FC2ブログ

昨日 高山での葬儀のために日帰りして さぞかし疲れているだろうから と
I さんが また今日 施術に来てくださった。

昨夜 その連絡をいただいた際 施術の後 療法の指導をしてくださっている先生と
I さんと一緒に指導してもらって見える K さんと お昼を食べるんだけど 一緒に
どうですか とお誘いを受けた。

お二人には I さんからお話は聞いてはいたものの もう三年近くお会いしていなかった。
お会いできるなら嬉しい と 一緒に待ち合わせ場所へ連れて行ってもらった。

平日だというのに そこは食事をする人で大変賑わっていた。
四人ともが同じメニューを選び 楽しく話をしながら食事をした。

大手術で命拾いされたばかりの先生は 見違えるほど若若として 肌が輝いて見えた。
K さんと並んで座ってみえたから先生と分かったが まるで別人のようだった。
私が知っている先生は お会いした頃には もう体がしんどかったに違いない。

K さんは 年老いたお姑さんと実母を抱え 正にこれから介護に突入しよう という
位置にあって 悩みも深い。
それがどれだけ大変なことかよくわかる私は 彼女のこれからにエールを送りたい。

I さんも ご主人と実家の両方に まだご両親が健在だから 彼女にしても 大変な事態
がいつ訪れるかわからない状況だ。

子が親を見送るのは この世の順当な命のつなぎ ではあるが 社会全体の向上によって
命そのものが長くなっているから どうしても老々介護になってしまう傾向がある。

また 団塊の世代の我々が本格的に介護を要する頃には 公は財政難から 施設の増設
が難しくなって 社会全体が在宅介護の方向に向かうのではないだろうか。

介護を担う人材の問題 延命しないで受ける医療の在り方 看取りの問題 などなど
今とは異なる形の老人問題が起きてきそうだ。

集まればどうしても身近かの話題に花が咲く。

久しぶりにお会いして 楽しい時間を過ごせた。
I さん 誘ってくださってありがとうございました。

スポンサーサイト



十一時からの告別式に間に合うよう 今朝七時五十分ごろ家を出て 高山へ向かった。

途中 高速道路上で事故があっても困るし 雪が激しく降っていても渋滞するから と
十分に時間をみての出発だった。

雪道を走る という想定だったから 昔 子供達を連れて車で移動する時には 必ず
おにぎりを握って持ち 甘いものやお茶はもちろん 毛布などの暖が取れるものを
積んで動いたことを思い出して 同じように準備して車に積み込んだ。

ところが 行きも帰りも道路上に雪はまったくなくて そこまでする必要がなかった。

それより困ったのは 私の頭髪だった。
十二月に美容院へ行った時に いつもよりかなり長めに仕上げてもらっていたから
今はそれがもっと伸びて まとまりのつかない状態になってしまっている。

訃報の電話が入ったのが土曜日の遅く 次の日の日曜日は 私の行きつけの美容院は
三時で終業する。電話してみると 予約で埋まっている。おまけに月曜は休業日だ。
完全にアウト!

仕方なく 昨夜 洗髪の後 前髪だけをスプレーして電気カーラーで巻いて寝た。
今朝起きて直ぐに 後ろとサイドのカーラーを巻くために再度温めて なんとか
見苦しくない程度に全体を梳かしてまとめ 出かけて行った。

ありがたいことに順調に走れたので 開始時間より一時間も早く高山に着いた。
喫茶店で時間を潰し 告別式へ。

何年も前に膝を傷められた奥さんは ますます歩行が難しくなっていて 車椅子に
座っていらっしゃった。
その車椅子を 終始娘さんがお世話してみえた。

飛騨の儀式には 古くからのしきたりが色濃く残っている。
特に 他人様を相手の事は 頑固なまでに変えない事項がある。
例えば お通夜や葬儀の開始前は 必ず遺族が玄関に立って 弔問客を迎える。
同じ県でも 私が住んでいる地方には このしきたりがない。

