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昨日 高山での葬儀のために日帰りして さぞかし疲れているだろうから と
I さんが また今日 施術に来てくださった。

昨夜 その連絡をいただいた際 施術の後 療法の指導をしてくださっている先生と
I さんと一緒に指導してもらって見える K さんと お昼を食べるんだけど 一緒に
どうですか とお誘いを受けた。

お二人には I さんからお話は聞いてはいたものの もう三年近くお会いしていなかった。
お会いできるなら嬉しい と 一緒に待ち合わせ場所へ連れて行ってもらった。

平日だというのに そこは食事をする人で大変賑わっていた。
四人ともが同じメニューを選び 楽しく話をしながら食事をした。

大手術で命拾いされたばかりの先生は 見違えるほど若若として 肌が輝いて見えた。
K さんと並んで座ってみえたから先生と分かったが まるで別人のようだった。
私が知っている先生は お会いした頃には もう体がしんどかったに違いない。

K さんは 年老いたお姑さんと実母を抱え 正にこれから介護に突入しよう という
位置にあって 悩みも深い。
それがどれだけ大変なことかよくわかる私は 彼女のこれからにエールを送りたい。

I さんも ご主人と実家の両方に まだご両親が健在だから 彼女にしても 大変な事態
がいつ訪れるかわからない状況だ。

子が親を見送るのは この世の順当な命のつなぎ ではあるが 社会全体の向上によって
命そのものが長くなっているから どうしても老々介護になってしまう傾向がある。

また 団塊の世代の我々が本格的に介護を要する頃には 公は財政難から 施設の増設
が難しくなって 社会全体が在宅介護の方向に向かうのではないだろうか。

介護を担う人材の問題 延命しないで受ける医療の在り方 看取りの問題 などなど
今とは異なる形の老人問題が起きてきそうだ。

集まればどうしても身近かの話題に花が咲く。

久しぶりにお会いして 楽しい時間を過ごせた。
I さん 誘ってくださってありがとうございました。

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十一時からの告別式に間に合うよう 今朝七時五十分ごろ家を出て 高山へ向かった。

途中 高速道路上で事故があっても困るし 雪が激しく降っていても渋滞するから と
十分に時間をみての出発だった。

雪道を走る という想定だったから 昔 子供達を連れて車で移動する時には 必ず
おにぎりを握って持ち 甘いものやお茶はもちろん 毛布などの暖が取れるものを
積んで動いたことを思い出して 同じように準備して車に積み込んだ。

ところが 行きも帰りも道路上に雪はまったくなくて そこまでする必要がなかった。

それより困ったのは 私の頭髪だった。
十二月に美容院へ行った時に いつもよりかなり長めに仕上げてもらっていたから
今はそれがもっと伸びて まとまりのつかない状態になってしまっている。

訃報の電話が入ったのが土曜日の遅く 次の日の日曜日は 私の行きつけの美容院は
三時で終業する。電話してみると 予約で埋まっている。おまけに月曜は休業日だ。
完全にアウト!

仕方なく 昨夜 洗髪の後 前髪だけをスプレーして電気カーラーで巻いて寝た。
今朝起きて直ぐに 後ろとサイドのカーラーを巻くために再度温めて なんとか
見苦しくない程度に全体を梳かしてまとめ 出かけて行った。

ありがたいことに順調に走れたので 開始時間より一時間も早く高山に着いた。
喫茶店で時間を潰し 告別式へ。

何年も前に膝を傷められた奥さんは ますます歩行が難しくなっていて 車椅子に
座っていらっしゃった。
その車椅子を 終始娘さんがお世話してみえた。

飛騨の儀式には 古くからのしきたりが色濃く残っている。
特に 他人様を相手の事は 頑固なまでに変えない事項がある。
例えば お通夜や葬儀の開始前は 必ず遺族が玄関に立って 弔問客を迎える。
同じ県でも 私が住んでいる地方には このしきたりがない。

今ではそこまでのこだわりがあるかどうか分からないが
母の葬儀の時には 弔問客への返礼品を渡す際 別にその品を入れるように
袋が付いているにもかかわらず 袋は畳んで品物の下にして それをまた
お盆に載せてお渡しした。香典を頂戴するのも 当然そのお盆で受ける。

