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 やりつけないことを 急にやるとこんなことになる って見本みたいなことに。

 実は 十日ほど前から 右手の親指の付け根辺りに 痛みが生じてきた。
 その痛みが徐々に強くなって 昨日今日は 親指を少し曲げただけでも痛い。

 以前に 左手の親指が同じように痛みだして 簡単な手術をしている。
 「腱鞘炎」だった。
 だから ひょっとしたらこの痛みも腱鞘炎の痛みかもしれない・・・。
 そう思って 今日リハビリにいつもの整形外科へ行ったから 診察してもらった。
 結果は 「やっぱり 」だった。
 今日は 痛む部分に注射をしてもらい「まだ痛みが続くようなら手術」と言われた。

 原因は 多分 「梅の処理」 だろう。
 大量の梅の実を 洗ったり転がしたり揉んだり漬けたり・・・。
 漬けた後も 毎日台所へ運んで上下をひっくり返したり戻したり。

 このところ そんなことばかりしていた。
 日頃は 何もしていないのに急に手を使ったから そのせいで腱鞘炎に。

 毎日のように しっかり家事をこなしている人ならこんなことにはならないだろう。
 まったく 恥ずかしい話で 我ながら情けない。

 日中には 久しぶりに Iさんに パソコン指導に来ていただいて 楽しかった。
 会話が弾むと痛みも気にならないし 実際親指に負担がかかることは何もないから
忘れたようにして時間が過ぎたが いざ医院へ行く段になったら 痛みが・・・。

 心が通い合うことの心地よさを つい先日味わってきたばかりだったが
今日も 大人になってから知り合って こんなにも深い交際ができる友を持てたことに
友を送り出した後 感謝しながら家に入った。

 家族に恵まれ友に恵まれ こんなにも幸せだから 腱鞘炎くらいは仕方がないな・・・
 整形外科からの帰り 夫の横に座りながら そう考えることにした。

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 昨日G市から駅までは列車で 駅からは迎えに来てくれた夫の運転で家へ帰ったが
その途中で 息子の家へ寄った。

 長く会っていなかったわけではないのに 車の傍に立っている
息子の顔を見たとたん
なんとも言えない ホンワカしたあたたかい気持ちが湧いてきた。
 三人の子供を産み育てたが
 この気持ちは 子供たちの顔を見る度に 体の奥深いところから湧いてくる。

 息子とはいえ 今はもう中学生の子供がいて 四十歳のいい大人なのだから
「わが子」と呼ぶには ちょっと照れるくらいの 息子なのだ。
 それでも 顔を見るとやっぱり「自分の子」という無意識の感覚が出てくるから
自分でも不思議だ。

 昔 亡くなった母が
「孫は可愛いよ。でも それはあなたの子供だから可愛いのよ」 
と言った言葉を思い出す。

 社会へ出した時に恥ずかしくないように できるだけ早く自立するように と
多分 平均的な母親よりも 突き放したように育てたと思っている。
 それなのに 私はやっぱりどこまでも母親なのだ と 痛感したり変に納得したりだ。

 孫は可愛い でも子供はもっと可愛い。

 

 

 昨日今日と 十代から交流のある親しい友数人と会い おしゃべりし 食べ の
一年に一度の 楽しい時を過ごしてきた。

 肩に力の入らない 気楽に構えて 「上手いこと言って」などという言葉は
間違っても出てこない人たちとのお喋りは 本当に楽しいものだ と改めて痛感した。

 仲のいい人 しっかり互いが分かっている人 特に若い頃から 互いを知り合って
いる人たちと一緒にいる心地よさは また格別のものがある。

 しかし まるでぬるま湯に浸かっているような気持ちがする関係には ともすると
緊張感が欠ける。
 毎日がこのような状態で 過ぎていくとすると 向上心はどうなるだろう。
 自己反省したり 自分を見つめ直したりする気持ちは出てくるだろうか。

 自分をある程度律して生きるには 常に居心地のいい場所にばかり身を置いていては
いけないのだ と 帰りの列車の中で考えた。
 
 してみると こうして一年に一度会って楽しく過ごすくらいが 丁度いいのかもしれない。
 互いにもたれ合って「なあなあ」で過ごしても いいことはないかも・・・。

 これまで こんな考えが浮かんだことはなかった。
 気持ちに変化が起きたってことは 私の中の何かが 今までと少し違ってきているのか。
 それが どう どのような方向に変わってきているのか 自身にもまだ判断がつかない。

 年齢とともに 過去の若かった頃ばかりを懐かしんで つい耽美的になりがちだが
若かった頃にだって 悩んだり涙を流したりした出来事はあったはず。
 悩みの中でも前を向いていたからこそ現在がある と思えば 
今だって 「楽」ばかりを求めないで 現実を見つめてしっかり生きなければ と思う。

 「うまいこと言って」というと もう一つ理解できないことがある と気づいた。

 他人と様々に様々なことを話したとする。
 その場でのその人の話に 「なるほどな そうなのか」 「そう思っているのか」 と
思って その場が終わったとする。
 
 あの人がああ言うのだから きっとそうするだろう と思っていると
なんのことはない。全くそうする気配がない。
 それどころか 言ったこととは反対の行動をとっていたりする。
 
 私には それが理解できない。
 言われた方にしてみたら 騙されたのかも という思いや 裏切られたのかも という
考えすらしてきてしまう。あれは嘘だったのかとも思えてくる。

 もちろん そうしたいと思っていても なかな実現しない時もある。
 かく言う私だって 思うようにばかり事が進んでこの歳まできた訳ではない。
 しかし他人の前で言った事は せめてそうしたいという気持ちが人に伝わるくらいには
努力もするし そうしたいとも心から願う。
 そういう行動をとることが 自分が発した言葉の言質ではないか。
 それが 自分の言葉が真実か否かの証明のような気がするのだが・・・。
 その場まかせの 合わせるためだけの言葉は 虚しいだけだ。
 正直に誠実に生きるということには  「他人にも自身にも嘘を言わない」
「相手を裏切らない」 ことも含まれると思っている。
 「嘘も方便」という言葉があるが そんな時の言葉は別だ。それは自ずと他人にも分かる。

 人間は歳を重ねると いろいろな人と出会い交わり分かれる。
 これまでに嫌だなと思った人も その人となりを通して 私自身の成長に
大きく貢献してくださっていると思うことにしている。理解できないながらも。                              そう考えると ええッそうなの? そうするんじゃなかったの?と不信に思う人たちを
「嫌いだ」 とは無下には言い切れない気もしてくるが どうだろうか。
 

 今日も暑かった。
 よその地方では 瞬間大雨だったり 雹が降ったりの大荒れ天気だが
この地方では こんなことでいいのか と思うほど雨が降らない。
 梅雨時は 雨がしとしとと降って 鬱陶しいはずなのだが
このところの天気は なにか嫌な変調を感じる。

