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猪鍋がよっぽど美味しかったらしく 夫が 長男家族にも食べさせてあげたい と 言う。

かといって 受験生がいるから 私たちと一緒に鍋をつつく気持ちのゆとりはないだろう
なにせ 私立の受験が迫っている頃だから。

猪突猛進思考の夫に とにかく電話してみてからにしてよ と 私が言うと
でも どうしても食べさせたいから それじゃあ つゆも食材も すべてこちらで準備して
持って行けばいいだろう と夫。

それならそれで嫁の都合もあるんだから とにかく一度電話して聞いてからにしてよ と私。

そんなやり取りの後も 電話なんてしなくても 全部調えて持って行くんだから・・・と
向こうの都合などお構いなしの夫は まだ ブツブツ言っていたが
電話してみると 孫の私立の試験が 昨日今日で終わり 今夜は 塾もないから
みんなで行ける 今日の夕方 そっちへ行くよ と 息子の返事。

それならそれが一番いいから と 段取りが決まり 今夜 みんなで猪鍋を囲むことになった。

昼間のうちに 肉以外の材料を揃えて つゆも準備して 息子たちが来るのを待った。

四人で来るはずが 息子の姿がない。
聞くと 急に来られなくなった とのこと。
長男が 中学の時にお世話になった先生が 三月で退職される。
その先生の退職祝いの会を 先生には内緒で 有志で計画している。
その当日のための 同窓生との打ち合わせの会を 急に持つことになったらしい。
残念だが それなら 仕方がない。

長男はいなくても 嫁も孫たちも 楽しく みんなで よく食べてくれた。
十分に準備したお肉も 野菜やきのこも 長男の分を残して 全部平らげた。

帰りには 長男のための材料やつゆと一緒に 美味しい と ポリポリ食べていた
自家製の漬物も持たせ 送りだした。

孫の受験が終わったら 月に一度くらいは またみんなで食事する機会を持ちたいね
車のテールランプが見えなくなると そんな会話をかわしながら 家へ入った。
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今日は 昨日の続きで 予報通り 朝起きた時点で もう 外は雨が降っていた。
こんな日は いくら夫でも 畑仕事には 出かけられない。

都合よく 三月末には引継ぎをしなければならない 大切な事を抱えている。
それで 今日は一日中 パソコンに向かって 次年度の役員との引継ぎ会の資料や
総会に向けての資料作りに 専念していた。

疲れてきたり あきたりすると ユーチューブで 好きな演歌歌手の歌を聴いたりしながら
夕飯まで 地道な作業を続けていた。

退職するまでは 毎日のように パソコンに向かって仕事をしていたが
こんな夫の姿を見るのは 本当に久しぶりのことだった。

私は私で 自分のパソコンで 一日中遊んだりしながら過ごした。

二人が 一日中家の中にいて 互いの姿を見ながら過ごしたのは
いつ以来のことか・・・。

亭主 元気で留守がよい とも言うが
私たち夫婦のように 結婚生活は長くても 一緒に過ごしてきた時間の少ない夫婦には
今日のような日も 珍しくて なんだか 気持ちが和む。

久しぶりに 本当の意味での 雨の休日だった。

東京の孫は 爆破予告騒動があった日 母親と一緒に避難している最中 周囲には泣き叫んでいる
子もいたようだが その場は 泣く余裕もなかったのだろう 泣かずに帰路についたらしいが
途中で 急に泣きだしたそうな。

学校から離れるまでは 緊張がとれなかったのだろう。
幼児ながらもう安心 という場所まで来たら 急に気持ちが崩れて泣いたのだろう と 想われる。

警察がサイレンを鳴らしながら 何台ものパトカーで来たり 爆発物処理班が いかめしい恰好で
学校の周囲を取り巻いたり 大きな消防自動車が来たり 自分たちには
突然 全校生徒に避難指示が出て 騒然としたり・・・。
ちょうど 保護者のお迎えが来る 降園時間帯だったからよかったものの
もし この騒動が 違う時間帯だったら 孫の心境はどうだっただろう・・・。

それでも 今日あたりは 家で 母親と一緒に パンケーキを作って食べたり と
落ち着いてきたようで こちらも一安心だ。

それにしても きょうびは どこが安全でどこが危険なのか わかったものではない。
本当に 嫌な世の中になってしまった。

今夜は 暮れに義弟からもらって冷凍してあった猪肉を 昼間から解凍しておいて
猪鍋にした。
猪肉が 大きな塊になっていたから 解凍に時間がかかる。
それでも 夕食の準備をする頃には 包丁を入れるのに ちょうどいい具合になって
出汁をとって味噌味にしたつゆが煮立った中へ 猪肉や白菜 きのこ類を入れて煮ると
いいにおいがし始めた。

つゆを作った段階で味見をしたから 多分 いい味の鍋になっただろう とは想ったが
なにぶん お肉嫌いの私には まったく食指が動かない。
それで 最終的な味見もせずに 食卓に出した。

待ちかねていた夫が さっそく器に取って 食べて一言 うまい!!
あら よかっかわ 美味しくて・・・。

お前も食べてみろ 本当にうまいぞ いい味だから 一口食べてみろ。
多分 本当に美味しいのだろう。
でも どれだけいいにおいがしていても まったく食べたいと思わない。
どれほど言われても じゃあ 一口・・・ とは思わないから 自分でも不思議だ。

うまい うまい を連発しながら なんと夫は 一人で一鍋を すっかり平らげた。
夫がこんなに喜んで うまいを連発して 美味しいさに舌鼓を打つなんて珍しい。

最近は 食もけっこう細くなっている夫だ。
美味しそうに食べる夫の横で 昨日の残り物をおかずにした私だったが
一緒に鍋をつついたような 楽しい気分で 夕食を終えた。

東京の孫が通っている幼稚園で 今日 爆弾騒ぎがあった。
校舎の どこかに 爆発物を仕掛けられたらしい。

年少組は ちょうど降園の時間帯だったから 親やナニーが迎えに行っていて 騒ぎが起きた。
だから 年少組は 父兄に連れられてそのまま避難 そのまま帰宅した。
それより年上の子たちは 身ひとつで 園舎から避難した。

爆弾騒動 なんて テレビやニュースの中の出来事だったから
娘からの連絡で ビックリした。

幸い 爆発物は発見されず けが人もなかったからよかったものの
本当に仕掛けられていた としたら 大変なことに・・・。

まったく 物騒な世の中になった。
愉快犯だったのか 犯人の気がしれない。

それにしても どうして 的が 孫の幼稚園だったのか・・・。
人騒がせなことだ。
早く 犯人が捕まってほしい。

人一倍 臆病で怖がりの孫だから さぞかし 怖かったことだろう。
今夜 夜中に 泣いて起きなければいいが・・・。

東京にいる娘が 孫が通っている幼稚園のママ友を介して
孫に 子供服のモデルになってもらえないか と 頼まれたらしい。

今まで 街頭では 何度も声をかけられたが その都度 お断りしてきた経緯があった。
見知らぬ人から 突然声をかけられても 素性もわからないから 信用もおけない。
それに 婿が 自分の娘は見世物ではない と 頑なだったからだ。