私が住む地方では 品物は最初から袋に入れてあり 下げられるようにしてある。
弔問客は 渡された袋をそのまま持ち帰って行く。 出された香典は 手で受ける。

個人の住宅や寺院で執り行われていた葬儀が 専門の葬儀会社が請け負うようになって
少しずつ変わってきているようだが これだけは という点だけは 今も変わらない。

喪主とその妻もしくは遺族の中の女性が 男性は紋付羽織袴 女性が喪服 という和服姿
であることも 異なる点だ。

もっとも飛騨では どの家でも紋付羽織袴を持っていない男性はいない と言っても
いいくらいだから 貸衣装を利用する男性は少ないだろう。

なんて面倒なの とか 古臭い 肩苦しい と 慣れていないと思いがちだが
ここが日本で 礼を尽くす気持ちを姿で現す と考えれば なんの不自然さもない事だ。

今日の葬儀も お盆での受け返しこそなかったが 袋は畳んだまま品物の下に。
遺族は揃って和服姿で玄関に立ち 弔問客を迎えておられた。

夫と私は 出棺を見送った後 会場を出た。

去年の夏 それまで元気だった先生が大腸癌だと判明 それから入院生活を送って
いらっしゃったらしい。

私たちは その少し前にお宅を訪ねていた。
その時 先生は この頃腰が痛くて とおっしゃっていたことを思い出す。
あの時 癌はすでに先生の体の中で暴れていたのだ と思うと居たたまれない気がする。
また例年なら年の暮れには伺うのに 去年は渋柿が凶作で干し柿ができず 伺わないまま
年を越してしまった。
最後に もう一度お会いしたかった。


焼香をする時 棺にお花を入れる時 出棺を見送る時
本当にお世話になりました ありがとうございました。
どうか安らかにお眠りください。
そう心で念じながら 数珠をかけた手を合わせてきた。






去年の秋 友人に 珍しい場所へ連れて行ってもらった。

あるお寺の敷地に接してある 菩提所だった。
結構広い面積に 立派な五輪塔や墓碑がたくさんの数建っていて その間あいだには
灯籠が こちらもたくさんのこと建っていた。

ちょうど近くの墓地の草取りをしていた方から その菩提所の話を聞くことができた。

今は本家に当たるお宅が 名古屋にあるらしいが 信長の時代に頭角を現して
徳川家康にもつかえて続いてきた 石河 という名の武士の家系の菩提所だ。

現在は 年に一度子孫が管理に来るだけで ほとんど放置状態なのが悩みで
市の文化財に指定されているから 市のボランティアが何回か草取りをして
ようやく保っている。

このようにたくさんの墓碑が集まっている菩提所は 高野山以外はここだけらしい
から もったいないことだ。

その人は そう話してくれた。

刻まれた文字は時の移ろいに消されてしまい黒くなった夥しい数の
墓碑や五輪塔の佇まいは その場所だけが周囲から切り離されたかのようだ。
連綿と繋がってきた一族の思いを感じて 丸い自然石が飛び飛びに埋められた
その場所の中までは入って行けなかった。

何か言葉にできない感覚を覚えながら帰って来たからか その菩提所のことが
忘れられないでいた。

そうしたら なんと今読んでいる時代物の中に 石河氏の名前が出てきた。
江戸中期 四千五百石取りの大旗本で江戸城留守居役 として登場していて
石河美濃守氏 と ある。

読んでいても感銘を受けるような小説ではないが たまたま記憶していた
菩提所の氏名だったから驚いた。
作者が時代考証し 調べた上で出したものだろうから 確かに江戸時代にも
幕府の重要な位置にあった 名門の氏に違いない。
江戸城の留守居役にまでなるからには あの菩提所に建っていたどれかの
大きな碑か塔に名が刻まれているのかもしれない。

偶然目にした氏名に あの菩提所のことをまた思い出した。

我が家の畑には 伊自良大実柿という種の渋柿の木が 八本あった。
それに 去年 義弟から譲られた土地続きの畑に植わっている木を合わせると
渋柿の木は 十三本にもなった。