 こう暑いと 出てくるモノがある。
 昔から 出て来るのは 幽霊。これは認知されている 夏の風物詩のようなモノ。

 しかし昨今 もう一つ暑いと出て来るモノがある。
 変質者だ。

 今日も 美容院でその話をした。
 普段は 普通の 全く一般の人と変わらない仕事に就いていることが多いらしい。
 美容師が知っている人は 暑い季節になると 豹変するという。
 彼女いわく 「それを知っててもねぇ 私にはなんにも被害が及ばないから・・・」

 この種の犯罪は 現場を押さえなければ 罪には問えないのだから仕方がない
とも言っていた。

 女性なら 多くの人が経験するセクハラも同じようなものだ。
先般 都議会で騒動になったヤジも 欧米ではヤジを飛ばした者を
「性差別者」 と呼ぶという。

 まさか当の都議も 暑い季節になったから あのように酷いヤジを
飛ばしたとは思わないが 変質者も性差別者にしても
女性に対しての尊敬と 対等という意識がないから 自分だけの歪んだ満足を
最優先してしまうのだと思う。

 可哀想な女性が増えないことを願っている。

 この歳になっても 未だに わからないことはたくさんある。
 その中でも どうしてそう言われるのか 全く理解できない事が一つある。 

 たとえば 他人と普通に話していると 時々 会話の内容によって
相手から「 うまいこと言って 」 と言われることだ。
 こちらは 大真面目に 思っている事を述べているだけなのに
私の話のどこが 「うまいこと言って」と思わせるのかがわからない。
 この場合の「うまいこと」とは 「心にもないこと」 「おべんちゃらを言って」という
意味になると思われるが 私はいたって正直に 自分の考えや思いを口に出して
言っているだけなのだ。                                                            それが 他人には 心にもない上っ面の軽いことを言っている と
とられているらしい。
それが 私には理解できないし悲しくなってしまう。

 このとられ方の違いは 一重に人生観や日頃の生き方の違いからきていると思われる。
 私の生き方は ともすれば理想主義的な考え方に基づいているからなのではないか。
 しかしたとえそうであっても 私自身 他人に口からでまかせの嘘を言ったことはないし
行動も 自分の考えに基づいた責任ある行動をとっているつもりでいる。
 今までも 正直に誠実にまじめに生きてきたという自負もある。

 それなのに 何故 「上手いこと言って」などと 私の生き方からすると
私を全否定されたような気さえする言葉を 相手から受けなければならないのか。
 それが 正直言って 全くわからないのだ。

 うがった見方をすると 「うまいこと言って」と言う人は その人自身が
真っ当な考え方に基づいた生き方が出来ていなくて 自然 口から出てくる言葉も
真にかなったものではないのではなかろうか とさえ思ってしまう。

 現に 会話していて 「うまいこと言って」 と言う人は 私という人間を
深くは知らない人に多い。
 長く親しくお付き合いをしてくださっている人たちは 私が発する言葉を
そのままの意味にとってくださって 会話も違和感なくはずむ。

 それにしても たとえ深い付き合いではない人からでも
「うまいこと言って」などと言われるのは 心外だし 不愉快でもある。

 どうしたら このような言葉を言われないようにできるのか
それさえも わからないでいる私がいる。

 今日 大学病院で腰と足に かなりの箇所 痛み止めの注射をした。
 足には特に多めの注射液だと医師の言葉。
 なるほど いつもより足の感覚が随分鈍く感じる。
 それでも 二十分くらい横になっているうちに 動けるようになった。
 
 こんな時でないと自由に動けないから 帰りのバスを途中下車して
久しぶりに繁華街を歩いた。
 週末 ちょっとした予定があるから 何か新しい物で安価な物がないかと
デパートへ寄ってブラブラ探してみよう と思ったからだった。

 バスを降りてしばらく歩いていると 今まで見かけなかった新しいお店がある。
それもよく見ると 「古着屋」 とある。
 こんな街中に こんな構えの古着屋が いつオープンしたのだろう。
 思わず店内に入ってみる。
 結構明るくて広い店内は 新品を扱う普通の洋服屋と変わらない。

 どんな物があるのかと あちこちに掛かっている商品を見て回っていると
デパートで見かけるブランド品が 何着かまとめて掛かっているコーナーがあった。
 よく見ると新品だ! しかも値段が正札の四分の一!!
 ええ~ッ ホントなの? どうしてこんな値段なの?
 不思議に思って 店員に聞いてみた。
 正規の商品だが デザインのせいか売れなかったのを 会社や販売店が放出した
との返事。
 確かに デザインは万人受けしないかもね。
 でも せっかくだから試着だけでもしてみたいではないか。
 だって だって この値段だもの。
 と 店員に試着の断りを言って 試着。
 試着室も 一般のお店と同じ。使い捨ての汚れ除けまで備えてある。
 着てみると 意外に似合ってる??じゃない?着心地も サラッとして気持ちがいい。
 これはお買い上げだな!! と決まり!!

 デパートへ行くつもりが 途中で寄り道をしたせいで
かえって いい買い物をした。
 これこそ「絶対正価では買い物しないK子ちゃん」の真骨頂というものだ。

 てなわけで  見事お買い上げぇ~ と相成りました次第でございますゥ~

 嬉しいわぁ!!

 

 このところ 漬けこんだ梅を 毎日かき回したりかきまぜたりしている。
 四キロの重石がそれぞれに載っているから まずはその重石をどけなければならない。
 それが 足腰が痛い私には 大仕事だ。
 それでも こんな事ができるくらいに 最近はまずまず調子がいい。
 もちろん 健康な人には及ばないが こんな事ができて
さも忙しげに動けるのが 私にはとても嬉しい。

 健康な時には なにげなくこなしていた家事だが いざ痛みが伴ってきてからは
こんなにも腰に負担がかかっていたのかと 思わされる事ばかりだ。
 だから こうして台所に立って 機嫌よく動けるのが 楽しいし心が晴れる。

 こうして動いていると いつの間にか無理をしてしまって
また激痛がきてしまうから 程々にしておかないと・・・

 でもやっぱり 動けることが嬉しい。 

 我が家がとっている今日の朝刊の 地域のニュース欄をみて驚いた。

 昨夜遅い時間に 我が家の前を救急車が通る音がした。
 どこかのお宅で急病人が出たのかと 思いはしたものの 玄関の外までは出なかった。

 そして今朝 新聞を広げて 何気なく記事を下段まで読み進んでくると
なんと 我が家に近い住所と番地が載っている。
 えッ?なになに?! 
 番地の次には近所の それも私の教え子の名前があるではないか!!

