FC2ブログ

 午前十時半ごろ 携帯に娘からメールが入っていた。
娘夫婦と孫娘は 婿の妹の結婚式に出席するために 今日イギリスへ飛んだ。
 式には 着物で出席すると言っていたから 彼女のトランクには 着物や草履バッグ等
が 小物と一緒に詰められていただろう。
 日本の着物を見慣れないイギリスの人たちが 娘の着物姿に どんな反応を示すか
帰国後 みやげ話を聞くのが 今から楽しみだ。
 娘から 搭乗前のメールが送られてきたころは
 ちょうどその時間に診察を受けていたので メールを受信したことに気付かなかった。
 おまけに今日は 診察までの待ち時間が長くかかり その後の点滴 痛み止めの注射
が だんだん時間が遅れていった。
 会計窓口で順番を待っていて メールに気付いた。
その時間には 娘たちはもう 空の彼方だった。
 三人は 元気に成田から飛び立ったらしい。
 搭乗前に いっていらっしゃい を伝えられなかったのは残念だ。
 年に何度も国外へ旅する娘たちだが その度 無事に帰ってくることを願いながら
元気な帰国報告の声を待つことになる。

今回も なにごともなく帰国し また可愛い孫の声が聞けるのを待っている。
スポンサーサイト

  昨夜 テレビで衝撃的なドキュメンタリーを視た。
  真剣に生きた果てに 老後 破産して 明日の暮らしさえも覚束ない生活を送り
 毎日不安でいっぱいのなかで生きている・・・というものだった。
 体が悪くても病院へ行けない 薬代がない 介護を受けたくてもお金がない・・・
 それどころか 今日食べる物さえない 電気代も払えない生活・・・。
 どの老人も孤独で 人間としての尊厳さえも剥ぎ取られ 生きる意味さえなくしていた。
 例え 住む家が持ち家で田地があっても それが枷になって生活保護が受けられない。
 日々 厳しい現実に晒されながら こんななら 早く死にたい 死ねたら と願っていた。

 番組が進むにつれて 胸がつまり思わず涙が流れた。
 自分を待ち受けているかもしれない生活の 過酷さの一端を見せられた想いがした。
 番組に登場した老人だとて 溌剌として毎日笑っていた若い日があった。
 だれが 今の惨めな老後を想像しただろうか。

 我が身に引き換え 彼らに比して 子供があるだけましか 
 なんとか生きていけるだけましか とも想うが 明日のことはわからない・・・。
 何故なら あれほどの貧困生活の経験がないからだ。
 
 それにしても 国は残酷だ。
 真面目に生きて老いた自国の老人に あのような生活をさせて 知らぬ顔はないだろう。
 福祉に回す名目で税金を上げ 豊かな老後をうたって介護保険料を徴収し 
その結果 この国の老人の有様は どうだ。
 あの人たちからだって 若い頃の収入から 税金はしっかり取っておきながら
収入がなくなって老いたら 知らん顔はないだろう。

 いくら寿命が世界一になっても 長生きした果てがこんなでは 
世界に対して恥ずかしくはないか。

 以前訪れたデンマークで 寝たきりの老人が 二十四時間の手厚い介護を
国から受けていたことを思い出す。
 体が多少不自由でも 国の費用でピアノの講師を派遣してもらい 在宅で
趣味の時間を楽しんでいる老人もいた。
 
 なんという違いか。
 老後の生活のあり方に もっと心を寄せて 
老いても幸せを感じながら日々を送れるよう せめて食べることと病気に関すること位は
心配しなくていいように 国の政策がなされることを 切に願う。

  義弟は 長く単身赴任していたが 退職後は実家へ帰り 民生委員などをして
地域のために 働いている。
  現役で働いているうちは 時々回ってくる役員のほかは あまり地域との関わりは
ないようだったが 今は お年寄りのお世話をしたり 地域のために
一生懸命動いているようだ。
  
  地域と関わっているうちに 仲間に入れてもらったらしく
蜂の子取りもするという。
  この地方では 蜂の幼虫を ヘボ というが 蜂に目印を付けて飛ばし 巣をつきとめる。
  蜂の巣をとったら 幼虫を取り出して それを炊き込みご飯に入れた
蜂の子飯を炊いたり はちみつを採ったりするようだ。
  これは何人かの人がグループになってでないとできないことだ。

  また 増えすぎた猪や鹿を やはりグループになって捕るグループにも
入れてもらっているらしい。
  グループ内でそれぞれ役割があって 義弟は 獲物を追い立てる 勢子の一人だ。
  そして 仕留めた獲物は グループのメンバーで分けるという。
  よほど信頼されない限り そのようなグループのメンバーには
誘ってもらえないから 義弟がどれほど地域のために働いているかがわかる。

  ところが せっかくの獲物なのに 義弟の子供たちは 誰もその肉を食さないらしい。
  だから ジビエ大好きばかりがいる我が家へ それらの切り分けられたお肉が
まわってくる。
  スライスされたりカットされたりしたお肉は まったく匂いがなくて 食べやすい。
  仕留めた後 すぐに上手に処置するかららしい。
  家族が集まってのバーベキューには たくさんの鹿や猪のお肉は とても助かる。
  子供たちもその連れ合いたちも孫たちも 喜んでモリモリ食す。
  なんとも 我が家にとっては ありがたい。

  最近ジビエのことが 時々マスコミにとりあげられるが
我が家は 労さずして その流れのおこぼれに預かっているというわけだ。
  その替わり 我が家からは 夫が作った果物などが実家へいく。
  兄と弟で うまい具合に おいしさを分け合っている。

  こんな関係が長く続けられるように 二人がいつまでも元気でいてくれたらと
 思っている。
  

  昔 子供たちがまだ小さくて 上の二人が小学生だった時
 家族で 御嶽山に登った。
  前年までに数回 岐阜県側から 白山に家族で登っていた。
  白山の岐阜県側からの登山道は かなり厳しく険しいが
小さかった子供たちは 必死で登った。おまけに その日のうちに下山するという
かなりきつい登山だった。
  何故そのような登山だったかというと 地元の子供たちが 
そうして登っていたからだった。 地元では それが白山の普通の登り方だった。

 そんなハードな登山経験があったから 御嶽の整備された なだらかな登山道は
えッ こんなに楽なの? と思えるほど 子供たちも楽しく登った。

 はるか昔に登ったあの御嶽が 物凄い噴煙をあげて噴火した。
 あまりにもひどい有様に夫と二人 テレビの映像にくぎづけになった。
 ほら あの山小屋で休んだよねえ・・・
 かなりの高度まで樹木があって 登山道も広くて整備されていて よかったよねえ・・・
 しばらくは 恐ろしい噴煙をあげる様子を視ながら 
思いがけず 二人してあの時のいろいろを思い出していた。 