しかし 今回は 信用のおける人からの話で そのママ友が仲立ち とあって 承諾したらしい。
子供同士 仲良くしていると むげに断ることも はばかられたようだ。
それに 今回の依頼は 孫そのものを というのではなく あくまでも 主役は洋服だから
婿も いい と 心を動かした と 娘が話す。

とはいえ 孫はまだ四歳になったばっかり。
聞くと 十二着もの服を とっかえひっかえ着ての 撮影らしい。

娘も 電話で言っていたが なにしろ 孫は 人並はずれて 臆病で恥ずかしがりやさん。
おまけに 変に がんこちゃんだ。

だから イザ現場へ連れて行っても その場の雰囲気次第では いや と 言うかもしれない。
また 長時間にわたって となると 途中で 投げ出すかもしれない。
そんな心配も 先方に伝えたが それでもいい との 会社の意向だという。

東京にいると けっこう外国人の子もハーフの子も 見かけるが
モデルに となると なかなか ないらしい。

はてさて 孫のモデルデビューは すんなりいくかどうか・・・。

おすわりができるようになった孫は 離乳食も始まったらしい。

今までは 母乳ばかりだったお腹に ドロドロのペースト状の食べ物が入っていくようになった。
そのせいか これまでは すんなり出ていたウンチが そうはいかなくなったらしい。

おすわりができるようになってからは 目が覚めている時間に 横になるのを嫌うようになった。
ウンチを催した時も おすわりしている時が多い。
催しても なかなか出ないから 自然に 目をすえて ウーン と 顔を真っ赤にしながら うなる。

その様子が かわいいし おかしい と 母親である娘が 言ってよこした。

以前に送ってきた孫の写真は まるで おすわりしているキューピーちゃんみたいだ。
そのキューピーちゃんが 真っ赤な顔をして ウーン と うなっている姿を想像して
夫と 大笑いした。

おもしろがった夫が その姿の写真を送ってくれ と 娘に言うと
娘は 本人が 出なくて真っ赤になってうなっているのに はいこっち見て なんて写真
気の毒で 撮れないわよォ と 笑いながら返してきた。

そりゃあ そうだ。
いくら赤ん坊でも 出なくて苦しくてうなっている最中に 写真なんて
撮ってもらいたくはないだろう。
夫と二人 また そう言いあって 大笑いになった。

年寄り二人には 孫の話題や 夫の勤務先の幼児たちの話題が 一番の癒しだ。

今夜も この孫の話で 二人とも 大笑いできた。
こんな たわいないことで大笑いできる日が できるだけたくさんあるといい。

夫も私も 開運なんでも鑑定団 という テレビ番組が好きで ほとんど毎週見ている。

出演者が持ち込む骨董はもちろんのこと 出演者がそれを入手した話も 実におもしろい。
そして 出演者がつけた価格や 骨董を見て自分がこれくらい と つけた価格が
実際に鑑定されてつけられる価値と どれくらいの違いがあるか また 本物か贋作かなどを
言い当てたりするのも 実におもしろい。


実家のある町には 縄文時代の遺跡があり その遺跡からの出土物などを
収蔵し展示している建物が 遺跡の側に建っている。
昔そこで 著名作家や郷土にかかわりのある作者の 書や軸などを集めた展覧会が催された。
所有者はすべて町内の住民 と聞いて たまたま 実家に帰省中だった私は
どんなものが どの家から出されているかも 興味があって 建物へ足を運んだ。

そこそこ古い書や軸が展示してあった中には 本家からの物もあったが
総じて 物足りなさを感じる展示会だった。
それで 帰ってから父に聞くと どの家も 本当に大切な価値のある物など
人目には さらさないのだ と 教えてくれた。

古いものは 空気にさらされるだけで変色したり傷んだりするし
第一 そのような価値ある物を所蔵していることがわかると 税金にも関わってくる。
だから 旧家が家宝にしているものや 分限者が所持している物などは
めったにその家からは出さないものらしい。

たしかに 日本中に 旧家と呼ばれる家は限りなくあるが 意外に 番組に出演する人は少ない。
お家の秘中の秘 は 誰の目にもつかないよう 家の暗闇の中に 静かに眠っているのだろう。
そんなお宝が 日本中に どれくらいあるのか・・・。

なんにしても 骨董は 人よりも長い命を持ち 幾多の歴史や秘話をはらみながら 今に至る。
それを知るのは 実におもしろい。
骨董には ロマンがある。

最近になって 思うことがある。
私に繋がる遠い祖先の 書を読み書を書き 絵を愛でる気風が 私の血となって流れている と。
骨董や美しい造形物に魅かれるのは そのせいだろう と想う。

美術館が好き 図書館が好き 本屋が好き そして 書道が好き 美しいものが好き・・・
これらの血は 父の中にも母の中にも 確実に流れていた。

現に 弟は 今も美術関係の仕事をしているし 甥は デザイナーとして
最近少し 世界に名前が出るようになってきた。
母方のいとこは ずっと絵を描いているし その弟は 陶芸を仕事にしている。
また 父方のいとこの一人は カメラマンになっている。

こんなことは たまたまの偶然で 彼らは 血 などとは考えもせずにいるだろう。
私が歳をとり 考え方が保守的になってきたからこその 想いなのかもしれない。

でも これからもきっと 私は鑑定団を楽しみ 書や軸を鑑賞して楽しむだろう。
書道も 体がそれを許すかぎり 教室へ通おう と 思っている。
へたの横好きで・・・。

高山の葬儀が 今日お昼の十二時から と 聞いたので
大寒波の予報が出てはいたが 昨夜は 万全の寒さ対策をしてベッドに入った。

私としては 寒波のことも頭に入れて 一人でワイドビューで行くつもりでいたのだが
夫は 車で乗せて行って 葬儀の間は 食料を買いにスーパーにでも行って
時間をつぶす と 言うではないか。

寒波がやってくる とわかって 彼なりの 私の体を案じてのことだから むげに
一人で行ってくる とは 強く言いもならず 仕方なく それじゃあ乗せってって と
言わざるをえない状況になってしまった。

そして 今朝 やっぱり雪が降っている。
ひどい降り方ではないが パソコンで 高山の天気や 東海北陸道の状況を見てみると
これからも低い気温が一日中続き おまけに 行きの道路が 事故で渋滞している様子だ。
雪深い方向へ向かって行くことを考えると ここは思案のしどころだ。

夫は 自分からは 止めよう とは言わないが さかんに もっと降る とか
道路が心配だ だとか ブツブツ言っている。

夫がこんな時は 何か事が起こったら大変なことになる・・・と 今までの経験からわかる。
事故を起こした時 渋滞に巻き込まれた時・・・イラつく夫が 目にみえるようだ。
なにが嫌いって 渋滞の中で運転することほど 夫が嫌いなものはない。
普段は気長そうな夫の本性が現れる時だ。

