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我が家のテレビやネットの回線や電話は 元々テレビが有線だったから
その続きで そちらの回線を利用して料金を支払っていた。

それが 早く繋がるからと営業に勧められて NTTの光フレッツの方へ移った。
それが およそ二年前だ。
ところが 契約時のサービスがなくなるに従って このところの利用料が
なんだか上がってきたように感じていた。

そうしたら つい先ほどだ。
NTT光フレッツからの転用の形で Ene光 という会社に代わる契約をすると
料金が 二千円も安くなる と電話があった。

最初は 新手の詐欺かと疑ってかかったが どうも違うらしい。
応対も丁寧だし しっかり手順を踏んだ説明をしてくれる。
しかし それでも信用できなくて なんだかんだ質問したりした。

聞くと 昨今 携帯会社各社などが テレビとネットと電話をまとめた料金プランを
提示しての勧誘や契約にやっきになっている。今まで NTT の独占分野状態
だったのが そうもいっていられなくなり Ene光へ転用の形で 業界最安値の
料金設定にして 顧客をつなぎとめておこう としているのだという。

なるほど その説明で なぜ二千円も安くなるのか が理解できた。

今月の十日過ぎたころだったか フレッツの料金がいかにも高いような気がして
実際にソフトバンクのお店へ行き 契約寸前までのことを済ませて来ていたのだ。
その際には 携帯をスマホに変えての料金も含めての設定だった。

今思えば 契約してこなくてよかったのかもしれない。
提示された料金は 今とあまり変わらなかったからだ。

改めて契約書が送付されれば契約しよう と思っている。
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昨日 巡回に来た看護師が
めまいが収まっていないのに退院せよとは言わないから安心して。
しっかり治してからしか出さないから大丈夫。
と 私がいる前で 叔母に言ってくれた。

この言葉は そうでなくても どうしてめまいが起こるのか や
いつ起こるかわからないめまいに 不安な思いでいる叔母に
とても力をつけた。
内心 またここでもすぐ出されるのでは・・・と思っていた私も この言葉には
救われる思いがした。

この言葉を聞いた後の叔母は それまでより元気が出てきたようだったし
顔も明るくなった気がして 叔母には一番の薬になるような言葉をかけてくれた
その看護師に 感謝した。

ところが今日 私が 午前中にかかりつけの内科を受診して薬をもらい
家へ帰って お昼ごはんを食べていると 叔母の沈んだ声での電話が入った。

今来た看護師にね 行先が決まっているんだったら 来月の一日には退院です
って言われてしまったわ・・・
昨日 介護の担当の看護師に あんなこと言わなきゃよかったよ・・・
あの看護師が 退院後にあの高いケアハウスに入るつもり ってわかったから
それを医者や看護師に話したから もう退院させてもいいって みんな
考えちゃったんじゃないの?・・・

不安そうな低い声で言う。

ええッ・・・その話は主に私が介護担当にしたから もしそれが本当なら
私の責任だ・・・
あくまでも この病院でしっかり治してもらってから そのあとどうするか ってことで
こちらの心づもりを話したのであって だから早く退院させられても大丈夫だなんて
言ってない!
本当にそんなふうに伝わっているのなら大変だ・・・。

叔母に 大丈夫 昨日そんな意味で介護担当に話したんじゃないから
今から行くけど もし今日その看護師と話す機会があったらそう伝えるから
と答えておいて ご飯の後片付けもそこそこに 夫と病院へ向かった。

病室に入って行くと 昨日帰る時の顔色とは全く違う顔色をした叔母が
今日も椅子に座っていた。

持ち帰って洗濯した下着類やタオルをクローゼットに片づけながら
叔母の不安が軽くなるように 電話と同じことを話した。

しばらくした時 叔母を不安にさせた例の看護師が たまたま用があって入室した。

病室を出て行こうとする看護師に 私は
実は 昨日 こういう内容の言葉をかけていただいて とても心強かったんです。
ところが 叔母が 次に行くところが決まっているんだから もう退院させられる
って さっき言われたと 不安がっているんですが・・・。

すると その看護師は
そんなことないですよ。ちゃんと治してからでないと退院なんてないですから。
ただ 退院時に次の行き先が決まっているのなら そこに空きがないと困るから
退院が近づいたら そちらと連絡をとって退院の日にちの調整はしますが・・・
と 語った。

微妙なニュアンスを含んではいるものの 今日明日にも退院せよ とのことでは
ないようだ。

叔母は それで少し安心したのか ほっとした顔をした。

しかし 今後の診療計画書を見ると 一日に MRI の検査が入っている。
だからきっと その検査結果次第で 退院の日が決まるのではないか・・・
私は 内心でそう思っている。
そうなったらなったで 仕方がない。
移るつもりでいる次のところへ行くだけだ。

叔母は 叔父の死後三か月が経つが まだ心模様が不安定なのだろう。
今日は 叔母が親友とも呼べる彼女の友人からの電話に 傷ついてもいた。

叔母から聞いただけだから その方がどういう気持ちでそういう内容の話を
叔母にされたのかは わからない。
その友人は 叔父の息子つまり叔母にとって義理の息子家族を呼び寄せて
一緒に暮らしたらいいのに・・・。
そう言われたのだそうだ。

まさか友人からそんなことを言われるとは考えてもいなかったから・・・
友人は自分の生き方や考え方を十分承知していてくれると思っていただけに
叔母はショックを受けた。

再婚時には中学生だった息子と 現在まで一緒に生活をした経験もない。
年に数度会う機会はあっても 別の場所で成人し結婚し 家を建て家族を設け
今では退職する年齢になっている義理の息子やその家族との同居など
今さらできる話ではない。
それに彼には 寝た切りとはいえ 存命の生母がいるのだ。

私もその友人を存じ上げているが どういう気持ちでそうおっしゃったのか・・・。

それにしても 他人の言葉に一喜一憂する か細く弱弱しい叔母の姿が
なんだか儚げに思えて 切ない。


数年前 今回と同じことで同じ皮膚科へ行った。
右のこめかみの少し下の部分が 徐々に小さく盛り上がってきていて
洗顔や化粧の際などに指がひっかかり 気になった。
それで受診すると 数回ドライアイスのようなもので焼き その盛り上がりを取った。

今日もまた その後同じように徐々に盛り上がってきたものを取ってもらいたかった。
医師の診断は前回と同じだった。
そして同じ治療をすることに。
数回通えば取れる とのこと。
繰り返すことはあっても 悪性のものではないから安心していい とも言われた。
それで 一安心。

今日は 叔母の病室へ家から茶器やお茶の葉 ふきん I H 用のやかんなどを
持って行った。
叔母が入っている病室には I H のコンロを備えたキッチンが付いている。

叔母は 在宅時には いつも度々温かいお茶を飲んでいる。
それが水分補給の助けにもなっていた。
入院すると 自分でお湯をわかすことすらできない。
それではきっと 温かいお茶を飲みたいだろう と思い 持って行った茶器だ。

案の定 温かいお茶が飲めることをとても喜んで 私が買える夕方までに
何杯もお代わりをして飲んだ。
そのおかげもあってか 出の悪くなっていた尿も便通もあった。
よかった と思った。

叔母は 今朝起きるとまたひどいめまいがして 立つことができなかった。
医師に 横になっていない方がいい と言われたと言って 私が病室へ入ると
叔母は 椅子に座っていた。
めまいの原因はまだわからない。

尿の出が悪い ということで午前中に看護助手が押す車いすで 泌尿器科外来を
受診した際に 飲む水分が少ないのでは と医師に言われてもいた。
だから 今日茶器ややかんを持参して 温かいお茶を飲ませたのは 正解だった。
結果 残尿も便通も改善したようだから 私の判断が正しかった と嬉しくなった。

一昨日と今日 ブドウを買って行ったことも 正解だった。
皮ごと食べられるブドウは 洗って冷蔵庫に入れておきさえすれば 好きな時に
一粒ずつ口にできる。
このブドウがとても甘かったから 種類の選択も間違っていなかった。