 しかし 登っていて被害に合われた方々は とてものことそんな余裕はないだろう。
 もしかしたら 命も危うかったのだから。 命からがら噴煙から逃れたというから。
 中には 今も火山灰に埋もれたままでいる方もあるとか。
 早く 救助に行ってあげてほしい
 早く 下山させてあげてほしい
 
ただ ただ そう 願っている。

  右手親指の付け根の靭帯を手術したが その後親指のしびれがとれない。
  何故かだるさを伴った痛みもある。
  神経が引き攣れているようで 何かの度にビリビリが 親指の先まで走る。

  足腰の痛みのリハビリに通っている整形外科の先生は
  切開する時に 靭帯の両側にある神経を広げておいて切るから
 そのせいでまだ神経の状態が 元に戻っていないのではないか
 時間はかかるかもしれないが 次第に治ってくると思う
  と おっしゃるが たった親指一本のことなのに とても不自由だ。
  触れる感覚はかすかにあるのだが 絶えず痺れていて 気持ちが悪い。
  感覚がなくなっているから 物を持っても 取り落としたり 力が入っていなかったり。
  実に 不都合この上ない。

  余計なことだが 私は 元来左利きだ。
  それを 小学校へ上がる頃に 母に叱られ泣きながら 右手を使うようにさせられた。
  それまで 毬つきも字を書くのも 左手だった。
  当時は 優しい母親が 突然厳しく躾けるのが 鬼のように想えて 怖かったり
悲しかったりしたものだが あの時 無理を強いても直してくれたからこそ
箸使いや毛筆習字や裁縫など 右手で不自由なくできるようになった と感謝している。

  現在は 無理に矯正することはよくないらしく 左利きの子供は
そのまま 学校にあがる。
  左利き用の道具も 開発されて市販されている。
  しかし 日本語は 平仮名も漢字も 右利きでないと なかなかきれいには
書けないのが現実だ。
  特に 毛筆習字は 絶対に右利きが有利だ。
  今でも 日本の中で暮らすには 生活は断然右利きが有利なことが多い。
  もちろん 左利きが悪いとは思っていないし 差別するつもりもない。

  我が家の子供たちを育てる時 赤ちゃんの時から このことが頭にあった。
  手で物が掴めるようになった頃から 左で握るのを さりげなく右手に持ちかえさせた。
  私のように 無理な矯正をさせたくなくて 物心がつかないうちにと思ったからだ。
  おかげで 三人の子はどの子も 生来右利きであるかのようだ。

  ともかく 早くこの痺れや感覚の鈍さが 薄れてほしい。
  似非右利きの身には 今の状態が 鬱陶しくてしかたがないのだ。
  
  
 
 
 

  夜半 目覚めてベッドに腰掛け そっとカーテンを開けてみる
  通る車もなく 近隣の物音も途絶えて 皆 深い眠りのなかにある
  中天に昇った欠けた月の ほの白い光に照らされ
  辺りが ひっそりと浮かび上がって見える
  ただ 虫たちのさざめく声が 遠く近く 窓の外から聞こえてくる

  痛みに目覚める夜半だが
  虫たちが騒ぐこの季節だけは 彼らの澄んだ音色が 傷んだ体を慰めてくれる

  こんこんと眠る夫を気遣い 静かにベッドを抜け出す
  ひそかに居間の灯りをともし 読みかけの本を開く
  登場人物たちが 物語の中へ私を誘っていく

  どれほど時間が経っただろう
  虫たちは 相変わらずの恋模様を 強く弱く奏でている
  草むらの儚い恋は どんな結末を描くのだろう

  少し冷えた体をベッドへ運び 夫のかたわらに横になる
  まだ夜明けまでには間があるようだ
  眠りのなかへ帰っていこう 
  虫の音を聴きながら

  目覚ましが鳴るまで

   

  今年のどんぐりは凶作 随分前から新聞は記事にしていた。
  
  昨夜半から激しかった雨が 午前中に止んだ。
  久しぶりに 散歩した。
  いつもの散歩道には 何本かのどんぐりの木がある。
  初めは小さな細い木だったのが 今では道を覆うほど大きくなって 見上げるほど
はるかに高くそびえている。
  毎年秋になると このどんぐりの木から 道にたくさんの実が落ちてくる。
  それを拾うのが この時期の散歩の楽しみでもある。
 
  それが 今年は全くといってもいいほど どんぐりが落ちていない。
  今日の散歩で拾えたのは たったの十四個。
  去年は 一度に百個はゆうに超える数を拾ったのに。
  それに 毎年ならば おそらく夜分に食べにくるのだろう 
 けものたちの匂いが この時期 辺りに漂っている。
  それが 今年はその匂いが全くしない。
  毎年食べに来るけもの 多分アナグマかなにかだと想うが 
来ても実が落ちていないから どこかよそを探しているのだろうと想う。
  他の山や山裾にだって 今年のどんぐりは少なかろうに。

  食べ物を求めて山をさまようけものを想うと なんだか可哀想になる。
  とはいえ 餌を探して里にまで出没する 熊やいのししの被害が大きくなるのは
困ったことだ。

  拾ってきた今年の貴重などんぐりを 玄関の飾り棚に そッと転がした。
  どんぐりは コロコロと乾いた音を立てて 可愛く無邪気に転がった。
  

昨日は お彼岸の中日だった。
  夫と私は 畑でとれた栗で 栗きんとんを作り 栗おこわを炊いて
 夫の実家を訪れ 仏壇にお供えして お墓参りをした。
  あいにく 実家の義弟のお嫁さんは 仕事で留守だったが 義弟は在宅だった。

  栗は 義父が夫に遺してくれた畑に木を植え 夫が丹精込めて育てた。
  その木からとれた栗の実は つややかで大振りの実だ。
  それを二人で 茹でた後 実を丹念にほじくって出し潰して 少々の砂糖を加える。
  それを 一つの重さを量って 絞るようにして形を作る。
  形作った後は 問屋から取り寄せた専用の包み紙で丁寧に包む。

  その間に 小豆を混ぜて栗を乗せておこわを炊いた。
  炊き上がった栗おこわを重箱に詰めてごま塩を振り 南天の葉を添えた。
  私の生家では 赤飯を炊いて上にゴマをふっても 南天の葉は添えなかった。
  夫の亡母は 赤飯を持って来てくれる時には 必ずこうして南天の葉を添えて
 持って来てくれたものだった。
  秋のお彼岸なのだから 本来ならお供えには おはぎなのだろうが
この南天の木の葉に想いがあって あえて栗おこわにしたのだった。