 記事の内容にまた衝撃を受けた。
 教え子が勤め先を変えて 実家に帰って来ていることも全く知らずにいたのだ。
 彼が容疑者扱いでの 名前に尊称のない記事だった。

 家庭内での出来事だから おそらくは穏便に済ませられるだろうとは思うが
それにしても救急車を呼ぶと 怪我の場合 病院からか消防署からか
警察へ通報があるのだと 改めて知った。

 私達は 家族間での出来事は案外 「家族だから」 と安易に考えてしまいがちだが
第三者からすれば 「ただならぬこと」 と判断されることが実際にある。
 我が家も 恥ずかしいことだが十年前長男の結婚式に際して トラブルがあった。
 事の相手が親族だったから 振り回されてとても困った。
 その時 式場側から 「事が起こったら警察に通報しますから大丈夫です」 
と言われて 安心すると同時に かえって事の重大さを思い知らされた。
 式場をも巻き込んでのことだったから そこまでくると もはや「親族間のトラブル」
では済まなくなっていたのだ。
 当然 そこまでとは思っていなかった夫は その言葉に驚き 青ざめていた。


 ことほど左様に 家庭内や親族内での問題は 内内のことだから とみんなが 
それほど重大には考えない場合が多いが 社会的にみれば 見逃せないことだったりする。
 
 彼の場合も その場の状況から つい執った行動が大事になってしまったのだろうが
今後に影響が残らないように 解決するよう祈っている。
 

 午前も早いうちに 親友が 同級生のお母さんが亡くなったと 知らせてくれた。
 父と同い年だったから九十二歳だった。

 早くにご主人を亡くしてから 二人の息子を女手ひとつで育てあげた人だった。

 おばさんは 私達が小学生の頃から 「給食のおばさん」 として親しんだ方だった。
 中学になってからも 職員室の 「用務員のおばさん」 だったから
毎日学校で顔を合わせた。

 小柄でやさしいおばさんだった。
 父が同級だったこともあって 私を見かけると 「K子ちゃん」 と呼んでくださった。
 私も ただ [学校で働いているおばさん] としてではなく 親しみを感じていたから
学校にみえる 親戚のおばさんのような気持ちがしたものだった。

 そして おばさんは私の同級生のお母さんでもあった。
 私達クラスはとても仲がよかったので 仲間と時々お宅へお邪魔したりしたが                          いつも にこやかに穏やかな物腰で 迎えてくださった。

 そのおばさんが亡くなった。
 年齢を重ねていらしたから 訃報に接しても不思議ではないが
それでも 私が小さい頃から知っていてくださった方だったから 
折々の思い出とともに偲ぶと 時々のおばさんの顔が浮かんで 涙が流れてくる。

 私の同級生やお孫さんたち御家族にとって 大切な方を亡くされて
さぞお淋しいことだろう。

 おばさんのご冥福を心からお祈り申し上げる。
 

 昨日でようやく梅の実の処分が終わった。
 夫が畑の木から採ってきた実は 一粒も無駄にしないで使った。

 昨今は痛みのために農作業ができないから もっぱら夫だけが畑の作業をしてきた。
 だから 夫が畑でなにをどうしているのか さっぱりわからないでいる。                                収穫してきたものを見て 初めてこんなものを作っていたんだと分かるだけだ。

 ただ困るのは 収穫してきた物の置場所だ。
 元々農家ではなかったから家も車庫周りも そのように作っていない。
 農作業の道具のほとんどは 畑に小屋を作ってそこに入れてあるが
出来た野菜などは どうしても持ち帰って保管せざるをえない。
 したがって 車庫の中が保存場所になる。
 また それまでは玄関の内外にも 山積みになっている。

 梅もそうだったが 玄関の中がきれいになったとたん 今度はジャガイモだ。
 大小を分けたり種類別にしたりの作業が終わるまで また我慢が続く。

 一度でいいから 品よく落ち着いた玄関にしていたいのだが・・・・・・

 

 夫はこの春から ある計画を立てて それを実現したいと パソコンに向かっている。

 最近替えたばかりのパソコンは 使い勝手が今までのとは違うから 
溜息をついたり うなったり 戸惑いながらやっている。
 細かく予定を立てて それに沿っての計画だから なかなか事が思うようにいかない。
 うなったり溜息をついたりは 自分の企画通りにいかないせいもあるようだ。 
 それでも 夜な夜なパソコンに向かい 何かメモしている。
 そのメモもずいぶん溜まってきた。

 この計画を実行できたら 確実に忘れられないものになりそうだ。

 問題は私の体調だ。
 夫には言えないが 計画倒れになりはしないかと コッソリ心配している。

 今日は書道の日。
 午前 いつものように先生のお宅へ伺い 教室へ入る。
 道具を出して 準備していると 先生が
「紹介していただいた‘葉室麟’いいですね~。あッという間に一気に読みましたよ」
と おっしゃった。

 私は一瞬 なんのことかわからずに キョトンとしていた。
 先生は 自分の言っていることが 私に伝わらないものだから
「えッ?」と思われたらしかったが 言葉を替えて
「葉室麟じゃなかったですか?以前に葉室麟のモノが面白いと おっしゃって紹介
 していただきませんでしたっけ?」
と もう一度ゆっくりした口調でおっしゃった。

 そうそう かなり前に そんなことを教室で話したわァ~ 
「はい! そうでしたね。読まれました?」

「ええ! 銀漢の賦 読み始めたら面白くて止まらなくて 一気に読んでしまいました。
 今まであまり興味がなかった時代物に こんなに嵌るとは 思ってもみませんでした」

と 笑いながら 嬉しそうにおっしゃる。 そして
「あまりにも面白かったから 今 蜩ノ記 を半分ほど読んだところなんです」
と 続けておっしゃった。

「そうですよね 面白いですよね。 文調が格調高くて 素敵ですよねェ~!」
「そうなんですよね 漢語や漢字の熟語が多いせいでしょうかねェ。
 こんなに面白いとは思わなかったけど 紹介していただいたおかげで
 楽しみが広がったわ。ありがたかったわァ」

 そんな熱い会話が交わされて 他の生徒さんも興味を持たれた様子で
二人の会話を聞いていらっしゃった。 

 自分が読んで面白かった本を ほかの人も面白いと言ってくださる。
こんな嬉しいことはない。本大好き人間にとって 冥利に尽きるというものだ。

 同じ本を読んで 感動を共有したり 感想を述べ合ったり出来る喜びは
何物にも代えがたい。

 しばらくお休みになっていた 読書会 が 復活しそうな気配がしてきた。

 なんだか歌謡番組のタイトルのようだが 最近になって思うことがある。

 多分に夫の影響もあって 近年は 毎夜必ずと言ってもいいくらいに
歌謡番組 それも演歌の番組を視るようになっている。

 若いころは 演歌なんて と 聴きたくもなかった。
 けれど なにせ我が家にはテレビが一台しかない。
 夫か私が お互いに好きな番組を視ると 片方も否応なくそれを視ることになる。
だから 夫が演歌を聴くと 自然に私の耳にも入ってくる。

