう。 

 それが嬉しい。

 

東京へ帰って行った二歳の孫の「おめざ」は 豆乳だ。

アレルギーのある彼女は 乳製品が摂れない。
だから タンパク質の大方を 豆類から摂取している。

最近の乳幼児は 水分補給をあまり水や湯冷ましからは しないらしい。

だから 孫は 起きだして来ると おめざの豆乳を与えられる。
彼女は それをおいしそうに あッという間に飲み干してしまう。


その昔
私の「おめざ」は「羊羹」だった。

朝起きると必ず 枕元に銘々皿に羊羹が一切れ載ったものが用意されていた。

目が覚めると 敷布団の上にちょこんと座り それを食べてから起きだすのが日課だった。

砂糖を初め甘い物が品薄だった当時
初めての子に 少しでも甘いお菓子を という両親の親心が                           「おめざの羊羹一切れ」だったと思う。

この「おめざ」は 私が小学校へあがるまで続いた。

おかげで 私は虫歯がたくさんで
そのころの写真を見ると 大きな張り薬をほっぺたに張り付けている。

大人になって 母とこの「おめざ」の話をしたら
「そうだったねえ。でも 少しずつ羊羹の厚みが減っていったけどね」
と 悪戯っぽく言っていた。


孫の「おめざ」に 遠い昔の「おめざ」を重ね合わせて
懐かしく思い起こされたことだった。

 次男が帰り 長男家族が帰り
今日午後 娘家族が帰って行った。

今年も連休は無事に終わった。

年々孫たちは成長し 私たち夫婦は歳をとる。

殊に娘の子供は小さいから 会うたびに大きくなっている。

言葉がどんどん増えている今の時期は 会話がおもしろい。

「おかえりぃ~」と外出から帰ってくるし
「おしゅくり」(おくすり)「コペット」(ポケット)など
回らない口調で言うのも 可愛い。


 彼女のリュックには いつもどんぐりが何個か入っているのも 可愛い。

 また 二歳と少しなのに スゴイ記憶力に驚かされる。

 以前来た時のこともよく覚えていて 大人が忘れていることまでも言い出したりする。

 それに比べて こちらは忘れることが仕事じゃないかと思うほど
日々 もの覚えに自信がなくなっている。

孫に「歳」を教えられる連休でもある。

 いつもは 夫と二人 気ままに生活しているから
わぁ~~!と 急に賑やかになるのは 脳にはいい刺激になる。

 そして 大声をあげて笑うから 精神衛生にもいい。


 子供がいても まったく実家に寄り付かない家もあるやに聞く。

その点 三人の子供が それぞれの家族を連れて来てくれるのを「幸せ」と思わなきゃ。

 感謝!感謝!

 夕飯を食べて 長男家族が帰って行った。

 昨日から一家勢ぞろいで ワイワイ ワハハワハハと賑やかに 和やかに過ごした。

 昼食と夕食の間は 大人と子供が入り混じってのゲームタイムとなるのが恒例だ。
今日も 何度も笑い転げながらの楽しい時間だった。
この時に使うゲームは 我が家の子供たちが 小さい頃に使った物だ。

 あの頃は 私の父や母と子供たちが 同じように楽しく遊びに興じていた。
今は 私たち夫婦が祖父母になって 同じ遊びを孫たちと楽しんでいる。

 時が経つのは 本当に早い。

 今夜は四年生の孫が みんなで話しているときに
「おばあちゃんはかわいいからねぇ」と言ってくれた。

 その言葉に周りの大人は 一瞬かたまり 次にみな大笑い。
でも 本人はまじめに言っている。 よけいに可笑しいからまた大笑い。

 「ありがとうね。そんなこと言ってくれるの**君だけよ」と彼に言うと
 「そうォ?ほんとにかわいいよ」と
どうしてみんなが言わないのか不思議そうに応える。

 またまた大人は爆笑。

 こんなふうに 連休は 楽しく賑やかに 平和に終わった。


 いつまでも 孫たちに「かわいい」といわれる祖母であらねば。

一家勢ぞろいの 裏庭でのバーベキューの日。

よく晴れて気持ちいい日だ。

モッコウバラも咲きクレマチスが絡んで幾つも白や紫の花を付けている。

前日にたくさんの食材は買い整えてあるから準備は万端。

ところが 今日は朝から 夫は畑のある地域の溝掃除の村役。

それでも 毎年のように 賑やかに始まった。

火の番は長男と決まっているから 彼は一日中食材を次から次に焼いていく。

他の者は これも恒例の 婿が地ビールを作っている友人から直送してくれた
ビールを サーバーを使って飲む本格的な地ビールを片手に どっかり座り箸を動かす。

ワハハワハハと 一杯機嫌での会話が弾み ビールをおかわりし みんな幸せそうだ。
外が暗くなっても まだ終わらない。皆椅子から腰をあげようとしない。

それでも一応 焼きおにぎりや 焼きそばで〆る。

屋内に会場が移っても まだ 飲み食べ話し。なかなかお開きにはならない。

今日ばかりは 小学生の孫もお姉ちゃんと 大人に交じって夜更かしとなる。


この雰囲気が 明日まで持越しになりそうな気配も 毎年のこと。


明日も朝から また賑やかになりそうだ。