 仏壇にお参りした後 夫と義弟は 自分たちの先祖に想いを馳せ
しばし ご位牌を眺めながら 話し込んでいた。
 兄弟の それぞれにいろいろあった齢を経ての 穏やかな心地よい時間だった。

 年月は 水のように ある時は坂巻きある時はとうとうと流れる。
そして 川幅を広げながら 大海へと注いでいく。
 人もまた 水の流れのように 穏やかにゆったりと大海へと流れ着くのだろう。
 
 同性の姉妹がない私には 和やかに話しする二人が とてもうらやましく思えた。       

 今月23日にアメリカで開催される 国連気候変動サミットで 2050年9月23日の気象の
予報が発表された。
 日本は お彼岸になっても激しい暑さにが収まらず 熱波の影響で 京都の紅葉の
見ごろは クリスマスごろになりそうで 季節感は 今と全く変わってしまう
 と NHKのお天気キャスターが予報を 発表した。
 猛暑が続きスーパー台風も接近するそうだ。そうなると大雨に対する最大級の警戒が
必要になる との予報も。

 2050年には 私は生きていないが 孫の世代が中年になる頃だ。
 子供たちはまだ生きているだろう。
 近未来の天候が まさかこのようになるとは・・・。

 地球を温室効果ガスが蓋い 地球は今よりかなり暖かくなっているらしい。
 昨今の日本の 季節感の狂ったような気候からも これらの予報が
とてつもなく奇想天外なことではない とわかる。

 孫子の代に このような日本を残していいのだろうか。
 激烈な暑さの夏の日 強烈な紫外線の中では戸外のプール遊びもできないだろう。
 夏だけでなく 冬の天候も変わっているだろう。
 雪は今より降らなくなっていて 夏場は激しい水不足をきたすに違いない。
 水不足は 一年中に及ぶかもしれない。
 農作物も かなり種類が違ってくるだろう。 南洋の植物が増える。

 考えるだけでも 今の環境が激変しているだろうことが 容易に想像できる。
 
 予報を単に予報で終わらせるために 私たちに求められていることは何なのか・・・
 真剣に考えなければいけない と 新聞記事を読みながら強く想った。

 

 午前中 渋る夫に頼み込んで 久しぶりに 産直市場へ行ってきた。
 このところの 野菜の高値の影響が大きいらしく 買い物客で混雑していた。
 レジに並ぶ人をかき分けて 商品棚までたどり着くのが大変なくらいだった。
 どの野菜も スーパーよりかなり安価で求められるから 主婦は殺到する。
 この私もその一人だ。
 朝採りの新鮮な野菜が 飛ぶように売れていく。
 息子と娘への分も買うつもりできたから 二つのカゴは一杯になった。
 長いレジの列に並ぶが あああれも買うとよかったかな と欲が出て来る。

 我が家の畑で 様々な野菜が作れたらいいのだが なにせ毎日世話に通うには遠い。
 だから 野菜は玉ねぎやジャガイモ等の あまり手間のかからないものを植える。
 葉物は 毎日の食卓に欠かせないから 猫の額ほどの庭で少しだけ作っている。
 先日は 茄子やトマトの後に 小松菜の種を蒔いた。
 夫の実家の正月の雑煮は 小松菜を使う。小松菜だけの碗にお餅が入った
簡素な雑煮だ。
 この辺りの家々は すべてこの雑煮を食べる。
 だから お正月に 正月菜と呼ぶ小松菜は 必須の野菜なのだ。
 今 種を蒔けば 年内に一度収穫できるから 来月半ばにもう一度蒔く。
それが お正月頃に ちょうどいい塩梅に大きくなっている。
 せめて お正月の雑煮碗の中ぐらいは 我が家で育てた野菜を と想っている。
 
 それにしても 今日行った産直市場の賑わいは 主婦のお財布の締まりの硬さが
窺われて 面白かった。
 

 私の高校生活は 様々な事情から 鬱々としたものだった。
 そんな中 気を晴らしてくれたのは 映画だった。それも 石原裕次郎の映画だった。
 カッコよさとスカッとするアクション観たさに 裕次郎の映画がかかると必ず観に行った。
 当時 高校生が一人で映画館へ出入りすることは 校則で禁止されていた。
 それにも拘わらず 臆面もなく制服を着たまま 放課後映画館へ行った。 
 しかも 映画館通いは 生徒会の重要な任に就いてからも変わらなかった。
 今想うと見つかれば停学 あるいは学校での任を考えれば退学もあり得ただろう
大胆な行動だった。
 先生方は ひょっとしたらご存じだったのだろうか とも想う。
 普段真面目一方の生徒だったから 密かに目こぼししてくださっていたのだろうか。

 映画館通いだけでなく その頃 レコードや ソノシートなるレコード状の物を
街の中心地にあった楽器店で 裕次郎のものが発売になると 必ず買った。
 それほど 裕次郎に夢中だった。

 そんなことに遣うお金は 父母からは貰っていない。
 高校に入ってすぐの頃 近くの小学生の姉妹に オルガンの手ほどきを始めた。
 そのお宅から毎月いただく月謝のようなもの それが私のお小遣いになっていた。
 毎日のように遅くなる下校時に 立ち寄る飲食店で 生徒会の仲間と一緒に
ワイワイ言いながら飲み食いする代金もそれで賄った。 本屋で本も購入できた。
時には そのお金を少しずつ貯めて ブラウスを買ったりもした。

 中学時代の友からは なんで高校まで行っても生徒会 と言われもしたが
貴重な三年間を無為に過ごしたくなかったからだった。
 この時の大勢の前に立って毎週話をした経験は 大人になってから私を支えてくれた。
 部活での友人たちとは 今でも年に数回泊りがけで出かけるくらい 親交がある。

 人間万事塞翁が馬ーこの言葉は嘘ではない とつくづく想う。
 置かれた場でどう生きるか そこから何を掴んで次に繋げるか 真摯に生きること
 これらの大切なことを 鬱々と過ごしているとばかり想っていた 
あの高校生活の中で 学んだような気がする。
 そして 四十年以上も続く友情も あのころの生活があったればこそ 得られたものだ。

 恵まれた高校時代だった 幸せな時代だった と今は想う。
 

 スコットランドがイギリスから独立するか否かの投票結果 イギリスにとどまる となった。
 投票結果が判明する前から 為替の動きが注目されニュースになっていた。
 円は百九円と 大幅な円安になっていた。
 円が一円安くなったり高くなったりするごとに 輸出にも輸入にもかなり響くという。