 そんなわけで 演歌が耳馴れてきたこの頃では 抵抗がなくなった。
というより 演歌の歌詞がとても奥深いものだ と解かるようになってさえきている。

 よく聴くと とても意味深くて 詩的できれいな日本語が使われている。
 美しくて詩的な日本語が 哀愁を帯びた旋律にのって流れるから
聴く者の心の琴線に訴えてくる それがしっくりと理解できるようになってきたのだ。

 この変化は 年齢に起因していると思っている。
 ここへくるまでには 様々な事があった。たくさんの苦しいこと 悲しいこと 楽しいこと
嬉しいこと それらが いつの間にか綯い混ざって 歌詞の奥までも想い廻らせて
聴いているのだと思う。

 だから 歌によっては 知らず知らずに涙さえ流れてくることがある。

 夫は このことに 私より早くに無意識に気づいたのかもしれない。

 演歌は人生経験の多寡によって 好きか嫌いかが決まってくるのかも。
 そう考えると 私たち夫婦は これから益々演歌を聴きながら
二人して涙を流すことになってしまうのだが・・・

 それはそれで ちょっと困ってしまうわねえ。
 そんな様子を想像すると なんだか笑えてくるわ~。

 夫が 収穫してきた梅を 玄関の中に入れた。

 我が家の玄関は 一年中なにかしら夫の収穫物が運び込まれていて
どれだけスッキリさせていたいと思っても なかなか思うようにならない。

 それで いまの時期は 梅の実が玄関に。

 例年は 大きな実がなる南高梅だが どうしたことか 今年は実が小さい。
 また今年も その南高梅を焼酎漬けにしようと 期待していた夫はガッカリ。
 私には 小さいとはいえ 大 の部類に入るのでは と思える実の大きさなのだが
夫は漬ける気にならないらしく 二日近く運びこんだままだった。

 幸い 長男家族が来て 何キロか持って行った。
 それでも まだまだたくさんの実だ。

 せっかくのお恵み なんとかしなくてはもったいない。
 でも 毎年毎年 梅漬けはいらないから・・・
 そこで 今年は この実の大きめのを カリカリ漬けにし
小さめのを使って梅ジャムと梅シロップを たくさん作ることにした。

 夫は既に意気消沈の状態だから すべて自分一人での作業になるが 仕方がない。

 そんなわけで ここ何日かは梅梅梅の毎日を送っている。
 作業自体は単純だから さほど難しいものではないが なにせ手間と時間がかかる。
 足腰の痛みをかばいながらの作業になることは覚悟のうえだ。

 それでもなんとか 長男が持ち帰った分と使った分とで 十六キロの梅を処分できた。

 しかし まだまだ玄関には 小さな梅が・・・

 それなのに 夫は 焼酎漬けを作りたいがために 知り合いから大振りの実を
分けていただいて 持ち帰ってきた。

 去年漬けた焼酎がまだあるのだから ましてや我が家の梅が残っているのだから
わざわざよそ様からいただくこともあるまいに                                                いったい 残っている実をどうするつもりでいるのか・・・

 早く梅を処分しないと!
 収穫後のジャガイモを また玄関の中に入れるんでしょ?

 今日 めったにないことだが 近所の同年代の方のお宅へお邪魔した。
 その方と 親しくしている同年代の女性たち四人が集まっての お茶会だ。

 五人のうち 誘ってくださったお宅の奥さんは 鹿児島生まれ
あとの四人は 今暮らしている県で生まれた。

 奥さんが この時期でしか作らないという 生まれ故郷のお菓子を
取り寄せたから と言って お茶菓子に出してくださった。

 それは 肉桂の葉で 米粉で出来た練り菓子を挟んだ 上品なお菓子だった。
 この県では 見たことのないお菓子だ。
 県内の東部に これによく似たお菓子があるが 葉っぱは使わない。

 肉桂の葉も 初めて見た。ましてその葉を使った料理もお菓子も
四人は初めてだったから 葉っぱの香りを楽しみながらいただいた。

 それをきっかけに 奥さんは自分が生まれ育った家や 屋敷内にあった
大きな肉桂の木 サトウキビやさつまいも。
 お父さんが食べさせてくださった 肉桂の根のこと。
 そして 季節の折々に お母さんが作ってくださったお菓子や料理のことなど
を 話してくださった。 

 四人には 食べたことのない珍しい料理だったりお菓子だったりで
作り方や形 それにまつわる 奥さんの思い出話に話しが盛り上がった。


 また 思い出話の中には
 引き潮のときに 家から近かった浜へ 一家でお弁当を持って出かけ 
岩に付いている貝をみんなで採って帰り 家でほじくって食べたこと
などもあって 海なし県で育った私たちには 新鮮で面白かった。


 当たり前のことだが どこで生まれ育ったかによって
食べ物はもちろん 生活の有様も違ってくる。
 周りにある植物も違い 子供時代の遊びも含めて
すべてのことが こんなにも違っている と改めて感じた。

 そして 面白いと思うのは
 この年齢になると それぞれが 食べながら育ってきた
食べ物が恋しくなるということだ。
 日頃 どれだけお金がかかった料理やお菓子を食していたとしても
行き着くのは やはり母親が作って食べさせてくれたものや
生まれ育った土地の ひなびたお菓子だったりする ということだ。

 私も 母が作ってくれた ほんのり甘い米粉の団子が恋しくなった。

 六年生のある日の朝 担任の先生が
「ユー君が北朝鮮へ帰ることになりました。これからユー君に挨拶をしてもらいます」
 と 言われた。

 みんなは 突然のことに なにがどうなっているのかわからず 戸惑った。
 すると 今までクラスの鼻摘まみ者だったユー君が教壇に立ち
「ぼくは 母国 へ帰ります。今までありがとうございました」
と 堂々とした態度で 大きな声ではっきりと短い挨拶をした。
 あまりにも それまでのユー君と違った彼の様子に みんなビックリした。

 ユー君が席に着くと 先生が
「今 ユー君が言った 母国 という言葉の意味を みなさんは知っていますか?」
と 穏やかに質問された。

 誰も手を挙げず 教室の中は静かだった。
 私も ただ下を向いて黙っていた。

 先生が 母国 という言葉の意味を説明された。

 それから間もなく ユー君一家や見知った人たちが 北朝鮮へ帰って行った。
 当日は みんな紙テープを持って 駅まで見送りに行った。
 たくさんの人が帰って行った。

 教壇に立って挨拶した あの時 ユー君はきっと
 「母国へ帰ったら 貧しい生活とさよならして 豊かで楽しい生活が送れる」
と思って 期待や希望でいっぱいだったに違いない。