今ではそこまでのこだわりがあるかどうか分からないが
母の葬儀の時には 弔問客への返礼品を渡す際 別にその品を入れるように
袋が付いているにもかかわらず 袋は畳んで品物の下にして それをまた
お盆に載せてお渡しした。香典を頂戴するのも 当然そのお盆で受ける。

私が住む地方では 品物は最初から袋に入れてあり 下げられるようにしてある。
弔問客は 渡された袋をそのまま持ち帰って行く。 出された香典は 手で受ける。

個人の住宅や寺院で執り行われていた葬儀が 専門の葬儀会社が請け負うようになって
少しずつ変わってきているようだが これだけは という点だけは 今も変わらない。

喪主とその妻もしくは遺族の中の女性が 男性は紋付羽織袴 女性が喪服 という和服姿
であることも 異なる点だ。

もっとも飛騨では どの家でも紋付羽織袴を持っていない男性はいない と言っても
いいくらいだから 貸衣装を利用する男性は少ないだろう。

なんて面倒なの とか 古臭い 肩苦しい と 慣れていないと思いがちだが
ここが日本で 礼を尽くす気持ちを姿で現す と考えれば なんの不自然さもない事だ。

今日の葬儀も お盆での受け返しこそなかったが 袋は畳んだまま品物の下に。
遺族は揃って和服姿で玄関に立ち 弔問客を迎えておられた。

夫と私は 出棺を見送った後 会場を出た。

去年の夏 それまで元気だった先生が大腸癌だと判明 それから入院生活を送って
いらっしゃったらしい。

私たちは その少し前にお宅を訪ねていた。
その時 先生は この頃腰が痛くて とおっしゃっていたことを思い出す。
あの時 癌はすでに先生の体の中で暴れていたのだ と思うと居たたまれない気がする。
また例年なら年の暮れには伺うのに 去年は渋柿が凶作で干し柿ができず 伺わないまま
年を越してしまった。
最後に もう一度お会いしたかった。


焼香をする時 棺にお花を入れる時 出棺を見送る時
本当にお世話になりました ありがとうございました。
どうか安らかにお眠りください。
そう心で念じながら 数珠をかけた手を合わせてきた。






去年の秋 友人に 珍しい場所へ連れて行ってもらった。

あるお寺の敷地に接してある 菩提所だった。
結構広い面積に 立派な五輪塔や墓碑がたくさんの数建っていて その間あいだには
灯籠が こちらもたくさんのこと建っていた。

ちょうど近くの墓地の草取りをしていた方から その菩提所の話を聞くことができた。

今は本家に当たるお宅が 名古屋にあるらしいが 信長の時代に頭角を現して
徳川家康にもつかえて続いてきた 石河 という名の武士の家系の菩提所だ。

現在は 年に一度子孫が管理に来るだけで ほとんど放置状態なのが悩みで
市の文化財に指定されているから 市のボランティアが何回か草取りをして
ようやく保っている。

このようにたくさんの墓碑が集まっている菩提所は 高野山以外はここだけらしい
から もったいないことだ。

その人は そう話してくれた。

刻まれた文字は時の移ろいに消されてしまい黒くなった夥しい数の
墓碑や五輪塔の佇まいは その場所だけが周囲から切り離されたかのようだ。
連綿と繋がってきた一族の思いを感じて 丸い自然石が飛び飛びに埋められた
その場所の中までは入って行けなかった。

何か言葉にできない感覚を覚えながら帰って来たからか その菩提所のことが
忘れられないでいた。

そうしたら なんと今読んでいる時代物の中に 石河氏の名前が出てきた。
江戸中期 四千五百石取りの大旗本で江戸城留守居役 として登場していて
石河美濃守氏 と ある。

読んでいても感銘を受けるような小説ではないが たまたま記憶していた
菩提所の氏名だったから驚いた。
作者が時代考証し 調べた上で出したものだろうから 確かに江戸時代にも
幕府の重要な位置にあった 名門の氏に違いない。
江戸城の留守居役にまでなるからには あの菩提所に建っていたどれかの
大きな碑か塔に名が刻まれているのかもしれない。