 為替や株式などとは まったく関係なく生きてきた私には 正直今まで関心がなかった。
 ところが イギリスとスコットランドの間の問題であるにもかかわらず 円にも影響があり
私たちの日常生活にまで それが及ぶと知って スゴイ! と思った。
 平和裏に紳士的に投票が行われているのだし 日本からは はるか彼方の遠い国の
出来事に過ぎないとしか 思っていなかったから。
 株の売買をしている人や世界経済に詳しい人からみたら
なんて呑気な・・・と呆れられるかもしれないが。
 株式とは 風が吹けば桶屋が儲かる式のお金の動きを 深謀遠慮で時間をかけず
掴んでこそのものなのだろう。
 日々ゆとりなく暮らしている私には これからも縁のない世界のことだ。

 しかし 遠い異国の出来事から 改めて 世界は繋がっているんだ と実感した。

 日本始まって以来の大きな 熊谷守一の作品展が 私の住んでいる県の美術館で
開催されている。
 熊谷守一は 県内で少年時代を過ごした後 志を立てて絵画の勉強に上京した。
 富裕な生家の後押しがあってのことだったが 父親が亡くなり母が亡くなり
金銭的な援助が途絶えた。 それでも絵画一筋の道を生き 晩年は 子供のような
境地で描かれた 彼独特の絵画を残して 世を去った画家だ。

 やきばのかえり という代表作は 単純な線で描かれているが
悲しみの深さが ちょっとした足の運びや人物と人物の間などから感じ取れて
痛ましさが 見る者の胸に響いてくる。色遣いも見事な作品だ。
 単純化された描き方は 饒舌でない分 心にストレートに入ってくる。
 守一が 晩年好んで描いた 蟻たちは 小さな体で命いっぱい動き回っている。

 すべてをじっくりと見てまわると 絵から放出されるエネルギーに 
こちらのエネルギーを吸い取られるのか かなり疲労する。
 本物だけが持っている力なのだろう。
 疲れても 体には心地よさが充満して 一昼夜くらいは夢見心地だ。
 久しぶりに 圧倒される展覧会だった。

 

 今日も夫の出勤に合わせて 病院へ。
 予約時間を 合わせてあるから あまり待たないでいい。
 
 さて 今日こそは 抜糸後に 皮膚がくっついていますように!
 そう思いながら 呼ばれるのを待った。
 夫は 今日抜糸してくっついていなかったら 部長に訴えて医師を替えてもらえ 
などど 行きの車の中で 不穏なことを言っていた。

 しかし そんなことにはならなかった。
 抜糸した後は しっかりくっついていた。よかったあ~。
 医師も少しは心配だったのだろうか。
 よかった 今回はしっかりくっついているようですね と笑顔で言った後 抜糸した。
 その通りだったのがよほど嬉しかったのか 思わず出た動作だろう。
 親指を立てて笑って グーのサイン! こちらが笑ってしまいそうになったが
 先生は先生なりに 心配してくれていたんだ と思うことにして
 ありがとうございました と答えておいた。

 昨日のブログではないが 医師も 低精神年齢化 しているのかもしれない。
 まあ 患者は 医師の知識と技術に対して 先生と呼ぶわけで 
彼らの人間性に対して敬意を持って 先生と呼ぶわけではないから と思い直す。 

 ともあれ 今回の腱鞘炎騒動に ようやくさよならできそうで
 ホント よかったわあ~。

 私達の生活の場は 自分の家以外はほとんどが 公共の場だ。
 当然 公共の場でのルールや心得がある。
 病院 駅 図書館 バスや電車の中など それぞれの場でのマナーを守ることは
社会の秩序を守ることにもなる。

 それが 見ていて どうか と首をかしげたくなる事に 時々出会う。
 今日もそうだった。

 病院でのこと 診察が終わると 患者は会計のカウンターでの順番を待つために
順番を示す番号札を器械で発券する。そして自分の番号が示されるのを待つ。
 当然 たくさんの患者が椅子に座っている。 番号が呼ばれてカウンターへ移動する人もいる。
 それらの人が入り混じって いつも会計カウンターの辺りは かなり混雑している。
 おまけに 絶えず番号を呼ぶ機械的な声と 会計係の生の声が聞こえている。
 小さい子供を連れている母親や父親も多い。
 ヨチヨチ歩きの時期の子供は 広いホールになっている病院が 開放感があって嬉しいのか
自分で歩きたがる。
 しかし 注意深い親は 周囲の人のほとんどが病人だし  気ぜわしい会計前の様子を見てとる。
 歩き方がおぼつかない様子の人 私のように杖を突いている人  車椅子の人 等が多いことを。

 ところが今日 小さな子供が一人の老人の後ろから走って来て 思いっきりぶつかった。
 老人は前のめりに硬い床に投げ出された。
 周りにいた者はビックリして老人を起こしたり手荷物を拾ってあげたり 大騒動になった。
 ぶつかった子供は 立ち止まって 後から来る母親の顔を見ている。
 周りが大騒動しているにもかかわらず 母親はまずわが子に 大丈夫?と聞いた。
 倒れた老人の体を気遣うのが先だろう まず謝るのがあたり前だろう・・・
そう思ったのは 私だけではなかった。
 母親の不遜な態度に怒りを覚えたのだろう 周りにいた一人の中年の女性が
 おかあさん ここは病院です どうしてお子さんと手をつないでいなかったの 危ないでしょ
この方に あやまるのが先決じゃあないの と口調厳しく 母親に言われた。
 母親は 周りにいる者たちの手前 恥ずかしかったのか さッと子供を抱えて
その場を去って行った。
 私たちは 呆れかえって顔を見合わせた。 どうしようもないわ と。
 幸い 老人は怪我もなく 痛そうにしながらも歩いて行かれた。

 そんなことがあった後 別の場所で椅子に座っていると さっきの親子が目についた。
 子供は 相変わらず走り回っていた。
 私は あんなことがあったのに・・・という気持ちで母親を見ていた。
 すると 私の眼差しに気付いた母親が
 おばさんがこわい顔して見てるよ 走らないで。 と子供に言っている。

 こんな親ばかりではない と解かってはいるが 呆れてしまった。
 時と場所 それをわきまえない若い親が けっこういる。
 情けないことだと思う。
 
 

 

 

 亡母の弟である 高山の叔父が 高山ラーメンを 送ってくれた。
 飛騨地方 特に高山市は 昔から 「中華そば」 をよく食べる。
 雪の降る寒い冬の夜に食べる中華そばは 体を温めてくれる。
 今もそうだが 中華そばを商うお店が多く 出前もしてくれる。
 近年は たくさんの観光客が 老舗や評判の中華そば店を訪れる。
 それで お土産用に 各お店の自前の味のスープをそえた中華麺が売られている。
 その中華そばの詰合せを 叔父が送ってくれたのだった。