いろいろ迷った結果 今日は行くのをあきらめよう という結論を出した。

その旨を夫に告げ そうと決めたからには 次にすることは ただ一つ。
弔電を打つことだ。

さっそく 電話帳を広げ 電文を決めて電話する。
係が 寒波だから 今打っても 夕方までに着くという確約はできない と 言う。
それでは 葬儀場へは間に合う保証がないから 仕方がない 当家の住所へ打った。
当主の葬儀だから 奥さん宛にした。

次に 行けない と 実家のお向かいの家のおばさんに 電話した。
おばさんも 無理をして来て なにかあってもいけないから そのほうがいい
と 言われた。
おばさんに そう言われて ちょっと救われた気がした。

昨日 何度も二階へ上がり下りして 時間をかけて揃え準備したことが
すべて無駄になってしまった・・・。

一日中 気落ちしていたが 今夜 高山の友人に 行けなかった と メールすると
その方がよかった 雪はたいしたことはないが とても気温が低く 凍みがひどいから
と 言う返事だった。

友人のこの言葉で ようやく諦めがついた。
明日にでも 手紙を添えて 持っていくはずだった香典を送ることにしよう。

夕ご飯を食べている時 夫と私の携帯に同時に メール着信の音が鳴った。
こんな時は 必ず 東京の娘からだ。

どんな内容か と 見てみると 下の孫の写真が添付してあって
昨日から おすわり が できるようになった とのこと。

写真には ニッコリ笑って おすわりしている姿があった。
婆バカ 爺バカ で 二人一緒に かァわいイ~~!!と叫んでしまった。
そして 二人とも 送られてきた写真を さっそく携帯の待ち受け画面に。
赤ん坊の無垢な笑顔は 孫だからというわけでなく 人の心にたまったオリを浄化してくれる。
よく 赤ん坊は 天使に例えられるが 単なる例えではなく 天使そのものだと 写真を見ながら思う。

あんまり可愛い様子の写真だったから 友人にも見てもらいたくなって 転送してしまった。

この年になると 世の中の理のおおかたが分かり 驚くことも感動も どこか薄くなっている。
無垢な笑顔や 小さな手足の様は そんな心に 新鮮な空気を流し込んで 感覚をリセットしてくれる。

これからのしばらくは 携帯を開ける度に このかわいい様子の孫が 目に飛び込んでくる。
* *ちゃん 毎日 見るからねぇ。

日中 親戚も 実家が懇意にしていた隣家も 何度電話しても留守で
確かめようにも確かめようがなく 心もとない気持ちで過ごした。

どのお宅も夕食が終わる時間を見計らって またお隣へ電話して ようやく話ができた。

ところが その家のおばさんも
私たちも とにかく急なことで なにがなんだか分からない状態なのよ
と 言われる。

よくよく聞いてみると けがを負われて手術し つい最近まで入院してみえたそうな。
そして ようやく退院されて 勤めにも出られていた。
私がテレビで拝見したお姿は ちょうどその頃だったらしい。

ところが 二三日前に また入院された という。そのことも 周囲は誰も知らなかった。
そして 昨日 もはや この世には亡い姿になって 帰宅されたのだった。

班長からの知らせで 近隣のみんなはビックリして 信じられないまま
あたふたと お宅へ伺うと 私の幼馴染で仲のよかった奥さんが
亡骸にすがりついて 泣いてみえたそうな・・・。

何故亡くなったのか その場のだれにも聞けずに帰ってきたが どうも膵臓ガンだったみたい・・・
と おばさんは言ってみえた。

お通夜や葬儀の場所と時間を教えてもらい 電話を切った。

亡くなった方は 本当にいい人だった。
生前 私の両親が健在だったころも 親戚のような付き合いをさせていただいていた。
そして 母の葬儀の時には 地元のしきたりや付き合いの仕方が まったく分からない私を
そっと陰で助けてくださった。

昔ながらの古いしきたりを守り それを踏襲している葬儀は 私の想像をはるかに超えたもので
なにをどうしてよいものやら 全く分からず 戸惑うばかりだった。
それを **ちゃん 班の人たちは ああ言ってみえるけど 本当はこうだからね
こうしなくちゃダメだよ と 微に入り細に入り 私がとるべき行動や ふるまいの仕方やらを
そっと台所口へ来て 教えてくださった。
御夫婦のお陰で出せた葬儀だった。

今でも 当時のことが忘れられない。
私や実家には 恩義のある方だった。

明日の午後から明後日にかけて 今期最大の寒波がくる と 予報が出ているが
そんなことは 言っていられない。

せめて お世話になった方の最期に お礼とお別れを告げるために
明後日は 葬儀に出掛けてこよう と 思う。
高山へ。

お世話になりました
ありがとうございました
どうか 安らかに・・・と 涙なくお別れができるだろうか・・・。

今朝 夫が出勤前に朝刊を読んでいて おい これ実家の前の **さんちの御主人じゃないか?
と 問いかけてきた。

先日 地元のスキー場の責任者として テレビに出ていらっしゃる姿を見たばかりだったから
なんの記事に名前が出ているのか と 夫が広げている紙面を覗くと
夫が見ていたのは お悔やみ欄ではないか!

えッまさか・・・私より若かったはずだから 住所が違う同姓同名の人じゃないの?・・・
と 思いながら よく見ると 氏名も住所も まぎれもなく 実家の前のお宅のご主人だ!

信じられなかった。

とてもいい人だった。
母が亡くなった時も 私が地元にいないために まったく知らない地元の葬儀のしきたりから
班の人たちへのふるまい方に至るまで 微に入り細に入り 陰で教えてもらい 支えてもらった。
父が病んでいたし 頼りの本家も代替わりしていたから **さん御夫婦の存在は
当時の私には 地獄に仏 状態で 本当にありがたかった。

なんということだろう!!
そのご主人が亡くなったのだ。

さっそく近所のお宅や親戚へ電話して 詳細な情報を得たい と思ったが
おそらく どの家も 当家へ出向いたり式の準備やらで 忙しく動いているのだろう 留守だった。
そのあとも 折をみては電話してみるが 今だに どのお宅とも 連絡がつかない。

今朝の新聞に載った ということは 多分 明日の葬儀だろう。
夕方になって また電話して 確かなことを聞かねばならないが・・・。

それにしても 御主人になにが起きたのか・・・
奥さんは どうしていらっしゃるだろう・・・
息子夫婦と同居とはいえ 認知の母親を抱えて これから一人になって大変だろう・・・

ふいに飛び込んできた訃報に 頭の中がバラバラで まとまらないでいる。

今日は書道の稽古日。
いつも一緒になる 大好きな女性が 今月はお休みで ちょっと淋しい。
御主人が 先月から入退院を繰り返していらっしゃるので 看病と御自分の体調不良もあり
今年は来月から とのことだ。

それでも 練習はもちろんだが 先生と話しがしたくて 出かけて行った。

今月からまた始めた仮名は 一応先週仕上げたから 今日からは調和体の練習だ。
お手本を横に置いて練習するのだが 毎回初めてのように難しい。
それでも今日一番の出来を一枚 預けてきた。