ところが 後からの木は樹齢は同じなのに 義父が亡くなって以来 手入れが
されていなかったから荒れ放題で 太いツルが根元から枝先までビッシリと絡みついたり
大事な幹に腐りが入っていたり かなり傷んでいるらしい。

だから夫は 最近の土日は 今まであった木の枝打ちや肥料やりだけでなく 後からの
五本の世話に 朝から遅くまでの大部分の時間 かかりっきりになっているらしく
疲れきって帰って来る。

手入れをしないとそんなにもに違ってしまうのか と 夫の話を聞く私は驚いてしまう。

もともと樹齢が百年もの木たちだから 肥料をやって力を付け 枝も剪定してあげないと
木たちは いい実をつけてはくれない。

夫は 絡みついている蔦を根気よく切っては剥がし 根っこを掘り起こした。
文にすると簡単なようだが 長年放置されていた蔦は 夫の拳ほどもの太さになって
いたらしく 根もそれなりに太く深く伸びていて 掘り起こす作業は大変だったようだ。

だから この木一本の世話だけでも 一日では終わらない。

伸び放題の枝にしても 剪定するのは大変だ。
あまりの酷さに夫の根気も切れて 五本とも枝を背丈くらいに切ってしまったそうだ。
そうなると 今年や来年の成りは 期待できない。

こんな五本の木の有様は 隣で作業してきたのだから 夫の目に入らなかったはずは
ない。自分の方にある木を手入れしながら 夫はそれをどんな思いで見てきたのだろう。

農家の長男として生まれた夫だ。
折にふれて 祖父が植えたという渋柿の木のこと 手入れの仕方など 父親が話すのを
聞きながら 枝打ちやその他の作業を教えてもらったり 夜なべでする皮むきを
手伝ったりしながら 物心つく前から これらの渋柿の木に親しんできた。

なにせ夫が子供の頃は この渋柿で作った干し柿を売って得られるお金だけが
冬の間の唯一の現金収入だった というから 家にとってなくてはならない
なによりも大切な木だった。
だから 夫は口には出さないが 渋柿に対する思いは人一倍深いと分かる。

夫の実家には この十五本の他にも 離れたところの畑にはまだまだ同じくらいの数
の伊自良大実柿の木があるはずだが 義父母が亡くなってからは 夫がその畑へ
足を運ぶこともなくなり どうなっているのか分からない。

去年夫は 義弟から地続きの部分の畑を譲る話が出た時 今の年齢でこれからの年月
果たして畑仕事を続けていけるかと悩んでいたが 貰おう と決めた心の中に
手入れされないままの五本の渋柿の木があったことは確かだろう。

家を継いで 仕事に就きながら農業もやっていくもの とばかり承知していたところへ
思ってもいなかった義弟からの 俺が家へ入って農業をやる という言葉があったのは
私たちが結婚して一月もするかしないかの頃のことだ。

当時の私は 式の前に二度の交通事故に遭って傷つき 心身ともに結婚という
晴れがましさからは遠いところにあった。
その二回ともが 夫と義母が運転する車の助手席に座っていての事故だった。
義弟が家に入る云々は 私の入院中に持ち上がった話だった。

その後 義父母と夫と義弟の四人で話し合った結果 義弟が結婚して家へ入り私たちは出る と
いうことに決まった。

本心では 義父母は夫に継いでもらいたかったに違いないが 義弟の強い申し入れに
自分が就いた職業が忙しいから 家を継いでも家業の農業は中途半端になる と考えた夫は
そうなるより 弟が農業をやると言うのだから弟に任せた方がいい と思ったらしい。

その数ヶ月前 嫁ぐときのこと
この地方の婚礼の派手さを見聞きしていた私の両親は 大きな農家の長男の嫁として
嫁ぐ私を想って 年を経て古くなっている道具を使っていて壊すようなことがあっては
さぞかし姑に叱られたりして私の居心地が悪かろう と 嫁入り道具の中に 大中小の
いくつもの笊まで わざわざ笊作りで有名な地区の名人に誂えて 持たせてくれた。
布巾や雑巾でさえ 私が死ぬまであるだろうという枚数だった。
農作業で使うエプロンや手袋の類いのものも何年も買わなくてもいいように
長靴までもを何足も調えてくれた。
着物なども どの引き出しも出し入れが無理なほど たくさん作って持たせてくれた。