 父母も既に亡く生家も他人に貸してあるので 故郷へは年に数回のお墓参りだけだ。
 体を悪くしてから 一人で車を運転して行くことがなくなったこともあって
ゆっくり叔父や叔母の家へ上がって話をする機会が  近年なくなっている。
 今年こそは 親戚だけでなくお会いしたい方を ゆっくりお訪ねしたいと想っている。
 自身の体がまだ動けて 叔父叔母 お会いしたい方々が 元気でいらっしゃるうちに。

 高山市周辺で生まれた者には ソウルフードのような 中華そば。
 子供の頃から食べて大きくなった中華そばに 思いがけず郷愁を覚えた秋の日だった。
 

 夫の誕生日のお祝いは 夏休みの終わりごろに 孫たちと食事に行ったし
誕生日当日は ささやかながら 私からプレゼントもして 二人で祝った。
 子供たちからは お祝いメールやハガキが届いていた。
 だから 夫も私も 今年の夫の誕生日は終わったと思っていた。
 そうしたら 夕方 長男家族が 我が家へ来るという。
 時間も時間だったから それなら夕ご飯をみんなで食べるように来たら と伝えた。

 六時半過ぎに 四人がきた。
 「おじいちゃん 誕生日おめでとう!」 とケーキやお酒のつまみなどを持って。
 ええッ 夫も私もビックリ!

 季節の炊き込みご飯にお吸い物 息子や孫たちが好きな惣菜など
幾品か作っておいた。
 それらが並ぶ食卓を囲んで 賑やかな夕飯だ。
 中でも 冷蔵庫にあった沢庵漬けの残りを飛騨風に炒めた物を 上の孫が喜んだ。
 じゃがいものあぶらえ和え 酢の物など 特別な食材ではないが 
息子にとっては母親の 孫たちにとってはおばあちゃんの 飾らない惣菜だ。

 賑やかにご飯を食べた後は ケーキ。
 普段は 食事の後には 何も食べない夫だが 今日は別のようだ。
 息子が切り分け六枚のお皿に移したケーキは 夫も喜んで食べた。
 スマホの中のゲームなども 孫たちと楽しそうにした。
 そして 十時を回った頃 息子たちは帰って行った。

 元々 長男は学校を出た後 勤め先の四国で生活していた。
 仕事がら 私達夫婦の下へ帰って来ることはないだろう と思っていた。
 淋しくはあったが 彼が選んで生きて行く道なのだから仕方ない と諦め半分に。
 ところが 十年前 思いがけず 家族で近くへ移ってきた。
 戸惑いながらも 私は嬉しかった。夫はもっと嬉しかったようだ。 

 それまで 離れていた時には考えてもみなかったことだが
 近くで暮らすようになると もたれるつもりはなくても 存在が心強い。
 それは 息子も嫁も同じようだ。
 家族みんなが 仲良く楽しく 時に助けあって暮らせるありがたみを感じる。

 これからも こんな暮らしが長く続きますように。
 今夜は 改めて心からそう想う夜だった。

 
  

 今日 縫い直した傷口の診察のために 病院へ行った。
 ガーゼを剥がして 今度は大丈夫のようですね と医師の言葉。
 そりゃあそうでしょ 全く水仕事もしないで
ひたすら 傷口を濡らさないように蒸れないように してるんだから・・・。
 と 言いたいのを堪えて そうですか よかったです と答えた。

 どうも 医師が若いと それだけで頼りなく想えてきてしまう。
 しかし なにはともあれ ちょっと安心した。
 次回は 来週の水曜日の予約。 その時に抜糸だ。
 今度こそ しっかり引っ付いていますように!!

 ところで
 病院通いが長かったり あちこちの病院にかかったりしていると
それぞれの病院の雰囲気が 解かってくる。
 看護士の動きや医師とのやりとり 医師の患者への応対の仕方や
受付事務の患者への接し方など 病院ごとに違っている。
 その違いが 患者にとって心地よいものかどうか・・・内部の人にはわからない事だ。
 
 最近 大きい病院は 事務の大半を ニチイなど外部から派遣される人で賄っている。
 私感だが 病院独自で雇用している職員の事務より そのほうが能率がいい。
 患者への応対も 格段にいいように思う。
 病院内の清掃も 規模の大きい病院のほうが より行き届いている。
 これは 派遣された人たちが よく訓練され教育されているからだろう。
 甘えを許さない心構えが 自然にいい緊張感を醸し出しているのではないかと思う。

 住まいの近くにある中規模の総合病院も 自助努力で様々なことが改善されてきた。
 それでも 何か目に見えない 嫌な雰囲気を 私は感じる。
 なにが というわけではない。
 特に病棟でそう感じるのは 入院している患者そのものに問題があるのかもしれない。
 あるいは 付き添う者の。

 なにごとも 寄って集う者たちの考え方や振る舞い方で その場所の雰囲気が作られる。
 病院だけでなく 小さくは家庭でもそれは言える。
 さて 夫と私が作ってきた家庭は 傍から見たらいったいどんな家庭に映っているのか。

 病院で診察の順番がくるのを待ちながら そんなことを考えた。

  
 


 

 随分前に 市からアンケート調査があった。
 在宅で 病状が重い人や床についているような人が 日々どのように暮らしているか
そんなことに関しての質問項目が主だった。
 中に 精神衛生に関する項目が幾つかあった。
 私は正直に その時の自分の心のありようのまま質問に答えて 提出した。
  
 その結果を踏まえてだろう。 
 一昨日 市の福祉課から 職員の訪問があった。
 聞くと 心理に関しての項目の答えで 気がかりになる人を訪問している という。

 一昨日は 前日に傷口を縫い直すハプニングがあって 気分がすぐれない日だった。
 そんな時に どうしてみえますか と訪問されても 快調です とはとても答えられない。
 つい 日頃は家族にも言わないような 本音が出てしまった。

 手術するまで耐えていた腰の激痛のこと 術後も痛みが強く 足の痙攣が続くこと
 嵩む医療費に悩んだこと 一人での行動に制約があること 孤独感に苛まれること
 生きる拠り所が危ういことなどなど・・・。 
 自分でも不思議なほど 初めて会った職員に心の内をぶちまけていた。
 話ながら 気持ちが昂り 涙が溢れるように流れていた。