今日 練習の合間に先生と交わした会話は 広い世の中には 表だって輝かないけれど
素晴らしい方が 素晴らしい生き方をしている方が たくさんいらっしゃる。
身近にも 辛さを明るさに換え ぶれない芯の通った生き方をしている人もある。
そういう方から学ぶことは多い。
そんな生き方を手本に 自分なりに誠実な生き方をしていきたいものだ。 そんな内容だった。


終えて バスを待っていると 高山の友人から電話があった。

働き者の彼女は 私のようにぼんやりしていることがない。
一年のほとんどを ほうれん草の出荷農家で働いているが 娘夫婦との同居だから
たとえ疲れて帰宅しても 娘が遅くなる日には 夕食作りや家事をこなさねばならない。
孫もいるから なかなか自分の時間も持てないだろう。

今は そのほうれん草の出荷がない時期で 私なら毎日ダラッとして過ごすのだが 彼女は違う。
ちょっとした時間ができると なにか手仕事を見つけ 小物を作ったりして
私やもう一人の友人に 贈ってくれたりする。

その彼女が 今作り上げたばかりの クラフトの可愛いペン立ての写真を送ってくれた。
電話でも かわいい大きな目をつけたペン立てについて話し もう次に作りたいものがあるの と
楽しくて仕方がない という声で 作ろうとしているもののことを話した。

そういえば 彼女の生き方も 書道の先生と交わした話の一人に入る と
彼女と 電話で話ながら思った。
彼女も 素敵な生き方をしている人なのだ。

テレビや新聞で紹介されるような そんな華々しくてきらびやかな生活ではなくても
地道に 自分の生きる場所を知り 身の丈の幸せを見つけて懸命に生き
その中で 楽しみを見つけて イキイキと明るく生活している。
こんな素敵な生き方があるだろうか。

昔 学生時代 校長先生が 「平凡なる非凡」 と いう言葉について
何かの訓示の折だったろうか 話されたことがある。
当時十代の私は その言葉の持つ重みを あまり理解できなかったが
今なら はっきりと分かる。
友人の生き方こそが 「平凡なる非凡」 そのものなのだと。

偉い人 輝いている人 しなやかに生きている人 が こんなにも身近にいる
そう気づいて とても嬉しくなった。

思ってみると 私の周りにいてくれる人は みんな尊敬できる人たちばかりなのだ。
こんな素晴らしい人達に囲まれた私って なんて幸せなんだろう。

年の初めに あらためて 幸せであること に気づかせてもらった一日だった。

今日は 大寒。

今朝は 予報通り 夜中から降った雪が 測ってみると十六センチ積もっていた。
この冬始めての雪景色だ。
それにしても これが大雪だと大騒ぎするくらい 今冬は暖かいのだ。

いつもより早く起きた夫は 多分 勤務先は一時間遅れの始まりになるだろう と
その連絡が入るのを 待っていた。

その通り 一時間遅れで出勤して行った夫を見送った後
真っ白になった外を眺めるともなく見ながら 昔の冬のことを思い起こした。

必ず冬の時期にあった 本家の「ほんこさま」のことなどを・・・
「ほんこさま」とは 報恩講のこと。

「ほんこさま」の日は 本家の幾つかの部屋のふすまが外され 畳の大広間が作られた。
そして 大広間の周囲には 田中大秀の書の屏風が 張り巡らされていたこと・・・
幅一間以上はある金色の仏壇が その夜ばかりは 一層キラキラと燈明に輝いていたこと・・・

台所や囲炉裏の間では 母やいとこの母親たちが 白い割烹着姿で忙しそうに立ち働いていた。
母たちは 何日も前から 本家のその日のために 寄り集まっていたのだった・・・。

その日ばかりは 私たち孫の一人一人にも 大人と変わらないお膳が用意された。
大勢の 知らない親戚筋の老人やおじさんたちを 遠目で見ながら
いとこたちと並んで 膳に載ったたくさんの御馳走をいただいた・・・。

やってきたおじさんや老人たちは 一様に 山高帽を被り 着物の上には 衿に毛皮がついた
黒くて長いマントをまとい 黒や紺色の足袋をはき 下駄は 爪皮のある高下駄だった・・・。

あの頃の「ほんこさま」は 本家が 何百年も続いてきた 町の名家としての
証しのようなものだった と 今は想う。
一族やその縁に連なる者たちが 一同に会して先祖の供養をするのが 「ほんこさま」だった。

子どもながら 座敷に並ぶお膳の数と 立てられた背の高い屏風に 圧倒されるようだった。
高足の塗のお膳や その上に並べられた幾つのも器は 輪島だったり九谷だったりの
何代も受け継がれてきた 常は蔵に眠っている什器・・・
なん捜も立てられた屏風の田中大秀は 江戸時代後期の国学者・・・。

それら全ての道具が 遠い先祖に連なる物だということを その日集う者たちが 全て先祖を
同じくする者たちだということに 子どもながら感動した。

その本家も 血縁からいうとずっと薄い人間が当代になって つぶれてしまった・・・
もしも 継いだ者が いとこのうちのだれかであったなら こんなことにはならなかっただろうに・・・。
長い歴史の中で 懸命に生きて代を繋いできた先祖の努力は いったいなんだったのだろう・・・。

自身のルーツが無くなってしまったような 寄る辺を無くしてしまったような・・・
そんな心もとなさを感じる。
父は こんな生家の結末を見ないまま逝ってしまったが かえってよかったのかもしれない。
叔父宅を訪れる度 この話を持ち出し 嘆く叔父の心には 私なんかより 何倍も何倍も
生家を貶められた憤りと悲しみが渦巻いているのを ひしひしと感じるから・・・。

雪は これからやってくる未来へではなく 過ぎ去った時代へと 人をいざなうものなのか・・・
心の底に沈んでいる 冷たい悲しさまでも思い起こさせる 今朝の雪だった。

二十七年度下半期の芥川賞と直木賞が決まった。

江戸時代ものを読むようになってから 何回か 特別関心のあった年度があった。
何故なら この作品は面白い この作家は力がある と思っていた人が
候補に挙がっていたり 受賞したりしたからだ。

今回も 特別の関心をもって 選考結果を待っていた。
今回 直木賞候補に名前が挙がっていたのは四人。
そのうち 日ごろ 力がある 作品の構成もよく文章表現がいい
と思って 作品を読んでいた作家が なんと 二人も候補に挙がっていた。
だからこそ 今までになく 期待感があった。
もちろん 候補作品はすでに読み終えている。

一人は 梶よう子 もう一人は 青山文平。
梶よう子は あらかた 時代ものを書く有名作家の作品を読み終えた頃
図書館で目についた作品の作者だった。
若くて 世の中にあまり名が知られていない作家だったが 読んでみて驚いた。
文体の確かさや描き方に魅了された。
それからというもの 世に出された時代ものの作品は 全て読んできた。
最新の 「ヨイ豊」 も もちろんだ。
読んで この作品にかける 作家のただならぬ意気込みを感じた。
だから 候補に挙がるのではないかという予感がした。
今回は 惜しくも受賞を逃したが おそらく今後も 様々な賞の候補に挙がる作家であることに
間違いはないだろう。