 あれから五十年以上の月日が流れた。
 
 帰国する船に乗船するや否や 厳しい現実が待っていたという。
 ユー君や一緒に帰って行った人たちは 本当に豊かに暮らしているだろうか。

 北朝鮮に関する報道がなされるたびに ユー君の身の上を想う。

  

 小学校五六年はクラス変えがなく 担任の先生も同じだった。

 そのクラスに ユー・ヘイヤス という名の男の子がいた。
 彼は韓国人だった。

 当時 私の家の裏は田んぼで その向こうに川が流れていて
その川の傍には トタンを巡らしただけのような粗末なバラックが並んでいた。
 ユー君はそこに住んでいた。

 彼は とても乱暴者だった。
 彼の隣や前後に座ったり立ったりすると 必ず何かいたずらをされた。
その悪戯の程度が甚だしくて 泣かされた子も毎日たくさんいた。
だから 誰も彼の隣にはなりたがらなかった。

 六年生のある時 やはり彼が何かしでかして 彼の席が替えられた。
そして 先生は 私がおとなしいから きっと大丈夫だろうと思われたのか
一番後ろの隅っこだった 私の隣りの 空いていた席に彼を座らせた。

 それまでの彼の粗暴さを見ていたから とても嫌な気がした。
でも そんなことは 先生には言えなかった。

 案の定 彼は私に悪戯をしかけてきた。
 毎時間毎時間 消しゴムを割られたり 鉛筆を折られたり カンニングをされたり。
 鼻クソをほじっては 私の服に擦り付けたりもされた。

 そんなことが日常茶飯事に起こっていたが 私は我慢していた。
 ところがある日 彼は私の教科書を手に持って ビリビリに破ってしまった。
 それまで ノートに悪戯されたり破かれたりはしたが 教科書には無かった。

 私はとうとう頭にきた。
 先生のところへ その教科書を持って行き 見せながら先生に訴えた。
 先生は 毎日教壇から 彼と私の様子を観ていらっしゃったのだろう。
そして私が ユー君の隣りは嫌だ というのを聞き入れてくださった。
 結果 ユー君は一人で座ることになり 私が席を替わった。
 でも あまり後味のいいものではなかった。

 私は 彼が何故 誰彼かまわず乱暴するのか 薄々解かっていたような気がする。
 川むこうでのユー君たちの生活ぶりが 我が家からよく見えたからだ。

 そのころは戦後まもなくで 日本中がまだ貧しかったけれど
彼らの生活は もっと悲惨だった。
 おそらく教科書もノートも 鉛筆や消しゴムさえも 新しい物はなかっただろう。
 貧しいながら 新学期になれば真新しい教科書やノートを買ってもらい
  (当時は教科書は自費で購入するものだった)
少し小さくなれば すぐに新しい鉛筆や消しゴムが買ってもらえる
そんな私たちを どんなにか妬ましく 羨ましい思いで眺めていたことだろう。

 だからと言って 乱暴したり悪戯したりしていいわけではないが
自分の生活や境遇との どうしようもない違いに 彼は苛立っていたのだ。

 その苛立ちや悲しみが 多少なりとも私には伝わっていたのだと思う。
 だから 自ら望んだ事とはいえ 子供心に後味の悪さを覚えたのだと思う。

 今の私の体型からは 考えられないが
小学校四年くらいまでは 体の弱い虚弱体質だった。

 運動会には 最後の全校での整理体操まで体力が持たずに
みんなが体操しているのを見ながら 親の背に負われて帰って行く子だった。
当然 次の日はお休みで 熱を出して医師の往診を受けて 家で寝ていた。

 二年生の時には 百日咳に罹り 二学期の出席日数が 確か二十日前後しかなかった。
 その学期末の成績は 当たり前とはいうものの オール2だった。
 子供心に あまりにも低い成績にビックリしたし 悲しかった。

 自分で聞いたのか親が聞いたのか忘れたが 
 「出席日数があまりにも少ないから 評価のしようがなくて
  校長先生や他の先生方との話し合いで この評価になってしまった。」
と 担任の先生に言われた。

 そんな 体の弱い 休みがちな子だったが クラスのみんなには好かれていたと思う。
先生方にも 可愛がっていただいた。
 多分 覇気はないが 逆らうことをしない おとなしい子だったからだろう。
 休み時間は あまり外で遊ばないで 先生の机の周りでほとんど過ごした。
印刷物を揃えたり 掲示物を張る手伝いなどをした覚えがある。

 あまりにも体が弱いから 五年生になる頃
母に連れられて T市にあった整体院まで 定期的に通った。
 すると時期もきていたのだろう。
 徐々に体も大きくなって 学校を休むのも少なくなっていった。

 そして 今までは担任が女の先生ばかりだったのが
五年生になって 初めて男の先生が担任になった。
 若い盛りの それも体育の先生だったから 緊張もしたが新鮮だった。
 そして なによりよかったのが 先生の方針だった。

 クラスのみんなが あまり挙手しなかったのだろう。
先生は 毎日の挙手の回数を グラフにして大きく張り出した。
自然にみんな競争のようにして挙手した。

 それまで 私は先生の質問の答えが解かっていても 挙手などしない子だった。
 それが やっぱりグラフを伸ばしたいから おずおずと手を挙げた。
 すると 先生はそれを見逃さず 私を指名された。
 答えが合っているから 先生はそれを大げさに認めてくださった。
 何回もそんなことが続くと 自然に自信がついていった。
 勉強することが楽しくなっていった。 成績もそれに連れて上がっていった。

 こうして 他人の前で自分の意見を述べることに抵抗や恥ずかしさを感じなくなった。
 もともと私の中にあったものを 先生が見出して引き出してくださったと感謝している。

 卒業までの二年間 この先生にお世話になった。
 この二年間が 確実にそれからの私の礎になった。

 私が教師になりたいと思った初めの動機が作られた二年間だった。

 


 サッカーのワールドカップ大会が始まった。
 サッカーには 正直言って特に興味がない。それなのに何故ワールドカップかと言うと

 私の場合 大大好きな歌のグループに関連しているからだ。
 それは 「イル ディーボ 」!!