 痛みは自分にしかわからないから 痛い顔をできるだけ他人に見せないように
 意地っ張りの私は そう決めて暮らしている。
 自分のことは自分で解決して生きるよりないから と想って。
 だから この頃元気そうね と言われれば そうなの と答える。
 本当は 痛みが強い時でも。

 ところが一昨日のように いざ心の中へ踏み込んでこられると 弱い。
 日頃 他人には言えない分 鬱々としてくすぶっているものが 噴き出してくる。
 
 私のように 家人の手助けを必要として生きている者は
自分が生きる価値や生きている意味を なかなか見出せない。
 その辛さや心持ちを 福祉に携わる職員なら理解してもらえるだろう・・・。
 そんな甘えの心が ついつい涙にまでなって 出てしまったのだった。。

 しかし どうってことないように 明るい顔をして生きていくためには
時にはこんなこともあっていい とも思う。
 一人の時にこっそり泣くばかりでは 気持ちの浄化ができない。

 意地っ張りのやせ我慢も 長く続けばくたびれてしまうから。

  
 
 
 

 

  まさか 今度もひっついていない なんてことはないだろう とは思うが 
ちょっと心配では ある。
  それで リハビリに行く車の中で 夫に 一度先生に診てもらって
 傷の状態を確認して テープを交換してもらおうかなあ と相談したら
 夫も そうしたほうがいい と言ってくれた。
 水仕事厳禁と言われた と伝えてから 簡単にできるよう 食事も工夫しているが
 何日も 自分が台所に立っているから いい加減嫌になってきているようだ。

  リハビリの後に状態を診てもらうと 少し蒸れたようになっている とのこと。
  水仕事はしていないし お風呂も十分気をつけているのに・・・。
  先生は 手自体からも蒸散しているからねえ あまりピタッとしたままでもいけない
 と言って 傷口を消毒した後 傷にガーゼを当て 包帯を止めるようなテープで
 止めてくださった。

  このまま 土曜日までもてばいいが・・・。
  
  夫は 施術した医師が 初診の時に 私と話している時
 中学生か高校生のように 指でクルクルと ペンを回しているのを見て
 あんな医者初めてだなあ 大丈夫かあ? と帰宅しながら言っていた。

  まさかそんなことはない とは思っても
 縫い直すなんてことをしてみると 正直ひょっとしたら?とも。まだ親指は痺れているし。

  気持ちが なかなか上向かないよ。 

  

 最近はデパートへも行っていない。
 前回いつ行ったままかさえも 覚えていないほどだった。
 
 それが 昨日 夫が珍しく新聞の折り込みチラシを見て
「明日から 九州の物産展があるぞ」と言った。
 そういえば 何日か前に名古屋のデパートで開かれている物産展の様子を
テレビで放送していた。 それと同じ物産展のようだ。
 チラシの中に 夫の興味を引く物があるらしい。
 鹿児島のさつま揚げと 宮崎の生チーズケーキ。
 夫は甘辛両党遣い。さつま揚げはお酒のおつまみ チーズケーキは大好きなケーキ。
 でも夫がチラシを見て 食べ物のことを話題にするなんて めったにないことだった。
 そうだわ 明日は夫の誕生日。
 お食事会は済ませてあるし プレゼントとカードは明日のために準備してあるけれど
 今年はこれも買ってきて お祝いしましょう と心づもりした。喜ぶだろうなと想って。

 そして今日 午後に行ってきた。
 名古屋ほどではないが 初日ということもあってか すごい人 人!
 お目当ての二点は すんなり買えた。あっけないくらいに。
 そこで テレビではサツマイモのかりんとうに長い列ができていたのを思い出した。
 売り場がどこにあるのか・・・あったあった。なるほど並んでいるわ・・・。
 でも 名古屋ほどではない。よし!並んでみよう! 最後尾につく。
 案外早く列が進む。そして私の番がきた。
 さすがにみんなが長い列でも並ぶはずだわ 美味しそうだ。

 帰りは夫の帰宅に合わせて デパートまで来てもらった。夫はビックリ!
 帰ったら 早速夫はケーキを自分で切り分けた。
 やっぱり食べてみたかったんだわ。思い切って買いに行ってよかったァ。
 足腰や手の痛みも ケーキを食べる夫の幸せそうな顔をみると 軽くなるような気が。

 ケーキは期待を裏切らない美味しさ。夫も満足げ。
 今回みたいにして夫の誕生日を祝うなんて 今までなかったが こんなのもいい。

 まだ メインのバースデーカードもプレゼントも見てないわよォ~。
 さつま揚げも待ってるよォ~。  
 
  

 今日は 先週月曜日にした 右手親指の腱鞘炎の 術後の 抜糸の日だった。
 今朝は 夫の出勤に合わせて家を出 予約時間になって 診察室へ呼び込まれた。
 医師が チョンチョンとはさみを入れて 抜糸した。
 そうしたら!! なんと!切り口の皮膚がパックリと開いたままではないか!!
 瘡蓋が出来ているとか一部塞がっているとか そうしたことがまったくなくて
表皮が きれいな?かたちのままで 中が見られる状態なのだ。
 ええ?? どうして??どうして塞がっていないの??
 医師も まさか だったのだろう。 「あれエ??」と言われた。

 医師は 水に濡らしたまま放置していたのではないか と批判気味に言う。
 そりゃあ 意図しなくても 多少は湿めらす事はあった。 
 あったけれど その後は必ず消毒して 市販のパット付きのテープを貼って
縫ってある傷口を保護した。一日に何回も。
 入浴の際には 薄いゴム手袋をして その上にビニール袋をはめ 
口を荷作りテープでグルグル巻きにしていた。
 勿論 そうしていても 右手は絶対湯船には浸けなかった。
 少しよくなってからは 台所に立ったが その時も手袋をして
直接水がかからないようにも 十分注意したつもりだった。
 だから 水に濡れたままだったことなど ないはずだった。
 
 なのに! なのに!!
 傷口がまだ塞がっていなかったのだ!! なんでなの!!??

 仕方がない。
 抜糸した箇所を また縫い直さなければならない と医師が言うからには 
そうしなくてはならないのだろう。
 自分で診ても このままで放置できる状態でない とわかる。

 今回は 診察室のベッドに横になり 右腕を別の台に置いて 医師が来るのを待った。
 局所麻酔を打つ注射が これが痛い!痛いのだ!
 顔を反対の方へ向けていても 医師の動作がなんとなくわかる。
 麻酔が効いてくると 傷口を縫合する前に 周囲の皮膚を少し切っている気配がする。
 チクチクと 皮膚が引っ張られちょっと痛い。
 それから縫合。 この時もやっぱり同じような感覚があった。
 看護士が 消毒薬をきれいに拭ってくれ保護するテープを貼って 終了。

 水仕事は厳禁!!と言われてしまった。
 困ったなあ・・・でもあのパックリ開いた傷口を見てしまったからには
台所仕事はできないし しようとも思えないのは事実。
 夫に説明して 理解してもらうより仕方がないだろう。
 お風呂をどうするかが 一番の問題だ。
 手袋を一枚でなく 二枚も三枚もして ビニール袋ももっと重ねて・・・。

 次回は土曜日に診察の予約が入った。 抗生剤も再び出た。

 鬱陶しいし ちょっと痛いし・・・でも今度こそちゃんと皮膚がくっつくように
我慢!我慢!!
 