そうして調えてもらった嫁入り道具と一緒に 私は夫の実家へ入ったのだった。
当時 嫁入り道具を見に来た近所の人たちには どんな物を持って来たかを見てもらう
荷披露なるものが慣習としてあり 私がいない間でも 義母は 全ての荷物を解き
箪笥の引き出しという引き出しを開けて 着物も ものや柄ゆきが分かるように
全部をたとう紙から出して広げ 披露したらしかった。

そこまでしたものを出す形になったことで 義父母は義父母なりに思うところも
あっただろうが 私は私で 農家に嫁ぐ娘が恥をかかないよう 笑われないように
周囲や親戚から誹られることがないように との親心で 精一杯の支度をして
出してくれた両親の気持ちを考えると 早々に出ることになってしまった時は
複雑な思いをした。

でも それ以後の年月にあった様々なことを思えば 諍いをしたわけでもなく
出る形になったことは それはそれでよかった と後々も今もしみじみ思う。
夫の実家を離れたおかげで今の生活がある と思っている。

今夜 夕飯を食べながら夫が話した渋柿の木のことから 遠くなったあの頃の
出来事など 心の深い襞に埋もれ今では忘れてしまったようになっていた
細かな事までもが浮かんできて 辛かったあれこれの思いがよみがえってきた。

長くなってしまったが そんなことはさておいて
渋柿の木にかける夫の思いを想うと 畑へばかり行かないでもっと家にいて とは
なかなか言えない というのが私の本音だ。




夕ご飯の準備で台所に立っていると 電話が鳴った。

私は手が離せなかったが お風呂から上がってテレビを見ていた夫が出た。

昔 夫が僻地勤務の折 お世話になった校長先生の息子さんからだった。
校長先生が亡くなった という知らせだった。

三人の子供を連れて赴任した時 夫が三十代半ば 私は三十を少し過ぎた年齢だった。
長男は三年生 次男はまだ二歳 娘はそこで入学式を迎え一年生になった。

初年度は 家族が多くて家族用宿舎でも狭い と空き家になっていた近くの民家を
その年の校長が 借りてくださった。
赴任前に夫が挨拶に行った際のことで 私たち家族は それがどのような家なのか
知らずに 大方の家財は実家に預けて 必要最小限の家財をトラックに積み込み
赴任先へ向かった。

それまで住んでいた所からの道のりは 長かった。
トラックの後を行きながら まだなの? まだ着かないの? と何度も夫に尋ねた。
ようやく着いた家は エッ ここ?この家なの? と口をついて出るほど 古かった。
その家での生活が始まったが 四月の初めというのに 吹き込んだ雪が廊下に
四十センチも積もり 日が照ってくると 押入れに片付けたばかりの布団の上に
水溜りができるほど雨漏りがした。

それほど古い家だったからか 普通では考えられない事なども起こり 私の心は
次第に弱くなり 暗くなっていった。

そんな私を救ってくださったのは 新しく赴任された校長先生と奥さんだった。

ここに居ては奥さんも子供達も病気になる と家族用の宿舎の一つを空けてくださり
入りきらない家財はまた実家へ預けて 急きょ宿舎へ移った。
奥さんと校長に救われた思いがした。

それからの二年の任期の間 お二人には 公私ともに本当にお世話になった。
夫は 職場だけでなく 当時はまだ許されていた父兄や地域の人達との飲み会や
お祭りにも招かれて 校長先生と一緒に飲み歩いたり 私は私で 奥さんに和裁を
教わったり 季節のいい晴れた日には 二人で遠くまでおにぎりを持って歩いたり。
我が家の三人の子も 祖父母のように接して可愛がってくださった。

土日になると 私たち家族は実家へ帰ることが多かった。ご夫妻もまた 高山の家へ
帰られたが 冬の雪深い時期には早めに戻られて 夜遅く帰ってくる私たちが心配で
私たちが宿舎に帰り着くまで 寝ないで待っていてくださった。
まるで親のように 私たち家族を慈悲深く見守ってくださった校長先生と奥さんだった。