 彼らは 何回か前に開催されたドイツでの大会の開会式で歌ったのだ。
 それまで彼らの存在は全く知らなかった。
 
 開会式での彼らの歌声を聴いた時 心の底から震えが起こったような気がした。
 それ以来 彼らの大フアンになってしまった。

 それからしばらくして まだ独身でいた娘と電話で話し時に
お互い 彼らのフアンだとわかってビックリした。
 すると 私の誕生日プレゼントにと 彼らが来日してのコンサートに
連れて行ってくれた。
 東京と名古屋でのコンサートのチケットが入手出来ず 大阪まで行った。
いい席をとってくれたから 初めから終わりまで彼らの歌声を堪能した。

 彼らは四人のグループで ヨーロッパとアメリカから 厳しい選抜で集められた。
 グループが結成されたときには メンバーの各人が完成された歌手として
しっかりとした基礎を持って 各分野で活動していた。


 後日談によると メンバー同士 初めは掴み合いになるような衝突もあったという。
 今のように 世界的に認知度の高いグループになるためには
しっかりとした信念でメンバーを決めたプロデューサーの力が大きいのは勿論だが
彼ら一人一人の抜群の歌唱力がある。
 ちなみに 「イルディーボ」とは「神の声」の意味なのだそうだ。
彼らの歌を聴くと「さもありなん」と思う。

 そんなわけで 以来私は 「イルディーボ 」が大好きだ。

 サッカーのワールドカップで 彼らの歌声を聴く機会がなかったら
私の生活の幅は 今よりもっと狭いものになっていただろうと思う。
 

 私は ばあちゃんが大好きだったから よく一人でも泊まりに行った。

 幼い時から一人で汽車に乗り 二駅隣のT市まで習い事をしに 週一回通っていた。
 その帰りには汽車でなくバスに乗って ばあちゃんの家のあるバス停で降りた。
 そして 吊り橋を渡って歩いていった。
 途中には細道に沿って山から清水が引いてあった。
 喉が渇くと 傍に生えている蕗の葉っぱを丸めて器にして その冷たい水を飲んだ。

 突然行った私を ばあちゃんはいつも 「来たか」 と笑顔で迎えてくれた。
 そして 私のために食材を買いに カゴを背負って 歩いて遠くのお店まで行ってくれた。
 「うりすへ行ってくるでな。留守番しとるんやよ」 そう言って出かけて行った。
 つましく暮らしていたおばあちゃんにとっては 思わぬ出費だったにちがいない。
 でも 子供の私には 思い至らないことだった。

 山際にあった小さな家だったから 猫と犬が遊び相手だった。
 下のせせらぎへ下りて行って 遊んだりもした。そうして留守番をした。

 その祖母が亡くなる少し前 訪ねて行った私に 自分が大切にしていた抹茶茶わんを
そっと渡してくれた。 それが祖母の形見になった。

 使いこまれて ちょっと汚れたような楽の茶碗が 私にとっては 「お宝」だ。

 昨日 雨が降らないうちにと 夫が二回目のホウ葉をとってきてくれた。
 葉っぱがあるからには作らねば と 早速もち米を洗い上げて もちを搗いた。
 ホウ葉の上に丸めてのせ 葉を二つ折りにしたら完成だ。

 東京の孫が おもち大好きだから食べさせたい。
 それで 今日送った。明日の午前には着くだろう。

 子供のころ 春の農繁期には ホウ葉寿司 ホウ葉もち や 田植えが終わると
それぞれの家で牡丹餅を作って 近所や親戚に配った。

 そのお使いは たいてい私だった。
 重箱に入れた牡丹餅を風呂敷に包んで持って行く。
 挨拶の口上を述べ伝えると 相手方の家のおばさんやおじさんは
牡丹餅をその家の器に移して 重箱を返してくださる。
 その時 おつかいのお駄賃に二十円くらいを 私にくださった。
 何軒も牡丹餅を持ってのおつかいをすると 当時の私にとっては
かなりのお金が溜まった。

 春と 秋のおはぎを持ってのおつかいを合わせると随分溜まった。
 子供心にとても嬉しかった。

 このお金については 一つ忘れられない思い出がある。
 その時 私は三百円以上持っていた。

 その頃 確か中華そばが百五十円していなかった。
 私は その中華そばが大好きだったから つい嬉しさのあまり
 「これだけで 中華そば三杯食べられる」 と 言った。
 すると 当時 病弱だった母方の祖母が 我が家に滞在していたのだが
その祖母が 
 「なんて品のないことを言うの!よりにもよって食べ物に比べて言うなんて!!」
と それまで見たことのない恐い顔で 厳しく私を叱った。
 その場に父も母もいたが ただ黙っていた。

 祖母は早くに連れ合いを戦争で亡くし 女手一人で七人の子供を育てあげた
気丈で 自分を厳しく律して生きてきた人だった。
 生まれがよかったから 野良仕事の合間に たんぼの畔で休む時には
やかんでお湯を沸かして 野点碗でお抹茶をたてて飲むような人だった。
日ごろは 口癖のように
 「貧すれば鈍すって言う そうならんように生きなければ」
 「後家婆さんの子は三文安いってな 他人に後ろ指指されんように」
そう言って母たちを育てたような人だった。

 厳しい人だったが 私は大好きだった。
 その大好きなばあちゃんに叱られたことがショックだった。

 この時の祖母の教えは 大人になるにつれて 身に沁みた。
 そして 叱ってくれたことに感謝した。

  この祖母の言葉が 私の胸の中にずっと生きている。 続きを読む

 一昨日 自分の不注意で パソコンの充電器を壊してしまった。
 それで昨日 病院の帰りに 電気屋さんへ寄った。

 店員の話では この充電器は単独では売っていないという。
そして スマートフォンの充電器なら 力は弱いが代替品になるという。
それで 奨められるスマートフォンの充電器を購入してきた。

 今日は しばらくぶりに I さんにパソコン指導に来ていただく日だった。

 習っているうちに パソコンの電源がなくなってきた。
早速昨日買ってきた充電器をコンセントに挿して 充電しながら使おうとした。

 ところが 初めのうち充電のサインが点滅していたが
あれ?と思う間にそのサインが消えてしまった。
 「どうして?どうして?」 慌てた 慌てた!
もう一度 差し込み直してみるが やっぱり同じ。

 すると さすがは I さん!
 自分が持ち歩いているスマホの充電器を パソコンに差し込んで
パソコン本体の不具合か 買ってきたばかりの充電器が悪いのか
確かめてくださった。

 やっぱり充電器が悪かった。
 それで これも I さんの勧めで 充電器を買ったお店に電話して説明した。
折り返し 電話するといわれる。
 続いて パソコンの製造会社へも電話して 単独で充電器が買えないか問い合わせる。
 ネットでも 充電器は購入できることがわかり 早速注文した。

 お店からは 同じ充電器を持って これから家までくるという。

 そんなことをしているうちに 時間が過ぎてしまった。

 せっかく久しぶりに いろいろ教えていただきたかったのに
思わぬことで その時間を逃してしまった。残念!!