人の世話ばかりしている と言われてしまう私だが 世話をしてきたからこそ
今 その人に何が必要か どうしてほしいか が 他人よりわかるのだろう。

だとしたら 私が生きてきた道や経験も無駄ではなかった ということだ。
そして その経験してきたことが 他人の役に立っているのであれば
なおのこと 無駄ではなかった と しみじみ思える。

昨日 今朝十時に 美容院の予約がとれた。
もう三か月以上も行っていない。というより 行けないでいた。
髪は伸びパーマはとれ染めもとれてしまって 自分で鏡を見るのも嫌になっていた。

久しぶりに行くと 三十年も通っているから オーナー夫婦も従業員も親戚のように
みんな目を瞠って どうしていらっしゃったんですか 体悪かったんですか と
聞いてくれた。
いえいえ 実はこんなわけで・・・と 来なかった期間に起こったことを
かいつまんで話すと よくその体でそれだけ動けましたねえ 大変でしたねえ と
いたわりの言葉が口口から連発。

私よりずっと若いが オーナーの奥さんが付き合いが一番長い。
初めから私と郷里が近くて 話があった。考え方も前向きで性格もいい。
オーナであるご主人も 一番古い従業員も同郷だ。
気ごころのわかった心地よさと 彼らの確かな技術が魅力で
他のお店へは変わる気がしない。

久しぶりで髪を短く整えると 頭痛が消えていくような気がする。
昔 亡母が言っていた 髪だけはいつもきれいにしておくように という言葉を
しばらく忘れていた。

さっぱりとした髪で 畑から帰る夫を待ち 叔母の待つ病院へ行った。

午前中は夫と整形外科へ行き 午後からは 叔母がちょこちょこ食べるものを
スーパーで見繕って買って行った。

昨日入院すると 薬剤師や栄養士などが 部屋へやってきて 説明や聞き取りを
して行った。
その際 栄養士に 胃がんで胃を切除している と伝えると
三食はやわらかめのご飯を普通食として出すから 食べられるだけ食べて
食間に食べるものは 患者側で食べたいものを用意してください と言われた。

それではと 皮ごと食べられる種なしぶどう バナナ 果実百パーセントのグミ
クッキー あられ 一口ケーキ などなど 細々と買った。

それらを持って病室へ行くと 叔母は喜んだ。
特に ブドウを洗って冷蔵庫に入れる前 食べると聞くと 食べたいというので
数粒をとってあげた。
口にすると おいしい!!と 最近の叔母にしてはハッキリとした声で
うれしそうな声をあげた。

なんで私たちだけが こんなにしんどい思いをしなくちゃならないの!という
日ごろの気持ちが こんな言葉で報われる気がする。

叔母自身は 根はやさしくて思いやりのある温かい人柄だ。
誰だって なりたくて病気になるわけではないのだ。

乗りかかった船 という言葉もある。
せめて 体がしゃんとして一人暮らしができるようになるまでは
できることはしてあげよう そう最近の自分の心持ちを反省した。

今日は午前中に 三か月も行けてなかった美容院や皮膚科へ行き
午後には整形外科へ行こう と心づもりしていた。

ところが 朝七時半過ぎ頃 叔母から またまた尋常ではない声での電話。
またひどいめまいがしている 這って玄関先まで来ている・・・とのこと。

とっさに これから駆けつけるのに時間がかかる・・・ご近所に頼むしかない・・・
そう判断して 前回の退院時 お礼かたがた退院の挨拶に出向いた折に
お聞きした電話番号に電話した。
事情を話し これから向かうので様子を見てほしい と お願いした。

叔母宅に着くと 近所二軒の奥さんが 叔母の枕元に来てくださっていた。
既にかかりつけ医に連絡してくださっていて 医師がかけつけて診察し帰られた
後だった。ありがたいことだ。
そのあと 医師の日赤病院への紹介状を持って 看護師が注射をしに来た。
注射を二本し 処方していただいている薬が残り少ないことを告げると
帰ってすぐに医師に聞いて連絡するから と言い置いていったん医院へ帰り
薬は日赤で出してもらうようにしたから これからすぐに向かうように との指示。

そうしている間に 汗だくになって 夫と二人で入院用品を調え 玄関に。

夫の車に 叔母と荷物を乗せ日赤病院へ。
案内の受付で その旨を伝えると 看護師が叔母を車いすに乗せて内科外来へ。
診察を待っている間にも 叔母は車いすに耐えられなくなって 処置室のベッドで
横になった。

家から叔母宅へ向かう途中で妹さんに事情を電話し 今後の対策を相談したいから
来てほしい と連絡を入れておいた。
病院に着いてからは夫が 叔父の息子に 同じ内容の電話を入れた。

まさか こんなに早く再入院になるとは思ってもいなかったが
今後の対応策を決めてもらうのには この機会を逃せない と思ってのことだった。
面倒を見てはいても 子供でも血縁でもないから 私たち夫婦には決定権がない。
叔父の息子にしても 扶養の義務はないものの 遺産分配に関わる関係がある。
妹さんは もちろん血縁である。
その二人に私たち夫婦の考えを聞いてもらい 今後どうしたらいいか
一番いい という方法を決めてもらいたかった。でないと これからも私たちに
かかってくる負担がどんどん大きくなっていくことは目にみえているからだ。
健康ならいいのだが あいにく私も体に影響が出始めている。これでは
共倒れになってしまう。

それと 一番考えたいのは 今度退院しても また同じよう事態になる可能性もあり
そんな不安をかかえたまま一人で暮らす叔母の気持ちだ。
不安や 不安定な気持ちを抱えたままでは 安心して落ち着いた生活ができない。
心のケアや精神安定のためにも ケア付きのマンションなりハウスなりに退院後
入り 善くなったら自宅へ戻るのがいいのではないか・・・。

決まった病室に叔母が入り 入院用品の片づけを終えて一段落。
妹さんが着き 息子が着いた後 本人にも考えを話した。
その上で 知人から聞いていた タワービル内にあるケアハウスのことを話した。
ここは お金はかかるが 叔母のように退院後に一人暮らしが不安な人には
とてもいい所だそうだ。

息子がパッドで概要を調べると 私が知人から聞いた内容に間違いはないが
詳しいことはわからない。
それで 二人を帰りの駅へ送りがてら 四人で見に行くことにした。

ケアハウスは ケア付きのホテル と考えてほしい との説明だった。
確かに 至れり尽くせりの設備やサービスと部屋だった。
その上の階からの療養型マンションは 直にケアの階に連絡できる作りだった。

それぞれの案内やパンフレットを頂いて 二人と別れた。
妹さんは 高くてもケアホテルのほうが姉にはいいのでは という意見だった。
息子は その額に驚いて なんとも言えない様子。
最終的には叔母が判断して決めるよりない。

明日はまた病院へ行って 今日の見学のことを説明しなくてはならない。

夕方 娘たちが帰って行った。

娘は 朝から自分たちが使ったシーツやケット、タオル類を 次々に何回も洗濯し
自分たちの衣類も洗濯し乾し上げて 大きなトランクにギュウギュウ詰めにして
荷造りした。

子持ちは荷物が多い。
それに加えて今回は イギリスへ行った時に毎回お世話になる伯父さんへの
プレゼントの掛け軸までが入った。

伯父さんは 三十年も盆栽作りの趣味を持っておられるのだという。
そして イギリス国内で開かれる盆栽展にも出品されるのだそうだ。
今までずっと その盆栽展に出品する際に 盆栽の後ろにかけるのに
本物の日本の掛け軸がほしいと思ってきたのだ と言われたらしい。