三年の任期を終えてその地を離れてからも 家族のような交際が続き 実家へ行った時や
春休み夏休み冬休みになると 必ず訪ねてお二人に会い お元気な様子を喜んできた。

夫が校長になった後に伺った際には
おい お前も校長だろう もう俺を校長先生なんて呼ぶなよ
と 冗談を言いながら夫の昇進を喜んでくださった。

あの 父親のように優しかった校長先生が 亡くなった……
お歳だったとはいえ 去年伺った時には それまでと変わらないご様子だったのに……

お通夜は月曜の夜 葬儀は翌日の火曜日
お通夜は無理だが 火曜日の葬儀には夫と二人 是非とも行って最後のお別れをし
悲しまれているだろう奥さんにもお会いして来るつもりだ。




夫は 今朝 仕事に行く前に 秒院へ行った。

心電図も撮ってもらったが 異常なし だった。

医師に 無呼吸症候群ではないかと妻が心配している と話したことがあったらしく
それが原因かもしれないからと 検査する機械を借りてきた。

今夜その機械をつけて寝るのだが 夫が前職を退職する前に一度 同じ検査を受けた。
ところが 病院で機械をつけて寝ることに緊張したらしく 検査できなかった。

だから 検査自体は 今夜が二回目になる。

ちゃんと いつものように眠られればいいが と思う。
そして しっかり検査ができて 無呼吸症候群かどうかの判断ができたらいい。

一番いいのは そこまで酷くはないから心配ない と言う結果が出ることだ。

血圧が標準血圧の上限ギリギリだので 夫が医師に相談すると 医師が 心配なら
弱い薬を飲みましょう とおっしゃって血圧の薬を飲み始めたのが数年前だった。

その後 真夏の炎天下での畑仕事などの過労が原因だと思うが
不整脈が見られるようになった。
それで 心臓カテーテル検査を受けたが 血管の詰まりもなく心臓自体にも異常は
なかった。

その後念のため専門の病院で 定期的に心臓検査をし かかりつけ医から処方される
血圧の薬だけはしっかり飲みながら 今日まで何事もなくきた。

それが今夜 夕食の後 自分でも体の変調を感じた夫が 血圧を測ってみると
上が百七十を越えていた。下も九十以上あった。

今までは高くても百四十くらいだった。
日頃元気印が二つも三つも付いている人が こんなに血圧が上がるなんて ビックリだ。

急にきた寒気と雪と ノロノロでひどくかかってしまったと言っていた通勤時間が
原因かとも思うが とにかく安静が一番だから 入浴もやめたほうがいい と言って
早々にベッドに入らせた。
明日は 早速かかりつけ医を受診することになるだろう。

夫は 回遊魚のように 動いて何かしていないと気が済まない性分の人だ。

年齢が上がるに連れてその性分が強くなって 私が 少しは体を休めて と言っても
そんなことは歯牙にもかけないで 仕事が休みの土曜日や日曜日 春休み夏休み
冬休みの長期の休みは ほとんどの日 朝から晩まで畑へ出かけて行く。

不整脈が出たのもそれが原因だったのだが 異常なし と医師に言われると
自分でも自覚があったうちは 多少は控えていた畑仕事を また熱心に
するようになった。

この冬も 樹木の枝打ちや肥料やりに 毎日畑へ行っている。

彼は今年七十二歳になる。
そんな生活をしていて体に負担がかかっていないなんて あるはずがないのだ。

本格的に畑仕事を始めた五十代後半と比べたら 確実に体の衰えはあるのだから
それを考慮して動いてほしいのだが 私の懇願などなんのその と 出かけてしまう。

それが 今夜一気に上がった血圧に現れているのだろう と思う。

元々は長生きの家系なのだから 無理さえしなければ九十歳も夢ではないはずだ。

明日受ける医師の診断がどうであれ もっと体を休めることを考えてほしい。








昼間の雪は 今も降り続いている。

どうもこの雪や寒さは 普通ではないような気がする。

それで 夕ご飯の後 夫に頼んで 敷地内の北と南にある水道栓を
布や保温用の梱包材などで覆って その上にまたビニールをかけて
雪がかからないようにし 動かないように重しになる石を置いてもらった。