 大切な時間を割いて わざわざ来ていただいたのに
I さんには申し訳ないことをしてしまった。

 それでも I さんは嫌な顔をせず また連絡をね と帰って行かれた。

 I さん これに懲りず またよろしくお願いいたします。

 恥ずかしい思い出も 記録に残しておかなくてはならないだろう。

 小学校三年生の出来事だった。

 その頃のトイレは(当時は便所とよんでいた)汲み取り式で
それぞれの室の床が真ん中だけ床板がないような 簡単なものだった。

 同じ敷地に建っている中学校のお兄さんやお姉さんが ある程度いっぱいに溜まると
汲み取って 学校の裏にあった畑へ 肥料としてまいていた。

 その時は 多分もうすぐ汲み取りの時期だったのだろう。
足の下には かなりの量の糞尿が溜まっていた。

 ある日の昼休み 私は一人で便所へ行った。
そして 用を済ませた後 またいでいた片足をもう片方の足のほうへと持ち上げた瞬間
何故そうなったのかわからないが 持ち上げたはずの足が溜まっていた汚物の中に!!
反射的にすぐに引き上げたが すでに遅し!
膝下の辺りまでが 上靴ごと汚物まみれになってしまった。
どうしていいのかわからなかった。

 それでも気を持ち直し 手持ちのはな紙の全部を使って拭い落とそうとしたが
 汚物は少しは落ちても 匂いが凄い!!

 足を洗わなくてはならないが 足洗い場までは遠い。
 それに そんな恰好で便所から出るのもはばかられる。

 しばらくは泣いていたと思う。
 でも そのままではいられない。

 勇気を出して便所から出て 足洗い場まで廊下を走った。
 それまでは「廊下は走らない」を守っていたが そんなことは言っていられない。
 思い切り走って 足洗い場へ行った。
 廊下には 誰かいたに違いないが 目に入らなかった。

 必死に水道水で流し洗ったが 強烈な匂いはどうしようもなかった。

 そのうち 昼休みが終わって五時間目の始業の鐘が鳴った。
私はまだ足洗い場にいて なんとかならないかと足をこすっていた。
しかし 匂いは取れない。

 このまま教室へは帰れないと思った。
足洗い場は 幸いなことに外の運動場側にあったから
私は意を決して そのまま誰にも言わないで 家へ帰ってしまおうと思った。

 家まで走った。泣きながら走った。
 片足だけ上靴を履いて 汚れた片方を持って裸足で。
 家から学校までは 子供の足でも歩いて十分くらいだったから
走れば数分で家に着く。

 泣きながら 突然帰宅した私に 母は驚いただろうが
多分 私の様子から状況を察したのだろう。
 怒られなかったことだけは確かだ。

 そのあと学校へ戻ったかどうか 覚えていない。
 母が学校へ連絡してくれたのかもしれない。

 次の日 みんなから何か嫌がらせを言われたり からかわれたらどうしよう
ビクビクもので登校した。

 先生にも黙って帰ってしまったことを叱られず クラスのみんなからも
なにも言われず ホッとしたことを覚えている。

 ランドセルも教室に置いたままだったし 翌日の時間割や宿題もあったはずだが
おそらく母が学校へ行き 先生に訳を話してランドセルを引き取ってきたのだと思う。
 先生も話を聞いて 私の失敗を黙っていてくれたのだろう。

 必死に走って家へ帰ったこと以外 それからどうしたのか全く記憶がない。

 多分だが あまりにも嫌な失敗だったから脳が覚えていることを拒否したのではないか。

 今でも あのときの足に着いた汚物とひどい匂いが 鼻先にあるような気がしてくる。


 
 

 あまり親に口答えや反抗もしない おとなしい子供だった私が
ひどく母に 泣いて怒って反抗したことがある。

 中学二年の時だった。

 決して豊かではなかった我が家では 私と弟が 何か欲しい品物があるとき
二人が 順番に買ってもらう というルールがあった。

 その時は 私が買ってもらえる番だった。
 私は そのころ 近所の洋服店のウインドウに飾ってあった 
薄いブルーのブラウスが とても欲しくて 「今度は私の番」 と 
毎日学校の行き帰りに眺めては 楽しみにしていた。

 ところが 自分はもう欲しかった品物を買ってもらっていたにもかかわらず
弟が また欲しい物が出てきたらしく 母に強くねだり始めた。
 ねだるだけでは買ってもらえないとわかると                                               もう六年生になっていたにもかかわらず
弟は 小さな子供がするように 泣きながら寝転がってのやんちゃを始めた。

 すると 母はあまりの弟のやんちゃ振りに根負けして 弟の欲しがっている物を
買ってあげてしまった。

 「私の番には」 と思ってとても期待して待っていた私は その理不尽さに腹が立った。
弟の我儘にも それを分かっていてなおかつ それに負けて 約束を破って
買ってあげてしまった母にも ひどく腹が立った。

 私は 母に泣きながら抗議した。
 母は私がそのブラウスを買ってもらうの心待ちにしている事を知っていたからだ。

 日ごろおとなしい私の反抗だったし もっともな抗議でもあったからだろう。
 母は 黙ったまま私の言うことを聞いていた。
 一時間もしないうちに 母は洋服店へ行き 欲しがっていたブラウスを買って来て
私がふてくされ布団を被って寝ていた枕元に そっと置いた。

 家の経済事情が分かっていた私は 複雑だった。
 弟の物だけでもなのに私の物まで 一度に二つもの買い物をさせてしまった。

 たった一回待てば 次には自分の番がくるのに それなのに・・・

 そんな出来事や思いのあるブラウスを欲しいという気持ちには
もうなれなかったし ましてや いくらそれまで欲しかったブラウスでも
もう着る気にはなれなかった・・・

 だから せっかく母が慌てて買ってきてくれたブラウスだったが
それを着ることは一度もなく過ごしてしまった。

 真新しいまま ブラウスは年数だけ手元にあったが
いつの間にか どこかへいってしまった。

 母に無駄な買い物をさせてしまった という悔いが今もある。 続きを読む

 夫の実家を継いでいる義弟夫婦と その子供たちの家族と 
我が家の長男家族と私達夫婦 という 身内だけが集まっての 義母の法事を
義弟が催してくれた。

 身内だけで和やかに という義弟夫婦の心遣いから
仏前でのお経のあとの食事も 実家でおよばれした。

 甥や姪 その子供たちとは 気を許して話せるから 座は本当に和んで
楽しく飲み 食べさせていただいて帰ってきた。

 座の中に 一人でも雰囲気を壊すような言動をする人がいると
どれだけご馳走が並んでも楽しくない。

 実は一人 必ず座を壊す者がいたのだが あまりにひどい言動から
我が家も実家も お付き合いをご遠慮願っている。
 だからそれ以後というもの 集まっても 皆の顔つきが柔らかくなって                                冗談を言い合って笑えるようになった。 