娘家族は イギリスへ行くたびに両親よりお世話になっている伯父さんの願いを
叶えてやろう と思いながら今回帰国した。

その底辺には 我が家には 亡父が残した売り物の掛け軸がたくさんあるから
どれかもらえたら という思いがあったらしい。

娘は帰省するとすぐに そのことを私に話した。
ネットで見ると高価でとても買えないから 日本に安価な物があったら
ほしいのだが と伯父さんが言われた時に 婿が いくらくらいのがほしいの?
と聞くと 提示された金額は とてもそれでは贖えない金額だったらしい。
娘が 実家におじいちゃんちから持ってきたものがあるから 帰国したら
聞いてみるわ と言うと やっぱり伯父さんは 提示した金額を言われたらしい。
婿が * * の実家には そんな安物はない と断ったそうだ。

二三年前 婿の日本びいきのお父さんに 掛け軸を二本差し上げたことがあった。
伯父さんがお父さん宅を訪れた際 それらを見て 余計にほしくなったらしい。

私は 娘たちがイギリスへ行くたびに 泊めていただいたり 孫たちの誕生日や
クリスマスには 必ず心のこもったプレゼントを贈ってくださることを知っているから
伯父さんが盆栽趣味 とは知らなくても なにかお礼を と かねがね思っていた。
だから 掛け軸は快くプレゼントするよ と 娘に言った。

東京へ帰っていく今日 どれがいいか あれこれ出してみた結果
書がいいだろうと思い 一幅持たせた。
その軸を トランクに入れて帰ったのだ。

ちゃっかりやの娘のことだ。
きっと クリスマスの際に 彼らからのプレゼントとして贈るのだろう。
それでもいい と 承知で持たせた。

イギリスへ行ったときに 婿だけでなく娘や孫たちを 向こうの親戚の方々が
快く受け入れてくださって 可愛がっていただけるのなら それでいい。
それこそを いつもそれを 願っているのだから。

昨今の忙しさのせいで せっかくやった神経根ブロックも まるで効き目がない。

腰の痛みが激しくなると 足のほうへも影響が出て 大きな痙攣が何度も起きる。
そのせいで 左足のまねきが想っているより悪いのだろう。
先日 悪い左足の親指を傷めてしまった。

二三日は 傷めた部分が青紫になって腫れて痛み 歩行にも困ってしまった。
さすがに これは単に親指をつっかけただけの状態ではない と思い
行きつけの整形外科で診てもらった。
レントゲン写真を見ながら 丸い筒状になっているべき骨が ひしゃげている と
医師に告げられた。
しかし 治療の方法がないから 湿布を張って腫れを抑えるくらいかな とも
言われた。 苦笑いしながら
しばらくは痛いでしょうが 自然に治るまで我慢するより仕方がないから
まあ 頑張ってください。
とも 続けられた。

以来 痛む足先をかばいながら暮らしているが 昨日 よちよち歩きの下の孫に
思い切りふんずけられてしまった。
孫に悪気があってふんずけたわけではないから ウッ! と うなってはみたものの
それこそ我慢するよりない。

まったく 病み足に腫れ足 それに加えて病み腰 状態のこの頃だ。


せっかく娘や孫たちが来たのに 連日の暑さで戸外へ遊びにでかけられない。

前に来た時に行った ファミリーパークの子供エリアも こう暑くては行けない。
せめて 夕方遅くまで開園していれば連れても行けるが 五時には閉園するから
まだまだ暑い時刻に出かけていかねばならない。
それでは ばててしまう。

プール遊びはしても 家ばかりにいるから 上の孫は体力を持て余し気味だ。

どこか屋内で遊ばせるいいところがないかと あそこは?あそこは?と
娘に誘い水をかけてはみるが
ええ~面白くないじゃん~ とたちまち却下。

それでも 孫のためにどこかないか・・・と思案するうち
以前 長男家族が行って楽しかった と言っていた近隣のモールがあったことを
思い出した。
そこには広い子供ゾーンのような場所があって 長男の孫も楽しかった と言っていた。

さっそく娘にそのモールのことを伝えて 娘がパッドで調べた。
すると 近隣三県ではそこにしかない子供が楽しめる施設がある とわかった。
しかも 東京近辺にもある施設で かなり大きいらしい。

それで今日 夫が娘と孫たちを連れて行った。
私は 腰が痛いので留守番。

夏休みとあって かなり混んでいたらしいが 孫たちはそれぞれ存分に遊んで
満足し くたくたになって帰ってきた。

娘が 子供たちが遊んでいる最中の写真を 何枚かメールで送ってきた。
タイヤがいくつも繋がったようなチューブで ゴロゴロ回転して遊ぶ上の子の姿や
ウレタンの階段を上ったり下りたりする下の子の姿など どれも楽しげだった。

帰宅するとすぐに浴室へ直行 シャワーを浴びてさっぱりすると
上の孫は 楽しかったことを私に話してくれる。

最近のこの子の会話は面白い。
英語が堪能になってきたからだろう 一生懸命話す言葉が 英語と日本語が
混じり合っている。
それに時々 日本語のイントネーションが 英語のそれになっている。
夢中になって 目を瞠って話せば話すほど 英語と変な日本語が多くなっていく。
本人はそれに気づいていないから 聞いている方は その様子がまた可愛い。
笑い出さないよう 必死でこらえて相づちを打つのに苦労する。

夕食は この子が好きな トンカチだ。
我が家のとんかつは ヘルシーで脂肪がないヒレ肉で作る。
だからか 肉食女子の孫には ちょっと物足りなくて硬く感じたらしい。
たぶん 東京で外食する際に食べるとんかつは ロース肉だからだろう。

こんど * *ちゃんが来た時には 東京のトンカチとおんなじにしてね。
と 言われてしまった。

おなかをふくらせ 今夜はみんな早々にベッドに入った。
体を動かし楽しんだ分 くたびれてよく寝るだろう。

孫たちを寝かしつけた後 娘が
食器棚に 使わないものがあるんじゃないの?
整理して 必要じゃない食器は捨てたら?
という。

確かに 結婚して四十年以上も経つと 食器もそれなりに増えて
棚の中には いつも使わない食器がたくさんある。
いつかは整理しなくては と思っていたので 思い切って整理することにした。
珍しく夫が外泊していて 女二人で自由に時間を使える。

とはいえ どの食器にも思い出があり 私一人ならなかなか整理できない。
しかし 娘は違う。
使わない食器は まとめて箱に入れて外に出しておいて
ほしい人に持って行ってもらえばいい
と言いながら これは?使う?使わない? 必要?要らない? と
どんどん仕分けしていく。

嫁に来る時に 母が持たせてくれたガラスの食器一式のセットも
コーヒーカップのセット、紅茶カップのセットも みんな
もう こんなの古いわよ 使っていないから捨てるわよ!
の一言で廃棄の組へ。
欠けてもいないし 私一人でなら絶対に捨てないが 持っていても仕方がない。
心を残しながらも うん 捨てていいわ・・・と捨てる組行きを肯定。

でもそれらは おばあちゃんが吟味して持たせてくれたのよ・・・。
わかってる!でも使わないでしょ!そんなこと言ってたら片付かないわよ !

そんな会話をしながらも 食器棚の食器はどんどん少なくなっていく。

一つ一つの物への執着心があると どうしても捨てられない。
それを そうでない者が手伝うと仕分けは早い。
だからこそできることだ。

それでも食器すべてを仕分けするのに 二時間以上かかった。
さすがに棚の中はすっきりした。が やっぱりなんだかさみしい気がする。

そんな私の気持ちがわかるのか
戻さないでよね!
と 最後に念を押されてしまった。

そんなことはしませんよォ~
実は 実家から持ってきた食器が他の場所に まだたくさんあるんですよォ~だ!