今期 直木賞を受賞したのは 青山文平だった。
受賞作品の 「つまをめとらば」 を読んだ時にも いい作家に出会った と思った。
品のあるさらりとした文体で 登場人物の細やかな心情が描かれていて
作者の なみなみならぬ力量を感じた。

いつも いい作品に出会うと この作品を書いた作家って 『どいうひと?』 と
調べてみる。
以外に若い とか えッ私の年齢に近い とか それまでに
どんな賞を受賞しているのか とか 様々に おもしろい。
青山文平は なんと私より一つ下だった。 そして 以前には 松本清張賞を受賞していた。
梶よう子ともども 想った通りの力量を持った作家 とわかり
一人で やっぱりね と にんまりした。

二人の作家の作品には どれも 偶然 図書館で出会った。
思いもよらない面白い作品や力のある作家に ふと出会った時の喜びと充足感は
発掘家が 宝物を掘り当てた時の驚きや感動に似ているかもしれない。
本を読むことの楽しさは 読書することだけでなく こんな点にもある。

そして 自分が かねて目をつけていた作家が 大きな賞の対象者になったりすると
自身の 作品を読む力が評価されたようで とても嬉しい。

これだから読書はやめられない。

青山文平さん おめでとう!!
梶よう子さん 今回は残念だったけれど これからも あなたの作品 期待していますよ!







大雪 大雪 と 以前から 天気予報のお兄さんやお姉さんが 大声で言っていたから
きっと 昨夜半からは それまでの雨も雪に変わって 朝には積もっているか と 想ったら
なんのことはない 朝 起きてみれば 雪の影すら見えなかった。
一月のこの時期に 雪ではなくて雨が降る というのも珍しい。

予報が外れて 肩透かしをくったみたいで なんだかスヤンとした気持ちだった。
通勤する夫には ありがたかったが ニュースを見ると なんと 東京近辺の関東地方は 凄い雪で
混乱している というではないか。

最近の天気は ちょっとおかしいことになっている、
豪雪地帯の白川村でさえ 私たちが暮らしていた頃には考えられない 降雪の少なさだ。
私が暮らす地域でも 三十年前には よく降った。
それが 近年では この地方には降らなくて 東京近辺に よく降る。

もはや 地球温暖化のせい としか考えようがない。

でも 明日は 今日よりもっと強い寒波が来て 明後日にかけては 本当に雪が降る という。

明日は 大学病院へ行く日。
夫は 道の状態を予想して いつもより早く家を出る と言っている。

明日は 重装備で出かけなければ。
今まで着る機会がなかった 裏に毛皮がついている防寒コートを さっき準備した。
それに帽子と手袋も。もしかしたら マフラーも要るかもしれない。

早々と 目覚ましもセットして もう 私は 明日の朝 出かける準備は万端だ。
夫は これからお風呂に入る。
私も 続いて入って いつもより早く休むつもりだ。

私が住んでいる市と隣の市との境に 近頃では その名が知られるようになったお寺がある。
何で有名になったかというと 達磨。
聞くところによれば 先々代辺りの住職が お寺の目玉を達磨にして この月と八月には
それぞれ 達磨観音 達磨供養 を始められたらしい。
それが昨今 かなり有名になって 遠くからでもたくさんの参詣客が訪れる。

今日が その達磨観音の日。
近年では 裏山全体に どうだんつつじを植え 花をつける春と 葉が紅葉する秋にも
多くの見学者が 参詣がてら訪れるようになっている。
お正月とお盆だけでなく 春夏秋冬 参詣客が集まるから 下世話な話だが
あがるお賽銭も 相当なものらしい。
敷地内もきれいに整備され お詣りの順路も よく考えられている。

近隣にはない達磨 に 目をつけた先々代の慧眼には おそれいる。
それまでは 小さな末寺だったらしいが 今では 上納金も多くて 会合などでは
住職は上座に座られる とも 漏れ聞こえてくるから 良く思っていない人があるのも
確かだ。

この地に落ち着いた時 いろいろな話も聞いたが それでも 地元のお寺だから と
毎年 年頭には 必ず家族で参詣してきた。
そして 人の口はともかく 毎年このお寺に祈願したことは 不思議に叶ってきた。
我が家にとっては あらたかなお寺だ。

だから 今年もお正月にはお詣りし 今日の達磨観音の日にも
去年求めて祈願が成就した達磨を 供養してもらうようお礼詣りして 預けた。
そして 今年のために 新しい達磨を求めてきた。

夕食の後 新しい達磨に 今年の祈願事を書きつけた。
去年の主だった祈願は 娘の安産だった。それに家内の健康と安全。
今年の主願は 孫の志望高校合格。
五百円を喜捨したろうそくに願い事を記し 孫には合格鉛筆を求めてきた。
もちろん それぞれの建物にある賽銭箱には なにがしかのお賽銭を。

今までのように どうか今年も願いをお聞き届けくださるように と
夫と二人で祈ってきたから きっと 叶えてくださるだろう。

春には 志望高の制服に身を包んだ孫の姿が見られることを 楽しみにしている。

夫は この三月末まで 前職の同じ職務の人ばかりで組織する会の
地域代表をしている。

去年の四月以来 亡くなった方の葬儀への出席と 式の際の送辞の拝読などや
各会員への連絡 その年に国から表彰される方の姓名を県を通して連絡するなど
が大切な仕事だ。

会の構成上六十歳が最も若いから ひっきょう会員は 皆老齢だ。
中には 百歳近い方もあり いつどのような連絡が入るか気が抜けない。
それで 去年は 長期で家を留守にできなかった。

今回も 今年表彰される方へ渡される賞状が 去年末から我が家に届いていて
今月の吉日 本人へお渡しする予定だが その賞状には 姓名が記入されていない。
事前にこちらで 期日とともに記入する。

拙くても習字の稽古に通う私が 今夜 毛筆で書き入れた。
夫が自分で書けないわけではないが 習字に通っているのだから お前が書け と言う。

何度も練習した後に 賞状に書くのだが それが なかなかうまく書けない。
練習した字のほうがよかったりしても 書き直しができないから やっかいだ。

こんな時 自分の拙さを思い知らされる。
どうしてこんなに下手くそなんだろう と 落ち込む。

今年は心を入れ替えて励め ということか。
思い知った以上 謙虚にすなおに 自分の未熟さ加減を認めねば。
そして 真面目に努力しよう。
おしゃべりの楽しさばかりを求めないようにしよう・・・。
おしゃべりが一番の楽しみなんだけど・・・。

私は アルコール類が まったく飲めない。
まるっきり 体が受け付けない。
それが どういう因縁か 連れ合いに選んだのは お酒大大好きな人だった。

毎日 晩酌が欠かせない夫は いつもは 一人で手酌酒だが
新しく酒瓶の封を切った時 猪口に注いで自分が口をつけた後
私に その猪口を渡して ちょっと味をみてみろ と言う。

結婚して四十年以上も ちょっと味をみる を続けてくると
そのお酒の特徴が わかるようになっている。

例えば このお酒は香りが華やかで 飲んだ後はスッキリ辛口 などとか
豊かな香りで 口に入れると ねっとりした甘さがある など
そのお酒の特徴のとらえ方も なんとなく分かってきている。
おそらくこれが 利き酒 というものだろう。