偶然目にした氏名に あの菩提所のことをまた思い出した。

我が家の畑には 伊自良大実柿という種の渋柿の木が 八本あった。
それに 去年 義弟から譲られた土地続きの畑に植わっている木を合わせると
渋柿の木は 十三本にもなった。

ところが 後からの木は樹齢は同じなのに 義父が亡くなって以来 手入れが
されていなかったから荒れ放題で 太いツルが根元から枝先までビッシリと絡みついたり
大事な幹に腐りが入っていたり かなり傷んでいるらしい。

だから夫は 最近の土日は 今まであった木の枝打ちや肥料やりだけでなく 後からの
五本の世話に 朝から遅くまでの大部分の時間 かかりっきりになっているらしく
疲れきって帰って来る。

手入れをしないとそんなにもに違ってしまうのか と 夫の話を聞く私は驚いてしまう。

もともと樹齢が百年もの木たちだから 肥料をやって力を付け 枝も剪定してあげないと
木たちは いい実をつけてはくれない。

夫は 絡みついている蔦を根気よく切っては剥がし 根っこを掘り起こした。
文にすると簡単なようだが 長年放置されていた蔦は 夫の拳ほどもの太さになって
いたらしく 根もそれなりに太く深く伸びていて 掘り起こす作業は大変だったようだ。

だから この木一本の世話だけでも 一日では終わらない。

伸び放題の枝にしても 剪定するのは大変だ。
あまりの酷さに夫の根気も切れて 五本とも枝を背丈くらいに切ってしまったそうだ。
そうなると 今年や来年の成りは 期待できない。

こんな五本の木の有様は 隣で作業してきたのだから 夫の目に入らなかったはずは
ない。自分の方にある木を手入れしながら 夫はそれをどんな思いで見てきたのだろう。

農家の長男として生まれた夫だ。
折にふれて 祖父が植えたという渋柿の木のこと 手入れの仕方など 父親が話すのを
聞きながら 枝打ちやその他の作業を教えてもらったり 夜なべでする皮むきを
手伝ったりしながら 物心つく前から これらの渋柿の木に親しんできた。

なにせ夫が子供の頃は この渋柿で作った干し柿を売って得られるお金だけが
冬の間の唯一の現金収入だった というから 家にとってなくてはならない
なによりも大切な木だった。
だから 夫は口には出さないが 渋柿に対する思いは人一倍深いと分かる。

夫の実家には この十五本の他にも 離れたところの畑にはまだまだ同じくらいの数
の伊自良大実柿の木があるはずだが 義父母が亡くなってからは 夫がその畑へ
足を運ぶこともなくなり どうなっているのか分からない。

去年夫は 義弟から地続きの部分の畑を譲る話が出た時 今の年齢でこれからの年月
果たして畑仕事を続けていけるかと悩んでいたが 貰おう と決めた心の中に
手入れされないままの五本の渋柿の木があったことは確かだろう。

家を継いで 仕事に就きながら農業もやっていくもの とばかり承知していたところへ
思ってもいなかった義弟からの 俺が家へ入って農業をやる という言葉があったのは
私たちが結婚して一月もするかしないかの頃のことだ。

当時の私は 式の前に二度の交通事故に遭って傷つき 心身ともに結婚という
晴れがましさからは遠いところにあった。
その二回ともが 夫と義母が運転する車の助手席に座っていての事故だった。
義弟が家に入る云々は 私の入院中に持ち上がった話だった。

その後 義父母と夫と義弟の四人で話し合った結果 義弟が結婚して家へ入り私たちは出る と
いうことに決まった。

本心では 義父母は夫に継いでもらいたかったに違いないが 義弟の強い申し入れに
自分が就いた職業が忙しいから 家を継いでも家業の農業は中途半端になる と考えた夫は
そうなるより 弟が農業をやると言うのだから弟に任せた方がいい と思ったらしい。