午後 夫と一緒に叔母を退院させた。
会計を済ませて 叔母の家へ車で向かう途中 叔母が
ニトリでベッドをみたい
と 言いだした。

もう二十年近く前に 叔父と叔母の家は建て直した。
その時から夫婦は 二階の広くとった寝室に 二台のセミダブルベッドを置いて
休んでいた。

だから今回救急車に救出してもらうのに 二階のトイレの窓からになってしまった。
今後 今回のように万が一の際 すぐ救出してもらえるように
リビングにシングルベッドを置いて そこで寝たい という叔母の思いがあった。

それなら と ニトリで車を止め ベッドの展示スペースへ。
初め叔母は ソファーベッドを と考えていたようだった。
しかし それではいちいちソファーにしたりベッドにしたりの力作業がいる。
第一 リビングなのだから椅子に座ればいいわけで それは必要ない。
それに ベッドの上に枕や布団をかけたら それもソファーにする際
いちいち片付けなくてはならない。
それがだんだん面倒になるから 結果ベッドとしてしか使わなくなる。

そのような意見を夫と私が言って ソファーベッドはあきらめたようだった。
次に見たのは 可動式のベッドだった。
いくつか寝そべって試してみたが なかなか決められない。
マットの硬さと色にこだわりがあって 決めかねるらしい。

それなら 今すぐに決めないで じっくり考えてから決めて買ったら?
ということになり 結局何も買わずお店を出た。

家についてすぐ 私は 入院時に騒がせお世話になった隣近所へと
退院の報告かたがた 今後もお世話になる断りの言葉を述べに伺った。

入院用品を元の場所に戻し 古くなっている仏壇の供花も始末した。
スーパーへ行き 新しい供花や とりあえず叔母の食べるものなどを買って
帰り 仏壇に新しい花と果物を供えた。

冷蔵庫も整理して 期限が過ぎた食品や悪くなった野菜などを出し
いつものように 持ち帰るように大袋に入れた。
家のごみと一緒にして 収集日に出すのだ。

細々としたことをしているうちに もう時間は六時半を回ってしまっていた。
家では 娘や孫たちが帰るのを待っている。
一人で大丈夫だろうか と案じながら 心を残しつつ帰ってきた。







昨日は せっかく来ている娘家族には悪かったが 朝から腰痛がひどくて
起きられなかった。

三月以来の疲れが溜まったままで 癒す間がなく来てしまっている。
どこかでゆっくりしなくては このままではいけない・・・その思いはずっとあるのだが
次々にいろいろなことが降りかかって来て どうにも休む間がないのだ。

今日は久しぶりに 午前中に整形へ行き 午後には叔母を退院させねばならない。
ところが ついさっき 叔母からメールが入った。
こんな時間なのに・・・。
昨日また 少し治まっていたひどいめまいが起こったらしい。
それで 今日医師に症状を話して 二三日退院を延ばしてもらえないか頼むという。
医師の話次第だが ともかくも今日は病院へ行かねば・・・
この二日間病院へ行っていないから 洗濯の汚れ物もたまっているだろうし。

今回 娘が帰省してから 叔父の入院以来の様々なことを話した。
娘は葬儀には来たが 七月の初旬にはバカンスに出かけて行って
今月の十六日までずっと日本にはいなかったから
叔父が入院してから現在までの詳しいことは 話してなかった。

血のつながった叔父が亡くなった以上 私の役目は終わったのではないか・・・
今回の叔母の入院に関しても今後のことも 叔母の親族や叔父の遺産分配に関わる
人たちが世話をし面倒をみるべきであって 何の関係もない私たち夫婦には
面倒を見る義務はまったくないのだから・・・
そうはいっても一番近くにいて頼られていては むげに見て見ぬふりもできないし・・・

私の話を聞きながら娘は
なりゆきを見ながら 少しずつ手を引いていくよりないんじゃない?
遺産の件が片付いたら 誰が面倒を見るべきかはっきりするでしょうから・・・。

まあ そうするよりないだろう とは 私自身も考えていたことだが・・・。

私の体のことも知っているし 叔母の妹も悪い人ではないが
かといって なにもかもお任せの おんぶにだっこ状態の現状では困ってしまう。

ああ~この時間からでは 眠ることもできないよ。

今日は 来月の誕生日で古希を迎える夫のために 家族全員が集まった。

急に日にちの算段をしての会だったから どこか会場を設けてというわけには
いかなかった。 それならゆっくり食べたり飲んだりできるように
家で仕出しをとってお祝いすることにした。
お祝いをすることは 夫には内緒だった。

家族全員が集まると十一人になる。
何も知らない夫は 二階の物置から もう一つダイニングテーブルを出し
全員が椅子に座れるように準備した。

三時半を回ると 長男が家族と一緒にやってきた。
あとは 次男が来れば 全員集合 となる。

次男も着いて 仕出しが届く時間までが待ち遠しい。
スナック菓子をつまみにビールを開けて 乾杯 とグラスを互いに当てていると
仕出しが届いた。

お祝いの席だから奮発して 一人前のお膳には 結構な品数が並べられた。
膳が整ったところで 改めて乾杯をする。
何も知らされてなかった夫は 自分のための祝い と知って驚いた。

孫たちから花束を贈られ 婿からは 今日のためにわざわざ取り寄せたという
国内では販売されていないワインのボトルを 次男には高い日本酒を贈られて
それぞれと 嬉しそうに写真に収まった。

おなかが膨れてきた頃には 雨の止んだ外で 花火をした。
去年の夏の馴れで 東京の孫も 手に持った花火に火をつけて楽しんだ。

夜半まで 飲んだり食べたり 賑やかに笑いの絶えない会だった。

子供たち同士 嫁と婿 孫たち 全員が仲良くできる幸せに感謝する。
この幸せが 私たち夫婦がいなくなっても ずっと続いてくれるよう願うばかりだ。

これからも 夫には元気でいてもらわねばならない。
最近疲れ気味の夫に 今日の会が励みになってくれたなら嬉しいのだが。

十時ごろ もう十年以上も交流を絶っている義妹から 突然の電話があった。

彼女は まったく変わっていない。

もしもし と出ると 唐突に
* * だけど 兄貴いる?
と まるで昨日今日も行き来して親しくしているかのような 彼女の第一声だった。

でも 彼女の不作法はともかく 何かあったに違いない。
ほんとは 電話なんて掛けてこられる分ではないのだから・・・。

夫に代わると やはりなにかあったようだ。
話の塩梅では 彼女のご主人が亡くなったらしい。

夫の中には 揺れるモノがあったのだろう。
夫は 生家を継いでいる弟に電話すると 弟は 一答 行かない! だけだった。
義弟は はっきりしている。
それで夫も気持ちが決まったらしく 妹に そのように返事の電話をしていた。
それでも 気持ちは残っただろう。
夫の気持ちを理解できないではないが 私もやっぱり行ってほしくない。

私だって 鬼ではない。
相手が相手なら 今回だって 行ってあげれば? と言いたい。
でも 彼女が我が家にしたことを思えば とてもそれは言えないのだ。

私自身へのことなら それまでも我慢してきたことだし あんなことさえなかったら
ずっとあのまま我慢していただろう。
しかし 私が命の次に大切な子供にまで害が及んでは もはや言外だった。

楽しい日なのに 一本の電話のせいで たちまち嫌なことを思い出してしまった。

一昨日の夕方 東京の娘が孫二人を連れて帰省した。
七月の初めに 次女の初誕生の祝いを済ませると もう二日後には
イギリスへ旅立って行った。
四五日ロンドンに滞在した後 イタリアのトスカーナで二三週間過ごした。
その後 イギリスへ戻りウエールズで帰国する十六日まで暮らしたようだ。
トスカーナでもウエールズでも 広大な農場の中に建つコテージや一軒家を借りて
過ごしたという。

娘たちが過ごしたコテージや宿泊滞在を目的にした家は 写真を見ると
これがコテージ?とビックリするほど 日本人のイメージするそれとは違う。
大きな建物だし 普通に暮らす家と変わりない作りで むしろ日本の狭小住宅など
問題でない間取りや広さでプールやジャグジーもあり ハイレベルだ。

上の孫は 広い農場内にいる動物に 一人で歩いて行って
自由にえさや草をあげたり遊んだりと 親が安心してほおっておける環境だった。
東京での狭苦しい生活から解放され のんびりとストレスのない生活だったようだ。