 親戚付き合いで 気を遣わなくてもいいのは 本当にありがたいことだ。

 ここ何年か 孫の運動会には 朝早くからホウ葉寿司を作って持って行き
息子の家族と一緒に食すようになっている。

 初めは単に 夫と私の分までお弁当を準備してくれる嫁のために
何か一品持って行けばと し始めたことだが それが恒例になってしまった。

 どのみち 季節がら 一度や二度は毎年ホウの葉を採ってきて作るから
それが運動会と重なっただけで 別にどうということはない。

 前日に 夫は畑から葉っぱを採ってきておく。
 寿司めしの上に載せる食材も いろいろ買ったり作ったりしておく。

 それを ホウの葉の上に寿司めしをよそい 彩よくトッピングしていく。
 最後に葉を二つに折っておしまい。

 みんな喜んで 「美味しい 美味しい」 
          「おばあちゃんのホウ葉寿司は具がたくさんだから嬉しい」
と言って食べてくれる。

  たしかに 昨今はスーパーでも季節になると 数個をパックに入れて売っている。
  でも お店のは 具がほんの数種類しか乗っていない。
  家庭の手作りならではの 具だくさんのホウ葉寿司 季節の食べ物だ。

  嫁が作って行った 子供の好物のおかずもあるから
 みんなお腹いっぱいで 満足満足!

  孫たちが 私が作る「蕗味噌」も「ホウ葉寿司」も大好き と言ってくれるから 
作る方も 頑張る意欲が出てくるし 作り甲斐もある。

  案外こんなことが 私を支えてくれているのかもしれない。

午前中 玄関周りの飾りを替えた。
 子供のころ行事などを旧で祝ったせいか 未だに我が家の飾りや行事は旧でする。
というより 新から旧まで替えないで 片づけない。
 だから 玄関の飾りは 今日まで「端午の節句」バージョンのままだったのだ。

 「長い間ご苦労様」と 声をかけながら 小さなモノたちを紙や布で包み 
それぞれを箱に収める。
 次に 「さあ 出番よ」 と声をかけて 今日出すモノたちを箱から出す。

 これらは 生前母が集めていた茶道具や 私が好きでもとめモノの中から
季節や行事に合わせて選ぶ。

 梅雨や鵜飼に因んだ小物を数点 小さな飾り棚に並べる。
 掛け花入れも 涼しげな竹籠に。

 絵も 「鵜飼」 に替えたいが 仕方がない。夫に頼まねば。

 替えが一応終わると なんだかしっくりこないモノもあるが
これはおいおい 何か他のモノと替えていこう。

 こんなことをしているうちに 私の午前が終わる。
 
 他人からみたら なんて他愛もないことを と思えるだろうが
私には こんな時間が一等楽しくて 嬉しい時間なのだ。

 うちのお嫁さんは 体が大きい。
 縦横が 平均以上のサイズだ。

 かく言う私も 縦こそ同年齢の女性の平均前後だが
横のサイズは かなりのものだ。
 若い頃には もっと幅があった。

 長男の嫁は その頃の私に負けないサイズだ。

 よくもまあ よく似たサイズの女性を選んだもの と 息子の審美眼には
恐れ入る。 あえて 審美眼と呼びたい。

 彼女が私と違うのは性格で 特に 子供に対する接し方が私と大違い。
 
 思い返してみると 私はいつもキリキリしながら子育てしていたようだ。
 その点 彼女はゆったりとおおらかに子供を育てている。
 大声をあげて子供を叱っている姿を 一度も見たことがない。
 まるで「母性の権化」のように 例え子供を叱る時でも諭すように言い聞かせている。

 子供相手に 角を出さないで気長な子育てをしている この嫁の姿は
小姑に当たる娘にもいい影響を与えているようで 彼女の姿を見て 娘は
 「**さんは スゴイ!」 「よくあんなに気長に子供に接していられるね」 と
感心して言う。
 
 娘だけでなく私もまた 嫁の寛容さやおおらかさを見習わねば と思っている。
しかし 思ってはいるが この歳までくるとなかなかのこと 難しい。
 
 

  私の母は優しい人だったが 行儀の悪い事をしたり  してはいけない事をしたり
すると 私や弟は 非常に厳しく叱責された。
 殊に私は女の子だったし 上の子だったから 母は厳しかった。

  兼業農家だった我が家は お世辞にも内証が豊かとは言えなかったが
それでも 本好きな母は 毎月自分の雑誌と 私達子供二人の本を
 定期購読してくれていた。

  ある冬 私が三年生の時だったろうか。雪がかなり降っている日だった。

  雪の中を 母から本三冊の代金を持たされて 駅前の本屋さんへお使いに行った。

  本代はいくらかの硬貨のおつりがあった。
  そのおつりと三冊の本が入った手提げ袋を持って 片手で傘をさして帰った。
  

  家へようやく帰り着いて母におつりを渡そうとすると 入れたはずのポケットにない。
  手提げの中にも他のポケットにも どこにもおつりがない。

  母は怒った。 
  いい加減な入れ方をするから どこかに落としてきたんだろう。
今すぐに来た道を引き返して 見つけてきなさい!! と叱られて 
雪の中 泣きながら来た道を逆にたどって 目を凝らして探した。

  なにせ 雪降りの中のこと。
多分落とした時にも 雪の上だから 音がしなくて気づかなかったにちがいない。

  今来た道の足跡の上にも どんどん雪が降り積もっていく。


  それでも 夕方になって暗くなったら まったく見えなくなり見つけられないからと
子供ながらも  焦る気持ちを抑えて 真剣に雪道の上を探して歩いた。

  自分の長靴の跡をたどって 道の半ばぐらいまで戻ると
半分雪をかぶった十円玉が ポトリポトリと 落ちているのを見つけた。
よく辺りを探してみると 残りの五円玉や十円玉も落ちていた。

  おつりは全部見つかった。

  安堵感で 今度は嬉しくて泣いた。
 
  泣きながら家へ帰ると 多分見つけられないだろうと思いながら
私の帰りを心配して待っていた母に 謝りながら見つけたお金を渡した。

  あのときの母の顔を今も覚えている。

  寒い 雪の降りしきる中を お使いに出してしまったことの後悔。
  僅かなお金を落としたと責め 夕方近い時刻に探しに出してしまったことへの後悔
  等々・・・。
  私が必死に探している間 どんなにか母は自分を責めていただろう・・・。

  自分の体が寒さに凍えそうになっているにもかかわらず
母の胸の内を 子供心に あの母の顔から察したと思う。

  それからも本屋へのおつかいは続いたが 絶対にお金を落とすことはなかった。

  優しかった母に 厳しく叱られた思い出の中の一つである。