夫は 家を建ててからこんな事したことないけど と言いながらも
寒いのを堪えて北も南もやってくれた。

この二箇所の水道栓以外は むき出しになっている水道管や栓はない。

ボイラーは 断熱材の上に木を打ちつけて 機械ごと囲ってある。
いつか修理に来た業者も これだけしてあれば 凍結は絶対大丈夫 と
太鼓判を押していたから まず凍結はない。

隣市で最低マイナス三度 の予報が出ている。その北側に当たるから
この辺りはもっと気温が下がるに違いない。

多分 この雪は明日の朝まで降り続くだろう。
夫の勤務先の子供たちは 明日は休みになるかもしれない と言う。

子供は休みになっても 夫や他の職員は出勤しなければならない。
普段でも通勤に三十分以上かかる職場だから 明日の朝はもっとかかるだろう。
それでも 出かけて行かなければならない。

これ以上の積雪にならないよう 願うばかりだ。



つい先日 雪が降らないから土中や木についた害虫が死ななくて困る と書いたら
とうとう 今日 降ってきた。

朝方は 強風が吹いて それに風花が舞う程度だったのが 今はもう 辺りは真っ白。
これぞ冬!と思われる景色になってきた。

さすがにこれだけの降りになると 高速道路建設の工事もできなくなったのか
行き交うダンプの音もしなくなっている。

予定では 今日 I さんが温熱療法をしに来てくださることになっていたが
風邪気味だということで 延びた。
延びて良かった。
こんなに荒れる日に来ていただいて 行き帰りに何かあっても困る。

昨日 叔母宅から帰る頃から 私も喉が少し痛み出した。
塩水でうがいしたり葛根湯を飲んだりしてはいるが 治らない。

それをいいことに 今日は 朝寝昼寝のし放題で 一日中布団の中 という始末。
何かないと たちまちダラシのない生活になってしまう。
まったく情けない私だ。

昨日は 大学病院を受診する日だった。

一昨日 それを知っている叔母から電話があり 病院が終わったらおいで と言われた。

終わったら 久しぶりに駅までバスに乗って行って 行きつけの本屋を覗こう と
それまでは思っていたが 何箇所にも注射した後だから そんな遠くまで行かないで
うちへ来て休めば と熱心に誘われるので 多分 話し相手が欲しいのだろう と思い
誘われるままに 病院の後 叔母の家へ行った。

玄関に着くと ちょうど帰るところだった叔母の友人と鉢合わせした。

友人は 手に三冊の小さな写真アルバムを持ってみえた。
おそらくそれを叔母に見せるために 来られたのだろう。

そのまま入れ違いになるかと思ったら 以前に何度も顔を合わせていて
叔母との関係もお互いに承知しているからか 挨拶もそこそこに 私に
見て見て!今 * * *ちゃんに見せたとこなの!
と言って その場でアルバムを差し出された。

といっても そこは狭い玄関のタタキ。さすがに叔母が
そんなとこで見ないで入って見たら?
というので 私は荷物を玄関に置いたまま上がり その友人は
履いていた靴を脱いで また室内へ戻られた。

叔母が 見ている間にコーヒーでも入れようか? と言うと
友人は いい!いい!直ぐ行かなきゃいけないから! と言って立ったまま
で 私にアルバムを差し出された。

痛み止めを十三箇所にも打った後だ。 立ったままの姿勢は辛かったが 年長の
方だし急いでもみえるようだから サッと一通り見せてもらえばいいだろう と
防寒着を脱ぐ間もなく 私も立ったまま 差し出されたアルバムを受け取った。

写真の大半は その方の 医師である息子がクリニックを開院した際のお祝い会
のもので その他は ハワイに住んでいる娘が孫を連れて帰国した時 連れて行った
と思われるあちこちで撮った写真だった。