昨日は 叔母の病院へ一緒に行き 元気のパワーをあげてきた。

そして今日 娘の夫が車で来た。
今夜は 長男家族に次男も集って 夫の古希のお祝いをする。

病院に着くと すでに救急車は到着し 叔母は救急救命室へ運ばれていた。

カーテンで仕切られた狭い空間に 叔母はいた。
朦朧としながらも意識はあったから 声をかけて手を握ると 薄目を開けて私を見た。

検査が始まり 叔母はその都度ベッドごと運ばれて行っては戻ってきた。
その合間を見計らって 看護師に事情を話し 孫を残して葬儀会場へ向かった。

日差しがギラギラと暑い。 とにかく受付で記名し香典を渡す。
読経がスピーカーから流れている中 日よけテントの中に設けられた席に座る。
焼香が始まり 長い列に並んで焼香した。
焼香台の傍らには 慈悲深い理事長さんの微笑んだ写真があった。
まるで母が生き返ったかのように想えた方だったから 心から悲しかった。

焼香を終えると出棺を待たずに また病院へ。

脳神経科と耳鼻科での検査の結果 入院 と決まった。
とりあえず 夫が来るまで孫と二人で付き添い そのあと 孫を送り自宅へ戻り
喪服を着替えて叔母の家へ行った。

今朝ほど騒がせた隣近所へ挨拶し 入院に必要なものを あり場所を探しながら
調えた。
近所の方々のおかげもあって どこも壊さなくて搬送されたらしい。
侵入口をどうするかで 一時は騒然となったらしいが 電話で頼んだように
二階の窓から入ってもらえたようだ。
家じゅうの戸締りを確認して荷物を持ち また病院へと急いだ。

帰宅してみると もう夜中近かった。
長くて慌ただしくて緊張の一日だった。

翌日には 数日前に帰国した娘家族がやってくる・・・
嬉しくて楽しいが またまたバタバタの数日がやってくる・・・。

十三日に亡くなった理事長の葬儀が 昨日あった。

夫の仕事先 というだけでなく 理事長は亡母と幼なじみだったから
私のこともかわいがってくださった。
だから 猛暑日であっても お別れには行くことにしていた。

ちょうど次男が帰省中で 甥を連れて名古屋へ遊びに行く というので
それなら 会場まで乗せて行って と 前日から頼んであった。

そして昨日の朝 次男が甥を迎えに行く時間に合わせて 参列するよう準備した。
じゃあ出かけようか という時 岡崎に住んでいる叔母の妹から メールが入った。
姉の体調がひどく悪いようだから 行ってみてあげてほしい ということだった。
それじゃあ 葬儀の後に伺ってみる と返信し 玄関を出ようとすると
叔母から電話が・・・。
とても具合が悪そうで やっと声を とぎれとぎれに出しながら
ベッドから はってトイレまできた 救急車を呼んで・・・と言うではないか。

ビックリしたが 私が落ち着かなければ と 思い直し
わかった 気を確かにね 直ぐに救急車を呼んで 家へ行ってもらうからね
と 返して 一一九へ電話した。
一一九は 一番近くの消防署につながるらしく 事情を話すと
叔母の住んでいる隣市の消防本部へ回してくれた。
そこでまた 事情を話し おそらく厳重に鍵をかけてあるから 叔母がいる
二階のトイレの窓から入ってほしい と要請。
その間に もう救急車は出動して叔母の家へ向かっていた。

孫を乗せるために長男宅へ向かう車の中では 本部と救急車との両方から
連絡が入るから 携帯を切らずにどちらへも対応する。

そうしながらも
さあ困ったァ この分では葬儀には出られない・・・義理を欠くわけにはいかないし
どうしよう・・・ 叔母の容体も気にかかるし葬儀への出席をどうしようか・・・
という思いが頭をよぎり 心中では焦るばかりだった。

その間に救急車が叔母の家に到着した。
警察車も来たらしい音がする。

あれほど二階のトイレの窓から入って と言ったのに 着いた後も
まだなんだかんだと言っている。
玄関ドアが開かない 入れない 梯子をかけるのに隣の許可がいる・・云々。
二階のトイレの窓は大きいから 人ひとりくらいは入れるんだから
早くそこから入ってください!!叔母はそこにいるんだから!!
お隣へは 後で謝りますから!!
ついつい 声が大きくなる。

そんなやり取りをしながら 車は長男宅に着いた。
下の孫を乗せると 上の高校生の孫が家にいる という。
とっさに
そうだ!!一緒に連れて行って 焼香してくる間だけ 付き添っていてもらおう!
そう考えて 長男宅へ飛び込み 上の孫を大声で呼んだ。
久しぶりに部活のない日だったから 孫は寝ぼけまなこで起きて来た。
手短にわけを伝えると
わかった すぐ着替えるね
と言ってくれた。 ありがたい!助かった!

そうこうしているうちに 携帯には搬送先の病院が決まった と連絡が入った。
私たちもその病院へ向かう。

それはそうと 病院へ入るのに この全身真っ黒の喪服でいいのか・・・・。
途中で 間に合わせに何か着るものを買おうか…どうしよう・・・
今度は そんな心配が出てきた。
次男は 買うのならお店に寄るよ さっと買って来るなら時間もかからないから
と言ってくれたが それも無駄な出費のような気がして
仕方がない このままでいいわ
と決めて 病院へ。



一昨日は 予報からして 雨 それも雷雨 だった。
それでも この日しかできない と 夫は 前日から 降ることを前提に
雨除けに大きなシートを天に広げ その下にまたシートを張って
炉にも テーブルや椅子を並べるスペースにも 絶対に雨粒が落ちないよう
万全の準備をした。

それにしても よく考えたものだ と感心した。
どうやってシートを広げるのか と思っていると まず洗濯物干しを片付け
物干し竿を 庭木に沿わせて 何本も立てた。それを柱にして シートを広げ
その四隅を竿の先端に結びつけた。これで六畳ほどの大きな天幕ができる。
中ほどにも短い竿を立てて シートがたゆまないよう工夫した。

あとは 小屋根から雨粒が落ちないように また少し小さめのシートを広げ
もう一方からも 同じようにシートをかけた。

物干し竿の柱は庭側を低めにして立ててあるから 雨がシートの上に溜まらない。
そして念のためか シートの天幕の下にピクニック用の大きなパラソルを広げた。
これでどれだけ雨が降っても 焼き方の長男も 座って食べたり飲んだりする者も
濡れるのを心配しないで 晴れの日と同じように バーベキューを楽しめる。

そして一昨日。
案の定 朝から雨模様。

私と夫と次男は スーパーの開店を待って 海鮮と野菜や焼きそばなどを
調達に。肉類は長男の担当 と 事前に決めてあった。

買い物から帰宅すると すぐさま それぞれの野菜を切り 海鮮類を串に刺したり
大忙しで下ごしらえ。
夫と次男は 炉に火を起こして いつでも始められるように。

そうしているうちに 長男家族が到着。
いよいよ 我が家のイベントが始まった。

こうして 家族が皆元気で集えるのが嬉しい。
娘の家族が一緒ならなおいいのだが あいにく 今 彼らは日本にいない。
長男夫婦や孫たちと次男が一同に会する機会は 年に数回だけだから
貴重な一日だ。

夫の気合いが入るのも こうした思いがあるからだろう。
雨が降っても雷が鳴っても 我が家のバーベキューは
そんなものは平気のへいざ とばかりに楽しく進んだ。

平素信心深くない人でも なぜか お盆になると お墓参りに故郷へ帰省したり
普段は うっちゃっておいた仏壇を開け お花やお供物を供えたりする。
これは日本人のDNAの中に 信心する心が 知らず知らず組み込まれている
せいなのだろうか。