 
 
 

 今夜はお月見。中秋の名月。
今宵ばかりは晴れて欲しい その想いが通じて しらじらとしたきれいな月が出た。
 一年に一度の名月を眺めるために 何度も外へ出てみる。
 今は夜空のほぼ南東の中天に 見事に円く輝いている。

 そういえば 高山市内には 「月見」 というバス停がある。
 その辺りからは 山の端を 月がまるで弾む毬のように ポンポンと転がるように 
動くのを眺められる。 だから昔から 「転がり月の里」 とも呼ばれている地区だ。
 子供の頃から なんて風情のある呼び名かと思ってきた。
 そして 実際にその地から 月を眺めたこともある。
その場所は 海抜が高いから 東の山々が低く眺められる。
 大きな月は ゆっくりとその山影から出 そしてゆっくりと山の頂を渡っていった・・・。
 記憶に刻まれた観月になった。
 
今夜の月は「芋月」とも呼ばれるが 今 私が住んでいる地方では 
今年はまだ サトイモの収穫はない。 芒さえも穂を出していない。
 でも お月様だけは 冴えた光であまねくこの世を照らし出している。

 我が家の玄関には 今夜のために ささやかなお月見の宴を模しての設えをした。

 一年に一度の月を 今夜はせいぜい楽しもう。

 

 テニスの錦織圭選手が 強敵を退けて 決勝に進出した。
 日本人では 史上初めての快挙だ。
 もちろんまだ決勝戦が待っているが 準決勝を勝ち進んだだけでも 驚いてしまう。

 コーチが変わってから 技術も進化しメンタルの面でも粘りが出てきた という。
 メディアによると どのニュースも同じように伝えている。

 一流になればなるほど 指導者の力がものをいうらしい。
 それも 指導を受ける側と指導する側の相性が合わなければ 成果は上がらない。
 
 勝利後の現地でのインタビューを視た。
 英語での質問に流暢な英語で まるで自国語で話すかのように答えていた。
 
 自分を主張しない日本人は 外国へ出た時に弱い。
 錦織選手の場合 少年時代から単身アメリカへ渡りテニスの腕を磨いてきた。
 吸収力の旺盛な時期からとはいえ 凡人には知れない困難や苦労があっただろう。
 親戚でも知り合いでもない私だが よくぞここまで と拍手してしまう。

 このところ 明るいニュースがなかったから 久しぶりに国中が湧いている。
 どうか 決勝も制して世界一に輝きますように!!
 がんばれ!!錦織選手!!

 今の地へ落ち着いたころに それ以前からあった 同じ地区の同じ年頃の女性ばかりの
毎月お金を積み立てる 旅の会に誘われた。 
 まだ地区にも溶け込んでいなかった時期で 同じ学校へ通う子供の母親ばかりだったし
わが子のためにも 近付きになりたかったから よろしくと入れていただいた。

 当時はまだ日帰りの旅ばかり それもツアーに混じってのバスの旅だった。
 その後 子供が少し大きくなって そろそろ泊まりの旅ができるような時期になった。
 その話が出ると 会を辞める人も出て 半数ほどの人数になった。
 以来 自分たちで計画して 一泊の旅に毎年出かけるようになった。
 とはいえ 自分たちの親が病気になったり介護を必要としたり 様々な理由で
毎回の参加が困難になる会員も 当然出てきた。
 そのうちに何年かするとやはり 辞める会員もあった。
 それでも 参加できる者だけで 毎年旅を企画し 会自体がなくなることはなかった。

 そして 一泊の旅になってから 今年でかれこれ二十五年。
 そのうち 会員が六人に固定化してきた。以来二十年以上が経つ。
 会員が六人になった時に 会に名前を付けよう ということになって
会の名を「六女会」と みんなで決めた。
 
  ここ何年かは 親の介護で泊まりが無理な年や 体調が悪い状況の会員が出てきても
一泊を日帰りに替えたりしながら 六女会はずっと続いてきた。
  私が体を悪くして 会に留まるか悩んでいた時にも 五人は好意的に受け止めてくれた。
  おかげで 今も仲間でいられる。

  これだけ長く続けていると 普段は話す機会がなくて 旅に出る時だけ顔を合わせる
者も出てくるが みんな気心が知れているから 久しぶりに会っても違和感がない。
  列車の中や宿では 一年間に起きたそれぞれの出来事や悩みを 打ち明け合って
話しがはずむ。それが楽しい。あッという間に時間が過ぎていく。
 
 最終的に 気の合う人ばかりが残ったともいえるし 六人という人数も丁度いい。
 二人ずつの幹事で 旅先でも一目でみんなの顔を確認できる。部屋割りも都合がいい。

 今夜は その六女会の 年に一度ある 旅の前の会合があった。
 今年の行先と期日は 去年の旅の終わりにはもう決めてあった。
 今夜は 今年の幹事である二人から おおよその旅程を確認するための会だった。
ここ数年は 積立金を使って 個人では行けない高級な宿の旅を楽しんでいる。

 さて あとは 自分の体調がどうなるかだ。
 旅までには まだ二月ほどある。
 どうしても参加したいから なんとしても行けるように 体調を整えていかなければ!!
 