その数ヶ月前 嫁ぐときのこと
この地方の婚礼の派手さを見聞きしていた私の両親は 大きな農家の長男の嫁として
嫁ぐ私を想って 年を経て古くなっている道具を使っていて壊すようなことがあっては
さぞかし姑に叱られたりして私の居心地が悪かろう と 嫁入り道具の中に 大中小の
いくつもの笊まで わざわざ笊作りで有名な地区の名人に誂えて 持たせてくれた。
布巾や雑巾でさえ 私が死ぬまであるだろうという枚数だった。
農作業で使うエプロンや手袋の類いのものも何年も買わなくてもいいように
長靴までもを何足も調えてくれた。
着物なども どの引き出しも出し入れが無理なほど たくさん作って持たせてくれた。

そうして調えてもらった嫁入り道具と一緒に 私は夫の実家へ入ったのだった。
当時 嫁入り道具を見に来た近所の人たちには どんな物を持って来たかを見てもらう
荷披露なるものが慣習としてあり 私がいない間でも 義母は 全ての荷物を解き
箪笥の引き出しという引き出しを開けて 着物も ものや柄ゆきが分かるように
全部をたとう紙から出して広げ 披露したらしかった。

そこまでしたものを出す形になったことで 義父母は義父母なりに思うところも
あっただろうが 私は私で 農家に嫁ぐ娘が恥をかかないよう 笑われないように
周囲や親戚から誹られることがないように との親心で 精一杯の支度をして
出してくれた両親の気持ちを考えると 早々に出ることになってしまった時は
複雑な思いをした。

でも それ以後の年月にあった様々なことを思えば 諍いをしたわけでもなく
出る形になったことは それはそれでよかった と後々も今もしみじみ思う。
夫の実家を離れたおかげで今の生活がある と思っている。

今夜 夕飯を食べながら夫が話した渋柿の木のことから 遠くなったあの頃の
出来事など 心の深い襞に埋もれ今では忘れてしまったようになっていた
細かな事までもが浮かんできて 辛かったあれこれの思いがよみがえってきた。

長くなってしまったが そんなことはさておいて
渋柿の木にかける夫の思いを想うと 畑へばかり行かないでもっと家にいて とは
なかなか言えない というのが私の本音だ。




夕ご飯の準備で台所に立っていると 電話が鳴った。

私は手が離せなかったが お風呂から上がってテレビを見ていた夫が出た。

昔 夫が僻地勤務の折 お世話になった校長先生の息子さんからだった。
校長先生が亡くなった という知らせだった。

三人の子供を連れて赴任した時 夫が三十代半ば 私は三十を少し過ぎた年齢だった。
長男は三年生 次男はまだ二歳 娘はそこで入学式を迎え一年生になった。

初年度は 家族が多くて家族用宿舎でも狭い と空き家になっていた近くの民家を
その年の校長が 借りてくださった。
赴任前に夫が挨拶に行った際のことで 私たち家族は それがどのような家なのか
知らずに 大方の家財は実家に預けて 必要最小限の家財をトラックに積み込み
赴任先へ向かった。

それまで住んでいた所からの道のりは 長かった。
トラックの後を行きながら まだなの? まだ着かないの? と何度も夫に尋ねた。
ようやく着いた家は エッ ここ?この家なの? と口をついて出るほど 古かった。
その家での生活が始まったが 四月の初めというのに 吹き込んだ雪が廊下に
四十センチも積もり 日が照ってくると 押入れに片付けたばかりの布団の上に
水溜りができるほど雨漏りがした。

それほど古い家だったからか 普通では考えられない事なども起こり 私の心は
次第に弱くなり 暗くなっていった。

そんな私を救ってくださったのは 新しく赴任された校長先生と奥さんだった。

ここに居ては奥さんも子供達も病気になる と家族用の宿舎の一つを空けてくださり
入りきらない家財はまた実家へ預けて 急きょ宿舎へ移った。
奥さんと校長に救われた思いがした。