お盆にはお墓参りに帰省しなくては・・・の心が お盆の始まりと終わりの
道路渋滞を引き起こす。
それほど日本人は お盆 に極端な反応を示す。

考えれば とても面白い現象ではないか。

我が家も お盆休み だからと 昨夜 次男が帰省してきた。
今日は 長男家族も来て バーベキューだ。

昨日の午前中 夫は 天気予報が曇りから雨 となっているので 濡れないように
何枚ものシートで屋根を作ったり 大忙しだった。

理事長のお通夜と葬儀の日取りが 予定より一日延びたおかげで
今日 予定通りバーベキューをすることに。

そろそろ 長男家族がやってくる。
みんなノンベイだから 一日 賑やかなことだろう。

午前中に 夫の勤め先の理事長先生が亡くなった と 連絡が入った。

叔父の葬儀が終わってしばらくしたころに入院され その後の容体が少し良くなって
自宅で療養していらっしゃったのだが 二週間ほど前に 痛みが強くなったから と
再入院なさった。
そして 数日前 危篤状態 と知らせが入っていた。

それ以後 夫は 予定されていた事はすべてキャンセルして いつでも動けるよう
実家へのお墓参り以外は 遠出もせずにいた。

だから 今朝の電話は とうとうその日が来てしまったか・・・という感があった。

戦後の どこもかしこも丸焼けで檀家を当てにできない時代に お寺へ嫁ぎ
ご主人と一緒になって お寺を再建され 二つの幼稚園を作られ 近年では
その二つの幼稚園の園舎を改築された。

ご主人を早くに亡くされた後 重石とも柱ともなって頑張ってこられた生き方が
しのばれるような 高齢にもかかわらず凜として 背筋の伸びた方だった。

偶然 理事長の生家が私の母の生家に近く 幼いころ母と一緒に遊んだりした
思い出もあって 私と顔を合わせると いつも嫁ぐ前の生家での話や
故郷の話をされた。
その偶然を 驚きとともに とても喜んでくださっていた。
私も なぜか理事長に母と同じにおいを感じ 祖母の家へ遊びに行った時の
思い出を話して 楽しく時を過ごしたものだった。

入院を知り 夫と病院へ行くと どなたにもお見舞いは遠慮願っているのだが
私たち夫婦なら会いたい と 病室へ入れてくださった。
まだその時は 痛みが抑えられていて お顔もお話もしっかりされていた。
退院したら またあなたと故郷のことを話したい ともおっしゃっていた。

それなのに とうとうその日はこなかった。

人の世の理とはいえ 大切な人が亡くなるのは 悲しい。




今日は 嫁の誕生日、 だと 私は記憶していた。
だから 夕方涼しくなったら デパートまで連れて行ってほしい と 夫に頼んだ。

午前中 なんやかや汗を流して動いていた夫は お昼ご飯を食べた後
二時間ほどベッドで眠る と言って寝室へ。
私は 一時間ぐらい遅れて寝室へ行き ベッドに寝ころびながら 本を読んでいた。
そのうち 知らない間に眠っていたらしい。

夫の声に びっくりして目が覚めた。
夫が言うには
おい * * の誕生日は 先月の十二日だぞ!お前 間違えてるぞ!
もう とっくに過ぎてる、なにやってるんだ!!

えっ!!そんなはずないよ・・・彼女の誕生日は今月のはずだよ!!

そんなことあるか!!俺はちゃんと日記の裏に家族の誕生日をメモっている!
だから間違いない、* * の誕生日は七月だったのに お前が忘れたんだ!!

そうまで言われると だんだん自分の記憶に自信がなくなってくる・・・

どうするんだ! それでもこれからプレゼントを買いに行くのか?!
忘れて遅くなったついでだから 今度バーベキューに来た時にでも渡すか?
それなら 明日か明後日準備すればいいから・・・

でもでも もし私が間違えていて遅くなったのなら なおのこと 早くしなくては・・・
だから 今日 連れて行ってよ

行くんなら 早く支度しろ!!

ハイハイ わかりました ちょっと待っててよ!

そんな会話の後 デパートへ向かった。
車の中で 夫は
六月七月は 叔父さんの四十九日の準備で忙しかったから
それで忘れたんだろう
黙りこんで乗っている私が いかにもショックを受けているように想えたのだろう
それまでとは違って 慰め口調で言った。

デパートに着くと 私だけが降り 夫は車中で待っていた。
今年のプレゼントはアクセサリーにしよう と 以前から決めていたので
アクセサリー売り場へ。

夫が言うように 本当に間違えていたのなら 悪いことをした・・・
その日の前後には息子宅へ行き 何度も顔を合わせていたのに
あの子も息子も 何も言わず いつもと変わらない対応だった・・・

そんな後ろめたさが手伝って ごめんなさい の気持ちも入り
毎年の予算をはるかに上回った品を求め プレゼント用のラッピングを依頼。

とても素敵なネックレスだから きっと気にいってくれるだろう・・・。
一緒に渡すカードは 前もって準備してある。

そして帰り道 息子宅に寄った。
ちょうど 息子夫婦は二人で出かけるために 車に乗り込んだところだった。

遅ればせながら 誕生日おめでとう
と 言ってプレゼントを渡す。

夫が
誕生日は 七月だったよねぇ?ひと月遅れだけど・・・
と 二人に言うと
息子も嫁も
えッ 今日だよ、誕生日は
いえ 今日ですよ、私の誕生日
と きょとんとした様子。

そらみてごらんなさい!!私が正しかったでしょ!!
お父さんたら 先月の十二日だった もうとっくに過ぎた って 言い張るのよ!!

二人にそう言いながら
ああ 助かったァ~ 間違えてなくて やっぱり今日だった・・・
と思い ほッと気が抜けていった。

笑い話にしながら別れて帰宅したが はっきりと言い切れなかったのは
最近とみにぼォッとして物忘れすることが多くなってきているせいだろう。
だから 何事も自分が正しいとばかりに言い張る夫に 強く反論できなかったのだ。

嫌だなあ・・・
これからは こんなことが多くなっていくのかなあ・・・
歳をとるって 悲しいなあ・・・
自信がなくなっていくのって 辛いなあ・・・

正しかったのは私だったのだから ちゃんと記憶通りだったのだから
ほんとは喜んでもいいはずなのに
なんだか今日は 情けなさと悲しさで ちっとも嬉しくなかった。

我が家の直ぐ近くで 高速道路の建設工事が行われている。

一昨夜などは 夜中通しての徹夜で工事が行われた。
夫がクーラー嫌いだから 真夜中は窓を開けて扇風機を回して過ごしているが
さすがにその夜は あまりにも音がうるさくて 窓を閉めクーラーをつけた。

この工事が進むにつれて 誰もが思ってもいなかった問題が起こってくる。
団地は 各家庭からの汚水を一括して 離れた水路へ運ぶために 専用管が
埋設されているのだが その管が 今のままだと途中で切断されてしまうことが
今回わかった。

管は下水道ではないから 汚水を堀へ直接流す案が 市側から出ているが
そうなると 汚泥は溜まるし匂いも出てくる。
いったいどうするのが一番の方策か・・・。
どう市側へ要請するか・・・。

今日 その下案を作成するために 団地で一番先に家を建てた我が家へ
役員が 相談かたがた話を聞きにいらっしゃった。
帰られたのは三時間後だった。

たぶん 国内での様々な公共工事で そこに住む住民は 大事の前の小事
とばかりに 我慢させられたりいやいや納得させられたりしているのだろう。
公共の益と個人の益は おおかたの場合 一致しない。
そのバランスを どうとるか・・・それが難しい。

なにはともあれ 早急に 組合員に召集をかけ 説明や検討する会を
持たねばならない。

このところ 実家のお墓参りには 私一人で 高速バスや特急列車で行っていた。
正直言うと 一人のほうが 会いたい人に会ったり行きたい場所へ行ったり
自分の思うままに動けるから 今回も 涼しくなったら一人で行こう と
内心で思っていた。


この前の日曜日に 息子家族が 実家のお墓参りに行ってきた とわかり
夫は 行くんだったら お母さんも一緒に連れて行ってくれればよかったのに と
息子に言ったが 後の祭り。