 昨夜 下の息子が帰省した。
 彼は 今まで 通勤に原付のバイクを使っていた。
 最近そのバイクの調子が悪くなって いつ乗れなくなるか危うい状態になっているらしい。
それで バイクを新しくするより この際乗用車を購入したほうがいい ということにした。
 元々 バイクにする前は 軽だが三台の車に代々乗っていた。
 今の職場になって 新しく今の住居のアパートに移った時 勤め先が近かったのと
アパートにある駐車場代が別料金だったのとで 車を手放してバイクに変えていた。

 初めは 車ならなんでもいい というような気だったらしい。
 ところが いざ車を買う となると だんだん気持ちが変わってきた。
 まず中古が新車になった。新車となると 今度は選択肢が増える。どの車種にするかだ。
 そして今日 夫とともにお店へ行き 購入する車種を決めてきた。
 車に付ける諸々の機械も 別のお店であれこれ見てきたようだ。

 息子は 車をそれも普通車の新車を購入するとあって 少々興奮気味で帰ってきた。
 それはそうだろう と息子の嬉しそうな顔を見る。
 なんといっても 高い買い物だ。
 これから毎日 これと決めて買った車に乗って通勤できるし 遠出もできる。
 これからの生活を想うと きっと楽しいのだろうと思う。
 私も とても嬉しい。

 彼が成長する過程では いろいろ親として心配もしたが なんとか一人前になってくれた。
 自分で自分の暮しを支え 独立した生活を営んでいる。

 おなかを痛めて産んだ子が 大人になる・・・。
 親はそのために 事あるごとに心配しながらも 見守り育てる。

 一人前になったわが子を見て 親は喜ぶ。 密かに一抹の寂しさを感じながら・・・。
 自分たち父親と母親の羽の下から 飛び立ってしまう淋しさから・・・。

 いつまでも末っ子 という考えから 離れなくてはと思う。
 彼もいい歳なのだから・・・。いえ もうとうにそういう年さえも越えているのだから。
 
 

 明後日は十五夜だ。
 来月の六日は 十三夜。
 そして 十一月の五日は 実に百七十一年振りの 後の十三夜だという。

 百七十一年振りということは 明治の時代から今日まで 後の十三夜なくて
誰も見たことがない ということになる。

 江戸の昔に お城のお殿様やお姫様 大奥のお女中たち 
はたまた 汚れ長屋の八ッあん熊さんたちが 珍しいと言って眺めた月
 青く静まり返ったお濠の上に 冴え冴えとその影を落とした月
その月は 一度雨が降ろうものなら 貧しい板敷の上で雨漏りの音が賑わしくなる
裏ぶれた長屋の屋根の上にも きれいな影を落としたにちがいない。
 そして それぞれが生きる境遇の中で それぞれの愛で方で
後の十三夜を眺めただろう・・・。
 それとも 幕末も近くなって きな臭い時代の渦の中へ 人々の暮らしを巻き込もうと 
下級武士たちが 暗躍を始めていただろうか・・・。

 妄想をふくらませると 楽しくなる。
 まったく世の中の仕組みも生活の仕方も違ってしまっている この時代の私達が
同じ月を眺めることができるなんて なんて素敵なんだろう。

 八ッあん熊さんが 今の時代を見たら どれだけビックリするだろうか。
 人間の生活は 百七十一年の間に 目まぐるしく変わってしまった。
 それでも月は 変わらず同じように 今を生きる私達にも その光を注いでくれる。

 この世界は この地球は この宇宙は なんて大きくて寛大なんだろう。
 そんなことを想うと 今年の十五夜は格別のものに思えてくる。
 どうか 雨など降りませんように。
 なにごともなく 後の十三夜を眺められますように。 

  

 今朝のテレビ番組「朝イチ」で キャスターとゲストの脚本家の間で
女の友情が話題になった。
 脚本家は 朝の連続ドラマの中に どうしても女の友情を入れたかったという。
 彼女自身の人生経験の中で 友人の存在と友情のありがたみを知っているからこそ
自分が描くドラマの中で それを軸の一つに据えたかったとも語った。

 そういえば「花子とアン」の花子だけでなく 花子が後に翻訳した「赤毛のアン」の
アンにも 生涯の大切な友が存在する。

 子供の頃や若い時代は 交流しながらも互いにそれぞれの日々に明け暮れるが
ある年代にさしかかった時 心にしっかり根付いていてくれる友がある ということは
本当にありがたいことだと しみじみ想う。
 寄る辺がないような 心細さや孤独を感じているときでも
ふとその人の存在が心に浮かぶと 気持ちが救われるような気がする。
 家族とは違った位置で 自分を支えていてくれる人がいる・・・
そう想うと 元気や勇気が湧いてくる。

 常々 友人のありがたみを感じながらいる私には
今朝の「朝イチ」で 友情を語る脚本家の言葉の一つ一つが 興味深く響いた。

 
 

 昨日はブログを書き損ねてしまった。
 いつもの習字も 親指がまだ痺れていて行けないし 外はどんよりしてるし・・・で
なんとなく気分が落ち込んでいて 何もする気が起きなかった。
 僅かに 仕事から帰宅した夫に連れられて リハビリに出かけただけだった。

 夕ご飯の頃 玄関のチャイムが鳴った。
 こんな時間になんだろう と夫が出ると荷物の宅配だった。
 娘からは何も言ってきてはいないし 通販も覚えがないしどこからのものか案がなかった。

 夫が居間のテーブルに荷物を置いて 初めて送り主がわかった。
 滋賀に住む Iちゃんからだった。
 彼女が 釜揚げの生シラスを送ってくれたのだった。
 
 さっそくお礼の電話をすると いつもの元気な彼女の声だった。
 そして 今から民謡の教室へ出かけると言う。
 膝の関節が悪い彼女だが  若い頃から民謡や太鼓三味線と趣味の生活を大切にしている。
 いつも彼女から元気のエネルギーをもらっているが 昨夜もそうだった。
 純粋でいつまでも子供のようなところがある彼女の声に 鬱々とした気分を飛ばされた。

 朝になって シラスをいただきながら  そういえば 彼女はこのシラスのような人だと想った。
 淡泊でいて味の深い 気取りがなくてその実しっかり主張のある そんな存在の人だ。

 頑張っている彼女とシラスで ちょっとだけ元気が出てきた私だった。
 

 

 なにか一つのことにしゃにむに向かっていく・・・若いからこそできる。
 テレビの番組の「鳥人間コンテスト」を見て想った。

 私にも若い時があったなあ~と想いながら番組を視た。
 番組の中で どうしたら一メートルでも長く 手作りの飛行機で飛べるか・・・
 たくさんの若者たちが 一年間をかけて研究し鍛錬する。
 そして 本番を迎えると 勝っても負けても 成功しても失敗しても 彼らは泣いた。
 見ていて なんだか羨ましかった。

 こんなに一つのことにかけて泣いたことって いつが最後だったろうか。
 人間って一つ歳をとる毎に キラキラの雫をどこかにこぼして生きている。
 そして 今の私は・・・還暦もとうに過ぎて・・・キラキラの影も形も失っているようだ。

 普段 痛みを堪えて強がっている分 今夜の若者たちの 素の輝く姿がこたえた。
 歳をとらないと理解できない事もあるが 失っているものもたくさんある。

 さてさて どうやって気持ちを立て直せばいいのやら・・・。