ほとんど見終わる頃に その方の孫息子がピアノに向かっている写真と 息子さんの
お嫁さんだろう女性が 同じようにピアノに向かっている写真があった。

大昔私もピアノのレッスンに通い 娘も長く習っていたことがあるので つい
お孫さん ピアノ弾かれるんですね〜 と自然に口から出た。

すると すかさず その叔母の友人が言われること!
そうなの! 嫁も弾くの! これがほんとのセレブって言うのよ‼︎

エッ!と思ったが 彼女の性格や生い立ちなどを叔母から聞いていたので
なんと返事していいやら分からないまま 曖昧な風にしているうちに
その友人は アルバムを持って 気忙しげにサッサと帰って行かれた。

プライドの高い叔母の ましてやその友人だから 気安く批判も反論も
あの言葉はおかしくない? とも 叔母には言えない。
また 自身の友人でもないから わざわざ言われたことにこだわる必要もない
と思い 帰って行かれた後 叔母と二人になってもそのことには触れないで
いた。

しかし 聴力が悪くて補聴器をかけている叔母にも あの言葉は
ひっかかったとみえ 叔母の方から
ピアノ弾けるのがセレブなんて言ったら ほんとのセレブが怒るよ、ねエ
と言い出した。

対等の間柄なら 私も何か言うのだが 相手は叔母の友人だから 下手に
あいづちは打てない。
万が一その場はよくても 後々おかしなことに繋がらないとはいえない。
だから 笑って その場はごまかした。

しばらく経って叔母が 今度は
あれはね多分 * * *ちゃんのことが頭にあるからだよ 負けん気が強いから
と 私の娘の名前を出して言った。

叔母も おとなしげではあるが結構負けん気の強い人だから 日頃
その友人から 自分の娘や息子の自慢を聞かされると 負けん気を出して
どうも 自分のまわりで一番羽振りの良さげな 我が家の娘を持ち出して
なんやかや言っているらしい。
それを聞かされると ますます友人は負けん気を起こしてしまうから
先ほどのセレブ云々も その延長上の言葉だとみた。

そう思ったから 叔母の言葉への返事も 思ったままは言えない。
またしても曖昧なまま 当たり障りのないことを言って 話題を変えた。


それにしても と思う。
彼女らは 来年になれば八十歳だ。
いくつになっても 競争心や負けん気は なくならないものらしい。
それは 昔から私に一番欠けているものだから 叔母と友人の 互いに張り合う
気持ちが 理解できない。

自分自身の何かの能力だったり努力の結果だったりを競うのは分かるが
子供や孫のことで負けん気を出して競ったところで 何が面白いのだろう。
たとえ我が子が余裕のある生活をしているとしても それは単にそれだけの
事であって 自慢したり他人と比べたりするものではないだろう。
また それを聞けば 共に喜んでくれるのが親しい友人というものではないか。
親として 子の幸せを共に喜んでくれる友に 感謝すればいいだけのことだ。

叔母には言えないが 私からすれば 負けん気もセレブという言葉も
どちらも ちょっと陳腐だと思えた。

ましてや お互い幼い頃からの友人ではないか。
私の友人関係とは全く違った形の友人との付き合い方が 理解できない。
それって 本当のともだちって 言えるのかしら……。




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四年ぶりという大雪に 東京が大騒動だ。

多いところで 二十三センチの積雪を記録したのだという。

こういう時 地方の人は 驚きながらも内心で フン それくらいで大騒動か と
ちょっと侮蔑の気持ちを混ぜて ちょっと笑いながら それでも 気の毒だ と
思いながら テレビの画面に見入る。

フン それくらいで……と思うのは 東京という大都市が
日本の中心で 文化も政治も交通もなにもかも ないものがないくらいの物事を
我が物顔で享受している東京の 泣き所をみた思いがするからだろう。

沿岸低気圧 というもののせいらしいが 上空の寒気からすると 降って当然の
内陸部の私が住んでいる地域を越えて 太平洋側にこんなに雪が降るなんて
面白い と思う。

それにしても この地方の今冬は 雪が降らない。
夫が例年より冬用タイヤに替える日が遅くなったものだから ヒヤヒヤしたが
なんのことはない 今日まで 全く雪がない。