それからの二年の任期の間 お二人には 公私ともに本当にお世話になった。
夫は 職場だけでなく 当時はまだ許されていた父兄や地域の人達との飲み会や
お祭りにも招かれて 校長先生と一緒に飲み歩いたり 私は私で 奥さんに和裁を
教わったり 季節のいい晴れた日には 二人で遠くまでおにぎりを持って歩いたり。
我が家の三人の子も 祖父母のように接して可愛がってくださった。

土日になると 私たち家族は実家へ帰ることが多かった。ご夫妻もまた 高山の家へ
帰られたが 冬の雪深い時期には早めに戻られて 夜遅く帰ってくる私たちが心配で
私たちが宿舎に帰り着くまで 寝ないで待っていてくださった。
まるで親のように 私たち家族を慈悲深く見守ってくださった校長先生と奥さんだった。

三年の任期を終えてその地を離れてからも 家族のような交際が続き 実家へ行った時や
春休み夏休み冬休みになると 必ず訪ねてお二人に会い お元気な様子を喜んできた。

夫が校長になった後に伺った際には
おい お前も校長だろう もう俺を校長先生なんて呼ぶなよ
と 冗談を言いながら夫の昇進を喜んでくださった。

あの 父親のように優しかった校長先生が 亡くなった……
お歳だったとはいえ 去年伺った時には それまでと変わらないご様子だったのに……

お通夜は月曜の夜 葬儀は翌日の火曜日
お通夜は無理だが 火曜日の葬儀には夫と二人 是非とも行って最後のお別れをし
悲しまれているだろう奥さんにもお会いして来るつもりだ。




夫は 今朝 仕事に行く前に 秒院へ行った。

心電図も撮ってもらったが 異常なし だった。

医師に 無呼吸症候群ではないかと妻が心配している と話したことがあったらしく
それが原因かもしれないからと 検査する機械を借りてきた。

今夜その機械をつけて寝るのだが 夫が前職を退職する前に一度 同じ検査を受けた。
ところが 病院で機械をつけて寝ることに緊張したらしく 検査できなかった。

だから 検査自体は 今夜が二回目になる。

ちゃんと いつものように眠られればいいが と思う。
そして しっかり検査ができて 無呼吸症候群かどうかの判断ができたらいい。

一番いいのは そこまで酷くはないから心配ない と言う結果が出ることだ。

血圧が標準血圧の上限ギリギリだので 夫が医師に相談すると 医師が 心配なら
弱い薬を飲みましょう とおっしゃって血圧の薬を飲み始めたのが数年前だった。

その後 真夏の炎天下での畑仕事などの過労が原因だと思うが
不整脈が見られるようになった。
それで 心臓カテーテル検査を受けたが 血管の詰まりもなく心臓自体にも異常は
なかった。

その後念のため専門の病院で 定期的に心臓検査をし かかりつけ医から処方される
血圧の薬だけはしっかり飲みながら 今日まで何事もなくきた。

それが今夜 夕食の後 自分でも体の変調を感じた夫が 血圧を測ってみると
上が百七十を越えていた。下も九十以上あった。

今までは高くても百四十くらいだった。
日頃元気印が二つも三つも付いている人が こんなに血圧が上がるなんて ビックリだ。

急にきた寒気と雪と ノロノロでひどくかかってしまったと言っていた通勤時間が
原因かとも思うが とにかく安静が一番だから 入浴もやめたほうがいい と言って
早々にベッドに入らせた。
明日は 早速かかりつけ医を受診することになるだろう。

夫は 回遊魚のように 動いて何かしていないと気が済まない性分の人だ。

年齢が上がるに連れてその性分が強くなって 私が 少しは体を休めて と言っても
そんなことは歯牙にもかけないで 仕事が休みの土曜日や日曜日 春休み夏休み
冬休みの長期の休みは ほとんどの日 朝から晩まで畑へ出かけて行く。