いつからか お酒好きの夫のために 友人とよそへ出かけた時には 必ず その土地のお酒を
土産に購うのが 習慣のようになってしまった。
その折には 幾種類かのお酒を 利き酒してみる。
そして それまでに夫が飲んだことのないような 香りや味のお酒を探す。
お酒が飲めないにもかかわらず ほんの少しずつでも 利き酒をすると それだけで
もう 顔がほてってくるが その利き酒が 旅先での私の楽しみになっている。
四十年も経てば たとえ飲めなくても やっぱり 酒飲みの女房 になってきた。

これから先 何回 友人との旅ができるかわからないが
一人留守番の夫のために 飲んだことのないお酒を見つけては 買って帰りたい。

今年も 旅そのものはもちろん そこでどんなお酒に出会えるか も 楽しみにしている。





日中 友人から電話があった。
彼女は ずっとパソコン教室にも通い ブログも 昔から続けていて
中には 有名人がいるほど 彼女のブログを楽しみに見ている人の数が多い。
そんな彼女が 毎日の出来事や思いを日記替わりに書く なんでもないこのブログを読んでくれる。

その彼女が言うには 私の書く文章は とても分かりやすい言葉で書かれているが
書き手の気持ちや心がよく理解できる そんな文章なのだそうだ。

たしかに 文章を書く時には 私自身 できるだけ平易な文言を使うよう 心がけている。
だれにでも理解できる言葉で 自分の思いを表現する そう意識しながら書いている。

だから 彼女の電話での言葉は 嬉しかった。
ただ読むだけでもなのに ちゃんと 私の心がけていることにまで言及してくれたことが
とても嬉しかったのだ。

文体を変えたのには きっかけがあった。
ここ数年前からはまっている 江戸ものの時代小説だ。

以前は 言ってみれば 芥川賞に値するような小説が文学だ という認識が強かった。
実際に読む本も その分野のものだった。
それらの作品は えてして 内容が難解だったり 作品の中で使われている文言にも
難しい熟語が多かったりする。
そうした高尚な文学を読むことが読書だ と ちょっと奢った気持ちがあったことも確かだ。

それが ほんの小さな誘いから 江戸ものを読むようになった。
そして たくさんの作品を読んでいくうちに 人の心を感動させるためには
なにも難しいテーマを難解な言葉を使って表現する必要はないことに気づかされた。

こんなにも長く 江戸ものにはまっている原因も その辺りにある。
戦のない江戸時代に生きた人々が 武士であれ町民であれ 富裕であれ貧乏であれ
それぞれがそれぞれの置かれた立場で 一生懸命に生きている。
その姿を描くのに 難解な言葉はいらない。
各作家が 登場人物や彼らの細やかな心情を描くためには
むしろ漢字の熟語より平仮名だったりするほうが より心のひだや在り様を表現できる。
人の内面を描き出すのに 難解な言語は かえって邪魔になるのではないか。


数多くの江戸物を読むうちに 平易な文言で表されているにもかかわらず 登場人物たちの動きや心情が 実にしっくりと 読み手の心に伝わってくることに気づかされると
それまでの私の文章が 自然に変わった。
理解しやすい言葉で表現すると 自然に やわらかに心情も吐露できることも分かってきた。

最近では 易しい言葉で文を書くことにも 随分なじんだ。
そんな折の 彼女の言葉だった。

これからも 易しい文言を意識しながら このブログを書いていこう と思っている。
内容が その日その時の 自分の思いや考えを綴るものだからこそだ。



朝 家の周囲は 霜で真っ白。
春先には かわいい董をだす折菜の緑の葉も まるで霜の重みでしおれているようだ。
それでも 九時を過ぎると 日差しは次第に暖かくなって またまた今日も 洗濯日和だ。

一年中で一番寒い時期なのに こんなに暖かい日が続いていいのだろうか。
会う人ごとに 会話の中で 必ずこんな言葉を交わしてきた。
暖かいのは ありがたいが こんなじゃ冬は終わらないよねえ。
そうも言い交して きっとドカンッと寒さがやって来るよねえ と 締めくくるのが
最近の 定番会話の流れだ。

その会話のように 来週は 今よりもっと気温が下がり 雪だるまのマークが続く日が
やってくるらしい。

それであたり前なのだろうが 私の体には 大迷惑な天気予報だ。
今でさえ 小さめではあるが カイロを 衣類に五つ貼っている。
それが 多分来週になると 大きなカイロを 七つ 多ければ九つ貼ることになる。

できることなら 天気予報が外れてほしいが 最近の予報は 当たる確率が高い。
そんなに寒くなると想うと もう今から憂鬱だ。

年が変わって 陽が昇る時刻も徐々に早くなり スーパーやコンビニの店頭には
節分の際の恵方巻きのチラシが貼られるようになった。

一足飛びに 柔らかくて暖かな風の吹く春が 早く来ないものか。
動揺の中の ミーちゃんのように
はァるよこい~はァやくこい~ と 私も 春の訪れを待っている。

昨日 リハビリからの帰り道 運転席に座る夫の向こうには 暗い西空の山際すれすれに
生まれたばかりの朏が 細く鋭く弧を描いて 黄色に輝いていた。

川に沿って走る堤防の両側は 一段下がった枯れ色の田んぼが広がり 人家の灯が点々と見える。
藍色の空には 星も幾つか 低く小さく光っていた。

この時期の夜空は 闇が深い。
それなのに 今夜の空は 東も南も西も 中天まで薄く茜色を帯びて まるで夕焼け空のようだ。

我が家からでは 今夜も西空に低くかかっているだろう朏は見えない。
あんなにきれいな朏なのに ここからは見られない。
堤防まで行けば見えてくるあの朏なのに・・・。

薄桃色の南の空を 点滅する飛行機の明かりが ゆっくりと横切って行った。

あの場所からなら 刺すように尖った朏も 薄茜色に変わった空も なにもかもが
寸分違わない姿で 見えるだろう。

その遥か下で 泣いたり笑ったりする私の なにもかもも
あそこまで行けば ありのままの姿で 見られるだろうか・・・。






娘たちが帰ったとたん ここよりずっと暖かいはずの東京なのに 雪が降った。
でも こっちは せいぜい霜が降りる程度で 雪は降らない。
まるで 逆転したような天候だ。

孫は 新年になって今日が初めての登園だったが 寒かった今朝 ちゃんと起きて
行けただろうか・・・。
こちらにいた間は 朝 起きるのもゆっくりだったから 着替えや朝食も遅かった。
幼稚園へ行くためには けっこう早起きしないと 間に合わない。

母親や送って行く父親に 叱られて泣きながら準備したのではないか・・・。
朝 シーツ類を洗濯し干しながら案じた。

そして夫も 今日からは一日勤務が戻ってきた。
これからの一年 健康で 事故なく通勤できますように・・・そう祈りながら
送りだした。

物心つく前から 十日までが松の内で 鏡開きは 今日 一月の十一日 が習わしだった。
だから世間も生家でも 県から年末に各戸に配布された 門松替わりの印刷物や
玄関の注連飾りや 床の間 神棚 仏壇 勉強机の上など あちこちの鏡餅を
十一日の朝 下げまして 鏡餅は雑煮や焼餅にして食した。