それで夫は 昨夜急に 明日 お墓参りに行くぞ と宣言。
そして 久しぶりに 高齢になっている叔父や叔母を訪ねる と 予定した。
あああ~それじゃあ今回は 友人に会うのもなしだわね・・・
きっと 用事を済ませたら どこへも寄らずに帰ってくるんだろうなあ~・・・。

そして今朝早く 夫の車で出かけて行った。

夫が一緒だと ありがたいこともある。
周囲からお墓の方へ出ている笹や木の枝などを 切ったり草を抜いたり
お墓の周りをきれいにしてくれる。一人では こうはいかない。
息子たちも お参りはしてくれても そこまではしてくれないし
この春 来て行った弟も ただお参りしただけだったろう。
マメな夫は 長靴から剪定ばさみからゴミ袋から なにからなにまで
準備して 車に積み 準備して行った。
こんな夫には いつも感謝だ。

墓地に着くなり 夫は着替え さっそくハサミを持って作業にかかった。
たちまち周囲がさっぱりする。

両親も お墓の中で ありがとう と 言っていただろう。

今日訪ねた叔父や叔母は どなたも八十五歳を過ぎている。
皆 なにがしか病を得てはいるが なんとか頑張っている姿に安堵した。

これらが済むと やっぱり夫は一目散に帰宅。
猛暑のさなか 無事に帰り着けたから 今日はよし・・・か・・・。

初夏の頃だったろうか。
夫が どこからか たくさんの鈴虫の幼虫を いただいてきた。

夫は 生き物なら なんでも好きだ。

子供たちが幼いころには ザリガニ どじょう カブトムシ モンシロチョウ や
鮒 金魚 なまず など 思い出しても出し切れないほど 多種多様な生き物を
飼ってきた。

そうだ・・・蚕も飼った。
上の子二人が保育所に通っている頃だった。
夫は どこからか 蚕の幼虫をもらってきた。
夏休みだったと思う。
夫は 毎日 子供たちを連れて 蚕に食べさせる桑の葉を探しに出かけた。
蚕たちは 新鮮な桑を静かにシャワシャワと音をたてて食べ 大きくなっていった。
そして何日もすると おおきくなった蚕たちはまゆを作り始めた。
しっかり管理しながら育てていたわけではなかったから
蚕たちは てんで勝手に 好きな所でまゆを作っていった。

ある日 その日は雨模様だったのか 娘が 玄関のすみに置いてあった長靴を
手に取って はこう とすると なんと その長靴の中に まゆを作っていた。
長靴の中いっぱいに白い糸を張り巡らせて 真ん中にまゆがあった。
娘は びっくりして声をあげた。

それまで虫が大好きだった娘が 虫が大嫌いになったのは この時からだ。

そして また今年 我が家の玄関に 虫かごが・・・。

どこにいるのか分からないくらい小さかった鈴虫の子供たちは
ナスや野菜を食べて少しずつ大きくなっていった。

その鈴虫たちが 今日 暗くなると 突然一度に鳴き出した。
いくつもの鳴き声が重なって 鈴虫の大合唱だ。
それも おもしろいのは よく耳を傾けて聞くと どの音も
リーンリーンではなく リンリンリン と短く 実にせわしないのだ。
虫も 飼い主に似るのか? なんだか おかしくて笑ってしまう。

夫に言うと 夫も苦笑いしながら
まだ鳴き始めたばかりだからなんじゃないか?
うぐいすだって しばらくたたないと上手に鳴かないから
と 言う。

近頃 とみに遠くなった夫の耳にも
我が家の鈴虫たちの音は やっぱり せわしなく聞こえるらしい。




叔父の葬儀には 当然 叔父叔母の兄弟や親戚が弔問に訪れ 葬儀に参列した。
とはいっても 叔父方は たった一人 高齢で寝たきりの姉が存命なだけで
大勢いた兄たちや姉たちは 皆 鬼籍に入っている。
だから 身内での参列者は みんな従妹たちと連れ合いだった。

叔母は 叔父より十歳若いから 何人もの兄弟やその連れ合いやその子供たちが
大勢お別れに参列していた。

その中に 後で知ったのだが 二十年も音信不通になっていた弟夫婦がいた。
その夫婦は 葬儀が済んだ後も 叔母の体を心配して叔母宅へ頻繁に出入りした。
( その時には 音信不通だったことも知らなかったし ただただ 叔母を案じての
気持ちからだと 私は疑ってもいなかった )
そして 叔母の妹や私と一緒になって 夫婦して交代で泊まりこんだ。

それは 四十九日の法要が済むまで続いた。

ところがだ。
法要が済んで数日経ったころ 夫婦は 突然叔母宅へやってきて
お金のムシンをしだした。

まだまだ心身の状態が戻っていない叔母は まさか と驚いた。
そして 二十年も音信不通だった夫婦が 叔父が亡くなるや否や にわかに
いかにも心配だから という風を装って 近づいて来た理由を知った。

叔母が 情けながって私に話すには
彼ら夫婦は 二十年前 兄弟のほとんどにお金をムシンしたにもかかわらず
未だに 一円の返済もしていなくて今日まできているのだ と言う。
にもかかわらず 誰にも一言の詫びもなく 音信も途絶えていて
叔父の葬儀で その後初めて 兄弟とも叔母とも顔を合わせた のだそうだ。
何事もなかったかのように だ。

恵まれた環境で生まれ育った人は その環境が崩れて 同じような生活が
できなくなっても なかなか以前の生活環境を捨て去ることができないのだろうか。

彼ら夫婦だとて 大方の庶民がそうであるように 息子夫婦と一緒になって
パートや派遣などで働いて わずかでも収入を得る方法を考えればいいのに
どうして 安易に他人の懐に頼る生き方をしてしまうのか・・・。

生前の叔父に迷惑をかけ その決着もしていないまま 未だ悲しみの中にいて
毎日 点滴と整体に通っている叔母に 厚かましくも よくそんなことを
言えたものだ・・・と 私も腹立たしかった。

厚顔無恥とは 彼らにこそ似合う言葉だと思う。

そして 叔母がかわいそうになった。
二十年前のいきさつはどうであれ 気遣って来てくれる とばかり思って
彼らの魂胆を疑ってもいなかった叔母は 彼らに少し強引なところはあっても
時々 えっと 何かがおかしい と思うことがあっても
叔母は 来なくていい とは 言えなかった。彼らが 気遣ってくれる気持ちを
重く受け止めていたからだ。

それなのに 馬脚を現したかのごとくの彼らに 叔母は突き落とされた思いだ。

どの家族 どの家系にも クローゼットの中に閉じ込めておきたい事の
一つや二つはある・・・
西洋には こんな言葉があるそうだが 今回のことも
そんな話の一つなのだろう。

それにしても 人間として なんと浅ましく悲しい行為であることか・・・。

叔母は 今も ショックから立ち直れないでいる。

この夏 夫は 我が家の外壁塗りをしている。

二階まで届く梯子を借りてきて塗り 朝から日差しが強くなる昼間に止める。
午前中しか作業ができないから 何日も何日もかかっている。
梯子があっても 高い場所での作業だから 危険でもある。

私は心配で 時々 外に出ては 作業の様子をハラハラしながら観ている。

十時を過ぎると 一気に日差しが焼け付くように強くなる。
その時分になると 夫は 作業を中止して 梯子から降りてくる。

お~い と 呼ばれると 私は 冷蔵庫の氷を大量に入れて水を張ったボールを
玄関先へ持ち出し 何枚ものタオルをその中に浸して ゆるく絞る。
そのタオルを 熱で真っ赤になっている夫の背中に当て 頭にかぶせる。
ベタベタのタオルは すぐに熱くなるから 何回もかえる。
大量だった氷が融けてしまうころ ようやく背中の赤味がとれてくる。