不整脈が出たのもそれが原因だったのだが 異常なし と医師に言われると
自分でも自覚があったうちは 多少は控えていた畑仕事を また熱心に
するようになった。

この冬も 樹木の枝打ちや肥料やりに 毎日畑へ行っている。

彼は今年七十二歳になる。
そんな生活をしていて体に負担がかかっていないなんて あるはずがないのだ。

本格的に畑仕事を始めた五十代後半と比べたら 確実に体の衰えはあるのだから
それを考慮して動いてほしいのだが 私の懇願などなんのその と 出かけてしまう。

それが 今夜一気に上がった血圧に現れているのだろう と思う。

元々は長生きの家系なのだから 無理さえしなければ九十歳も夢ではないはずだ。

明日受ける医師の診断がどうであれ もっと体を休めることを考えてほしい。








昼間の雪は 今も降り続いている。

どうもこの雪や寒さは 普通ではないような気がする。

それで 夕ご飯の後 夫に頼んで 敷地内の北と南にある水道栓を
布や保温用の梱包材などで覆って その上にまたビニールをかけて
雪がかからないようにし 動かないように重しになる石を置いてもらった。

夫は 家を建ててからこんな事したことないけど と言いながらも
寒いのを堪えて北も南もやってくれた。

この二箇所の水道栓以外は むき出しになっている水道管や栓はない。

ボイラーは 断熱材の上に木を打ちつけて 機械ごと囲ってある。
いつか修理に来た業者も これだけしてあれば 凍結は絶対大丈夫 と
太鼓判を押していたから まず凍結はない。

隣市で最低マイナス三度 の予報が出ている。その北側に当たるから
この辺りはもっと気温が下がるに違いない。

多分 この雪は明日の朝まで降り続くだろう。
夫の勤務先の子供たちは 明日は休みになるかもしれない と言う。

子供は休みになっても 夫や他の職員は出勤しなければならない。
普段でも通勤に三十分以上かかる職場だから 明日の朝はもっとかかるだろう。
それでも 出かけて行かなければならない。

これ以上の積雪にならないよう 願うばかりだ。



つい先日 雪が降らないから土中や木についた害虫が死ななくて困る と書いたら
とうとう 今日 降ってきた。

朝方は 強風が吹いて それに風花が舞う程度だったのが 今はもう 辺りは真っ白。
これぞ冬!と思われる景色になってきた。

さすがにこれだけの降りになると 高速道路建設の工事もできなくなったのか
行き交うダンプの音もしなくなっている。

予定では 今日 I さんが温熱療法をしに来てくださることになっていたが
風邪気味だということで 延びた。
延びて良かった。
こんなに荒れる日に来ていただいて 行き帰りに何かあっても困る。

昨日 叔母宅から帰る頃から 私も喉が少し痛み出した。
塩水でうがいしたり葛根湯を飲んだりしてはいるが 治らない。

それをいいことに 今日は 朝寝昼寝のし放題で 一日中布団の中 という始末。
何かないと たちまちダラシのない生活になってしまう。
まったく情けない私だ。

昨日は 大学病院を受診する日だった。

一昨日 それを知っている叔母から電話があり 病院が終わったらおいで と言われた。

終わったら 久しぶりに駅までバスに乗って行って 行きつけの本屋を覗こう と
それまでは思っていたが 何箇所にも注射した後だから そんな遠くまで行かないで
うちへ来て休めば と熱心に誘われるので 多分 話し相手が欲しいのだろう と思い
誘われるままに 病院の後 叔母の家へ行った。

玄関に着くと ちょうど帰るところだった叔母の友人と鉢合わせした。

友人は 手に三冊の小さな写真アルバムを持ってみえた。
おそらくそれを叔母に見せるために 来られたのだろう。

そのまま入れ違いになるかと思ったら 以前に何度も顔を合わせていて
叔母との関係もお互いに承知しているからか 挨拶もそこそこに 私に
見て見て!今 * * *ちゃんに見せたとこなの!
と言って その場でアルバムを差し出された。

といっても そこは狭い玄関のタタキ。さすがに叔母が
そんなとこで見ないで入って見たら?
というので 私は荷物を玄関に置いたまま上がり その友人は
履いていた靴を脱いで また室内へ戻られた。