ところが この 松の内の日にちが 昨今 変わってきている。
いつからそうなったのかわからないが 私が住んでいる界隈では
どうも 松の内は七日 が 定着している。
所によっては 正月三が日が松の内で 四日には もう正月飾りを外す所もあるらしい。

昔のように日本全体が習わしを守って どこでもが 松の内の考え方や期間を同じくすることは
ないに等しくなっているようだ。

この変化は 忙しい現代社会の動きに伴ってのことだろう。
こうして 少しずつ習わしやしきたりが壊れていき 日本らしさも失われていくのかもしれない。
しかし 長い歴史のなかで形や内容を変えながらも お正月の飾りや鏡餅は続いてきた。
基本的なことや心さえ途切れなければ 松の内の考え方が変わっても 仕方がないのかもしれない。

去年までは 我が家では 周囲の家々が注連飾りを外しても 従来通り十日までを松の内と決めていた。
しかし 町内のどこもが正月気分が抜け 表向き平常の生活に戻っているようなのに
我が家だけが いかにも呑気そうに いつまでも飾りを下げたままでいるのは 少し気がひけた。
特に我が家は 団地の一番端にあるから 町内の人は みんな我が家の前を通って行き来する。
だから 余計に 人の目が気になった。

それで今年 思い切って周囲に倣い 我が家も松の内を六日までとし 七日の朝には
注連飾りなどの正月飾りを すべて外した。

おもしろいもので 正月飾りを外すと とたんに 気持ちも平常に戻る。
なるほど 勤め人ばかりの町内のこと。こうして みんな いつもの仕事に戻っていく気持ちになるのか。

飾りを外した後は 思いのほか清々しくて たまには 右へ倣え もいいものだ と思った。

下げてあった鏡餅は 今朝 夫と二人 雑煮にして食した。

娘家族が滞在していた間 ずっといい天気が続いたが
孫が扁桃炎になったために 滞在中 どこへも遊ぶ場所へ連れて行けなかった。

それで せめて と 一昨日の午後 我が家から近い 隣市の子ども施設へ
みんなで出かけた。

その施設は 山裾の辺り一帯が広大な公園になっており 中には野球場もある。
宿泊施設もあって 隣市の小中学生はもちろん 様々な団体の研修や合宿にも
利用されている。

公園の中は それぞれ使用目的によって ゾーンに別れていて
遊具があるのは 子どもゾーン。

乗りものは 付き添いの大人だけ二百円で幼児は無料 とあって
孫は 何回でも 気に入った乗りものに乗ることができた。

孫は テントウムシ型の 一本レールの上を 電動で走る乗りものが気に入り
下りの坂道では かなりのスピードが出るのに 平気で楽しそうに乗っていた。 高い場所や スピードがあるものが大好きな所は 娘に似たのだろう。

全ての乗りものに乗り満足した後は 山際に設けられた アスレチックへと向かった。
私は ベビーカーの上で眠る赤ん坊と残り 孫が戻って来るのを待った。

冬季は 三時で閉園になるから あっという間に閉園が迫った。
帰りには 孫は 芝生の上を コロコロ転がり降りて
楽しそうに はしゃぎ声をあげていた。

久しぶりに戸外で体を動かしたせいだろう。
その夜の孫は 夕食と入浴を済ませると すぐに眠った。

最後の日になったが 短時間でも戸外へ連れ出し ミニ遊園地で
楽しく過ごせた。

おそらく あの日の事は 長ずるに連れて 孫の記憶の中からは消えていくだろうが
夫や私には 孫の折々の表情とともに 思い出として いつまでも心に留まるだろう。



娘が 二人の孫を連れて 東京へ帰って行った。

夫と私は 名古屋駅の新幹線のホームまで 見送りに行った。
孫は 新幹線に乗り込むと
また学校(幼稚園)がお休みになったら来るからね
と 口元を両手で覆い メガホンのようにして 大きな声で言った。
そして 動き出して 窓から見えなくなるまで 小さな手を振り続けていた。

下の孫は ベビーカーの上に寝かされたまま 顔を合わせると
相変わらずニコニコ笑っていた。

結婚して以来初めて 二週間もの間 帰省した娘。
一人でならいざしらず 幼児と赤ん坊と一緒では なかなか心身を休めることも
出来なかっただろうが それでも 私や夫と一緒に過ごすことによって
東京にいては味わえないくつろぎを すこしは感じて帰って行った と 思いたい。

娘たちを見送って帰り ドアを開けて居間へ入ると それまでの賑やかさの名残の
おもちゃや本がある。 でも 孫たちの姿はなく なんだか 寒々としていて淋しい。 家の中も 急に静けさが戻っている。

台所に立てば 流しには 娘が下げて行った 彼女たちの湯飲みやコップが置いてあった。

娘や孫たちが使っていたものや おもちゃの一つ一つに この二週間の生活がこもっている。

これからしばらくは 娘たちが使っていた布団カバーやバスタオル お昼寝用のものなどを 順番に洗濯しながら 娘たちが滞在していた間の 折々の細やかなことなどを思い出すだろう。

今日 午前に 娘は 中学からの友人と 何年ぶりかで会うために 上の孫を置いて
赤ん坊だけを連れ 迎えに来てくれた友人の車で 出かけて行った。

今日から夫は出勤で 朝早くには出かけていた。

家に残った私と上の孫は 大好きな トトロとポニョのDVDを視ながら 留守番した。

娘が帰って来て オムツを換え 私が抱いた。
抱いているうちに 何かわからないが 赤ん坊の様子に いつもと違う感じがした。
よく様子を見ているうちに それまで何か掴みたかったりすると 必ず右手を
最初に出していて この子は右利き と こんなに小さいのに はっきりわかるね と
娘と話していたほどなのに その右手をダラリと下げたまま 使わないことに気づいた。
娘にそのことを話すと 何でもないと思う ちょっと様子を見てから と 言う。
母親がそう言うのなら と 私は もし夕方になっても 今のままだったら
私がリハビリに行く時に 一緒に整形外科へ行って診てもらったらいいわ と言った。


でも 夕方 夫が帰宅しても 赤ん坊が右手を使わないのは 変わっていなかった。
それで 整形外科へ連れて行くことになった。
もし それで なんでもなければ それにこしたことなはい と 娘も同意した。

そして診察してもらうと 右手の筋が伸びているようだ と 医師が言い
服の上から 小さな手の肘を動かすと 瞬間泣いたが 後はケロッとして笑った。

幼い子には けっこうあることで 親でも 要領さえわかれば治せますよ と
医師は言われたが それはちょっと怖い話だ。
癖になることはない と言われて 一安心。

右手をダラリとさせて動かさないことに気づいた時は ビックリした。
実家へ来ていて けがをさせたり病気になったりさせるわけにはいかない。
万が一 重篤なことにでもなったら大変だ。