冷たい飲み物を飲み終え一息つくと 夫はまた梯子を上って作業の続きにかかる。

これからの作業はきつい。
お日様が高くなって ますます日差しがきびしいから 長くても一時間が限度だ。

午前中の壁塗りは これでお終い。
夫は シャワーを浴びてさっぱりすると 冷えたビールを。
私は その間に昼食を準備し 食事になる。

夫は 食後しばらくテレビを観ているが そのあと昼寝を。

陽が陰る頃になると 壁塗りの続きを少しし 明日塗る予定の壁を水洗いする。
それで今日の作業は終了となる。

このところ 我が家はこんな毎日だ。

生前の叔父は 年齢に似合わない健啖家だった。
市内にあるカツ専門店の一品がお気に入りで 叔母とよく出かけていた。
また美味しいもの大好きで 特にお肉をよく食べた。

お酒が飲めない叔父は 甘いものにも目がなかった。
特に 叔母の郷里にある菓子店の 大きな栗饅頭が大好物だった。

大きな白あんの饅頭の中に これも大きな甘栗が 丸ごと入っている。
初めて見る者は その大きさにびっくりするほどの饅頭だ。

以前 叔父の家へ遊びに行った時に食べさせてくれ 帰り際に 持って行け と
数個持たせてくれたこともある。

この栗饅頭三個が入った箱を 叔母は 四十九日の法要時 引き物に加えた。
そして 挨拶状を添え 入院中 なにも飲めず食べられないまま逝った叔父が
大好きだった饅頭であることを伝え 叔父に思いをはせて 召し上がってもらえたら
故人も喜ぶだろう と 書いていた。


余談だが 私も夫も 叔父宅で食した時や 持たせてもらった時には
大きさにびっくりはしたが いったいこの饅頭がいくらするか など
考えもしなかった。
それが 今回 下準備する段階で 一個が六百円もすると知り
またまたびっくり。

叔父は わざわざ取り寄せてまで食していた 高い値の好物を
何もそんなことには触れないで 私たちに持たせてくれていたのだ。

さすがに泊まることは亡くなったが 今も 週に二三回は叔母のところへ行く。
叔母は いまだに連日 点滴や整体へ通っているし めまいも治まっていない。


伴侶を失った悲しみは 癒えることはないだろうが
もう少し 叔母の心の波立ちが小さくなるまで 体調がよくなるまでは
折に触れて 訪ねようと思っている。

葬儀の日 親族が斎場にいる間に 四十九日の法要を営む日にちを決めた。
出席してもらう日に 他の予定を入れてもらわないためだった。
そして 法要の会場を探し 押さえねばならなかった。

叔父の息子が同居していれば 葬儀を終えて別の日に 法要にかかわる事を
考えて決め 親戚に連絡すればいいのだが 彼は離れて住まいしているし
仕事をしているから 物事を早くし進めなければならなかった。

まずは 僧侶が空いている日と時間を伺い 合わせた期日と時間が決まった。
次は あちこちに問い合わせて 僧侶の都合に合う会場を押さえた。

葬儀や初七日は無事終わったが 叔母は心身共に弱りフラフラになっていた。
とても一人で暮らせる状態ではなかったから 叔母の姉妹と私が交代で
泊まり込んだ。
私は 泊まり込みながら香典帳を整理し 四十九日の忌明けに合わせて
志の品を送るためのリストを作った。
これがまた 大変な作業だった。

四十九日法要に向けて お供えや供花 出席者に出すお膳 引き物などなど・・・
細かい事を ぬかりのないよう決めていった。

その頃になると 自分のこと 自分に関わってきた様々なことが すべて後回しに
なってしまっていたし 体の疲れも限界に近かった。

親友の思ってもいない病気での入院 大切な知人の葬儀 弟の入院手術が
次々に起こっていたが 身動きできず すべてのことに不義理をしていた。
友人との約束事も 予定していたことは みんなキャンセルせざるを得なかった。
三月以来 叔父と叔母を軸にしての暮らしを続けてきた結果だから
致し方のないことではあった。

連日 体のメンテナンスのためにリハビリに通い 体調のいい日を見計らって
お見舞いとお参りに出かけて行った。

親友は 退院の日が近くなるほど よくなっていた。
お見舞いに来られなかった後ろめたさが 少し軽くなる思いだった。

亡くなった知り合いの仏前で手を合わせ 葬儀に出られなかったことを詫びた。

そうしながらも 限界に近くなっていた自分の体のメンテナンスも続けた。





人は 逝ったらそれでおしまい ではない。
搬出 お通夜 葬儀 そして 初七日 四十九日 と 周囲の者たちは 段取りをつけ
準備し 粛々と執り行っていかねばならない。

叔父が入院中 いつかはこの時がくる と医師からの話もあったし
叔母は 親戚や友人からも 覚悟しながら看病するように とも 言われていた。
だから 時折 万が一のとき のことを 大まかに叔母から聞いてはいた。

叔父が元気な時に叔母と 墓地は購入してあるけれど お守りをする者がいないから
お墓は建ないで永代供養してもらう・・・

しかし このことだけでは 物事は進められない。

一番に 親戚へ連絡し 亡くなったことを知らせた。
一週間前 叔父の死期が遠くない と感じた私は 叔父方の親戚へ状況を知らせ
びっくりした親族が数名見舞いに来ていたから とうとう・・・という受け止め方だった。

まず 叔父を帰宅させるか 葬儀会場へ直行させるか・・・
その前に お通夜と葬儀の会場をどこにするか・・・
家族葬にするか一般葬にするか・・・

家へは運ばないで 直接会場へ連れて行きたい と叔母の希望。
じゃあ 会場をどこにする?・・・自宅から一番近いところにしたい

これらの叔母の言葉から 葬儀社を探し 連絡。

運よく 一番近い葬儀会場が空いていた。
さっそく 霊柩車の手配。

ほどなくして霊柩車が到着 搬送。
葬儀社に着くと 宗派の確認 僧侶をさがしてもらう。

僧侶が決まるまでに お通夜と本葬の日時を決める。

叔母は 子供もいないし会社もたたんでしまっていることから
家族葬で と 言ったが 会社を経営していた年月や仕事関係を考えると
むしろ一般葬のほうがいいのではないか という私の意見を入れ 一般葬に。
元社員にその旨を話し 関係するところへの連絡を 叔母が依頼した。

僧侶が到着し枕経をあげ お通夜と葬儀の日時を決めた。

済むと お通夜や本葬の際の細かなことを 葬儀社の社員と決めていった。

祭壇をどれにするか お骨を納める器をどれにするか お供え物や供花のこと
お通夜の後の飲食や人数と金高のこと お通夜と葬儀それぞれの会葬御礼の品のこと
初七日のおとき膳の金額や人数 それのお返しの品選び・・・などなど
すべての細々としたことを白紙の状態から立ち上げていかなければならなかった。

自分の親のことではないから ああでもないこうでもない と難しい。

しかし 大変ではあったが 会葬御礼品に添えた 叔母の気持ちを込めた文言は
会葬者の心を揺さぶるものになったし 弔問客も百三十名を超えて
足を運んでくださり 叔父との別れを惜しんでくださった。
僧侶からも 久しぶりに お葬式らしいお式だった と言われる葬儀になった。

叔父が高齢になり会社をたたんでから もう五年以上が経っている。
一般葬で と言ったものの いったいどれだけの人がお参りに来てくださるか
内心不安でもあった。
しかし そんな思いは杞憂に終わった。

叔父が 単に仕事関係という枠を超えた 人としての誠実な付き合いをしてきた
からこそ 大勢の人が叔父の死を悼み 参列していただけたのだろう。
交際相手の地位や付き合いの深さから 改めて叔父の人柄を思い知らされた。

もし家族葬にしていたなら こんなにたくさんの方が 五月雨式に自宅へ弔問に
来られることになる。
病弱な叔母一人では 大変なことになるところだった。
叔母も あなたの言う通り一般葬にしてよかった と言っていた。

葬儀に続いて 親族だけが残り 初七日の法要を営んだ。

小さな悶着はあったものの 無事に ここまでを終えたのだった。