叔母が 見ている間にコーヒーでも入れようか? と言うと
友人は いい!いい!直ぐ行かなきゃいけないから! と言って立ったまま
で 私にアルバムを差し出された。

痛み止めを十三箇所にも打った後だ。 立ったままの姿勢は辛かったが 年長の
方だし急いでもみえるようだから サッと一通り見せてもらえばいいだろう と
防寒着を脱ぐ間もなく 私も立ったまま 差し出されたアルバムを受け取った。

写真の大半は その方の 医師である息子がクリニックを開院した際のお祝い会
のもので その他は ハワイに住んでいる娘が孫を連れて帰国した時 連れて行った
と思われるあちこちで撮った写真だった。

ほとんど見終わる頃に その方の孫息子がピアノに向かっている写真と 息子さんの
お嫁さんだろう女性が 同じようにピアノに向かっている写真があった。

大昔私もピアノのレッスンに通い 娘も長く習っていたことがあるので つい
お孫さん ピアノ弾かれるんですね〜 と自然に口から出た。

すると すかさず その叔母の友人が言われること!
そうなの! 嫁も弾くの! これがほんとのセレブって言うのよ‼︎

エッ!と思ったが 彼女の性格や生い立ちなどを叔母から聞いていたので
なんと返事していいやら分からないまま 曖昧な風にしているうちに
その友人は アルバムを持って 気忙しげにサッサと帰って行かれた。

プライドの高い叔母の ましてやその友人だから 気安く批判も反論も
あの言葉はおかしくない? とも 叔母には言えない。
また 自身の友人でもないから わざわざ言われたことにこだわる必要もない
と思い 帰って行かれた後 叔母と二人になってもそのことには触れないで
いた。

しかし 聴力が悪くて補聴器をかけている叔母にも あの言葉は
ひっかかったとみえ 叔母の方から
ピアノ弾けるのがセレブなんて言ったら ほんとのセレブが怒るよ、ねエ
と言い出した。

対等の間柄なら 私も何か言うのだが 相手は叔母の友人だから 下手に
あいづちは打てない。
万が一その場はよくても 後々おかしなことに繋がらないとはいえない。
だから 笑って その場はごまかした。

しばらく経って叔母が 今度は
あれはね多分 * * *ちゃんのことが頭にあるからだよ 負けん気が強いから
と 私の娘の名前を出して言った。

叔母も おとなしげではあるが結構負けん気の強い人だから 日頃
その友人から 自分の娘や息子の自慢を聞かされると 負けん気を出して
どうも 自分のまわりで一番羽振りの良さげな 我が家の娘を持ち出して
なんやかや言っているらしい。
それを聞かされると ますます友人は負けん気を起こしてしまうから
先ほどのセレブ云々も その延長上の言葉だとみた。

そう思ったから 叔母の言葉への返事も 思ったままは言えない。
またしても曖昧なまま 当たり障りのないことを言って 話題を変えた。


それにしても と思う。
彼女らは 来年になれば八十歳だ。
いくつになっても 競争心や負けん気は なくならないものらしい。
それは 昔から私に一番欠けているものだから 叔母と友人の 互いに張り合う
気持ちが 理解できない。

自分自身の何かの能力だったり努力の結果だったりを競うのは分かるが
子供や孫のことで負けん気を出して競ったところで 何が面白いのだろう。
たとえ我が子が余裕のある生活をしているとしても それは単にそれだけの
事であって 自慢したり他人と比べたりするものではないだろう。
また それを聞けば 共に喜んでくれるのが親しい友人というものではないか。
親として 子の幸せを共に喜んでくれる友に 感謝すればいいだけのことだ。

叔母には言えないが 私からすれば 負けん気もセレブという言葉も
どちらも ちょっと陳腐だと思えた。

ましてや お互い幼い頃からの友人ではないか。
私の友人関係とは全く違った形の友人との付き合い方が 理解できない。
それって 本当のともだちって 言えるのかしら……。




続きを読む