今回 簡単に治るようなことで 本当によかった。
いとも簡単に治ったことに 感謝 感謝。

幼い子は 特に赤ん坊は 自分の状態を言葉で伝えられないから
よほど注意深く接していないと 知らないうちに取返しのつかない事態に
なっていたりする。
子育ての期間は 親は気が抜けない。

いつもアンテナを立てて 少しのことも見逃さないように と
気を張って育てなければならない。
だから 子育ては大変なのだ。

今後も このようなことは起こるかもしれない。
自分の経験からしても 娘の苦労は 始まったばかりだ。
二人の孫を一人前にするまでには いろいろなことがあるだろう。
それまで 娘が元気で健康でいられるように と 心から願っている。

四歳になった孫娘は 父親がイギリス人だから 生まれる前から英語と日本語を聞いていた。

最初は 当然母親との間が親密だから 日本語の片言から 言葉を発した。
その後 父親の話す英語は理解できても なかなか 言葉としての英語は出てこなかった。
それが 次第に 片言から始まって 二三語を連ねて話せるようになっていき
幼稚園へ通うようになると とたんに 英語での会話が めざましく上達してきた。
幼稚園での生活は英語だから 一日中 英語で過ごしているからだろう。
娘婿でさえ 孫の英語の確かさには 驚いているほどだ。
今では 父親とは英語 母親や私たち夫婦とは日本語 と 完全にスイッチが切り変わる。

子供の持っている力の凄さを痛感させられる。
と同時に まだまだ幼い孫だから 時折かわいい言い回しをしたりする。

トンネルをトンデル トンカツをトンカチ。
おてつだい は いまだに おつてだい など 会話の中に かわいい誤りがあって
会話の最中に ついプッと吹き出しそうになる場面もあって こちらの心を和ませてくれる。

孫の言葉は 日本語にしても英語にしても 今後もどんどん進歩していくだろうが
あどけない可愛さが それに反比例して無くなっていくのは なんだか淋しい。

婿たちが帰省した翌日の夜の すき焼きのお肉と 家族大集合だった元旦の夜に
食したステーキのお肉は 牧場から直の飛騨牛だった。

お肉大好きの けっこう味や硬さにうるさい婿も この牧場のお肉は いつも
美味しいと言って食べてくれるから このお肉は本当においしいのだろう。

このお肉には わけがある。

知人の義弟さんが 以前は 高山で飲食店を経営していらっしゃったのだが
お肉好きがこうじて とうとうお店を閉めて 育牛する側の仕事に就かれた。
不便な山奥の牧場の仕事だが 家族でそちらへ移住されたのだそうだ。

その牧場主は どうしても ブランドを守るがために価格統制になってしまう
業界の状態に 異議を持つ方のようで 組合には加入せず 美味しい飛騨牛を
一般の販売価格より低く提供されている。
自分の所で牛を育てさばくから 独自のルートで流通させることができるらしい。
だからこそ 新鮮で安価な飛騨牛が 手に入る。

大勢が集まる時や いいお肉がほしい時には 最近は その知人の愚弟さんに
連絡をとるようにしている。

こちらが どんな部位をどれだけ欲しいか また何に使うのか などを話すと
それでは この部位がいいですね とか サシはどれくらいがいいですか など
細かく 聞いて こちらが希望するお肉を 届けてくださる。

年末から年始にかけては 冷凍肉ではなく生のお肉を わざわざ家まで
自ら持ってきてくださった。
市価より安く購入させてもらっているのに しぐれ煮にしたパックまで二袋も
いただいてしまった。

なんでも 高級ブランドとして守っていこうとすると 自ずと価格も高くなってしまい
庶民の口には なかなか入らなくなってしまう。
だからこそブランドなのだろうが ブランド化するために 一部の業者を中心に
価格を設定されては 庶民はたまらない。
それでは 自分たちの高い利益を守るためのブランド化 になってしまっている。

そんな中だから 義弟さんが働いていらっしゃる牧場の主には 業界からは
かなりキツイ締め付けがあるだろう とは予想がつく。
それにめげないで 独自のルートを開拓し流通させていらっしゃるのは
よほど強い信念を お持ちだからだろう。
実際 隣市には この牧場のお肉を扱っているお店が 数店ある。

私は そんな牧場主に感謝しながら こうして購入することが とりもなおさず
応援することになるのだから 次回も必ず・・・と 喜んで食す家族の様子を
見ながら 思ったことだった。





暮れからお正月三が日は 珍しく婿が来る とあって 肉大大好きの彼を中心に
考えた献立になった。
日本のお正月は どうしても 野菜と魚が中心の料理が多くなる。
それでは 西洋人の婿は 食べる物が限られてしまうからだ。

飛騨育ちの私は 大晦日は やっぱり鰤で年越しをしたいから 毎年必ず 塩鰤か
照り焼きを 銘々につける。
それに これも近年 我が家では恒例になっているお寿司は もう当たり前だから
お寿司屋さんに 暮れ前から 予約がしてあった。

おまけに 今回は 次男も海に近い場所にいるとあって 活鯛や活スズキを買ってきてくれた。
夫は それらをさばいて お刺身にした。
酢のものも 好きだからタコが入るし いくら生野菜や煮物があっても 銘々の御膳には
魚ばかりが目立ってしまう。

それでは 肉で育った婿がかわいそうだから 揚げ物やソーセージの類でオードブルを作り
ローストビーフも作って出した。

元旦の夕食は 長男家族も来て 一家の大集合になったから おせちだけでなく
奮発して 一人三百グラムのステーキにした。
育ち盛りの中学生や小学生はペロリと食べた。もちろん婿も とても喜んでくれた。
お肉が苦手な私と四歳の孫は 半分ずつを食したが 次の日も半分ずつ食べたから
結局は それぞれ一枚を食したことになる。

またタイミングよく 暮れには 義弟が捕ったばかりの生の鹿肉の塊を いくつもくれた。
冷凍にしたシシ肉の大きな塊も 一緒に持ってきてくれたから 婿の滞在中は
毎日が肉三昧となった。

そのせいか 婿と次男が帰った後は しばらくはお肉はいらないよね と娘も
苦笑いしたほど 毎日の毎食が 肉 肉 肉の食卓だった。

だから 昨日今日は 冷蔵庫の整理も兼ねて 野菜中心のメニューになった。

それにしても 今回のおせちの煮物は 娘らのために いつもより薄味に仕上げたが
三が日持たないほど みんなよく食べてくれた。
きんぴらもそうだった。そればかりか おせち全般を みんながよく食べてくれたから
例年なら いつまでも残るおせちが 三日目には ほんの数品が
わずかに残っているだけだった。

今回 あらためて学んだことは なんにしろ 出汁さえしっかりしていれば
砂糖も醤油も あまりいらない ということだった。
例年も 出汁はしっかりとったうえで味付けはしたが もっと出汁を濃くすればいい
それも 幾種類かの出汁を混ぜて使えば もっと美味しく仕上がる ということだ。 味にうるさい娘がいたからこその学びだった。

この歳になっても 身近なことでも 学ぶことは まだまだたくさんある。
そのことを 再認識した 今年のお正月だ。