ありがたい といえばありがたいのだが 降るべき時期に降らないと 次に来る
時節の気候にも影響するから それが心配だ。

天気とともにある農業に従事している人は 降っても晴れても気にかける。
我が家もそうだ。

夫は 植えている果樹のうちでも 特に桃と渋柿の木を大切に思っているが
去年 その両方ともが不作だった。 渋柿など不作どころか凶作だった。

雪が降らないということは それだけ気温が下がらない ということだから
木に付いている虫が死なない という結果につながる。
それが困るのだ。

近年 桃の木の芯に入り込んで木を芯から食い荒らしてしまい 終いには
木を枯らしてしまう虫が この地域にまで繁殖してきている。
この虫が芯に入ると 見た目はなんでもなくても 実がならない枝ができたり
して 次第に収穫量が減ってしまう。

桃を作っている農家が多ければ 県や市や農協が対策を立てたり薬剤の指導を
したりするのだろうが なにせ桃を作っている農家が我が家を含めて二、三軒
しかない市だから 市や農協に頼るわけにはいかない。
ましてや 出荷もしていないから頼れない。
独自で何かの対策をとらない限り 木は次第に弱っていってしまう。

虫を発見してからでは遅いのだが 夫の木にも すでにこの虫が
ついているらしい。

あの東京の雪が羨ましいくらいだ。

天の神様
どうかこの地域にも 気温を下げて雪を降らせてください。
そして 果樹についた虫を死なせてください!
夫の果樹にかける労力が どうか報われますように!!

私の体には暖かい方がいいに決まっているが でもこれだけ降らないと
休日の全部を畑仕事に出かける夫のために そう願いたくなってしまう。




今日 何気なくホームのランキング欄を見た。

普段はあまりランクに興味がないから見ない。

書く内容も 足腰が悪くて車の運転も禁止されているから 当然些細でつまらない
自身の思いや考えが多いから 多くの他人の興味を引くとは思えないからだ。

一昨日と昨日に渡って書いた日記も 全くプライベートな出来事だが 自身の心に強く響いて感動した出来事だったから書かずにはいられなかった。
だから 書いた。

今までこんなに長い文の日記を書いたことがなかったから
いったいこんな長い日記を読む人なんてあるのか と思って ランキング欄を
覗いてみただけだった。

それがだ!
驚いた!
二万三千二百三十九人以上が載せている主婦の日記部門で 昨日書いた私のブログが
なんと 五百四十四位 にランクされていた。

驚いた。
もちろんこの順位を こんなで驚くなんて と思う人も当然あるだろうが
この順位になる程 見ず知らずの人が私の日記を読んでいるの⁇
本当なの⁈ この順位ってどうやって決まるのだろう⁇ という
疑問につながっているから 驚いたのだ。


時々書いていることだが 私はこのブログを 不特定多数の人に向けて
書いてはいない。
だから 見やすく読みやすく とも 目立つように とも思っていないから
写真も載せないし 思っている事をそのまま書くから 当然 文も長くなる。

その日その日 日々の小さな世界の中で起こる事や思うこと考えること を
日記として綴っているだけだ。

だから 読んでいるのは あの人 あの人そしてあの人 あの人 と
たいていの人の顔が浮かぶくらいの ほんの一握りの人たちのはずだ。
二十人にもならない数の人しか 読んでいる人はいないはずなのだ。

それなのに の順位 信じられない。
いったい 誰が どうやって この順位を決めているのだろう。
不思議だ。

昨夜 長年音信不通だった父親が亡くなった連絡を受けて 遺骨を引き取り 母や兄の
遺骨と一緒に本山に納めた と 関西にいる従姉妹から電話があった。

母方の従姉妹の彼女が言うに 本来なら同じ十二月でも早い時期に 母親と兄の遺骨を
本山に納める予定でいたのが 何かしら延び延びになってしまっていた。
そうしたら 父親の遺骨も一緒に納める事になった 不思議な気がしている。
というのだ。

電話の後 ひとり 従姉妹の心模様を思い遣ってみたり もし母方の親戚から
何かの用事で電話でもあったら 顛末だけでも伝えた方がいいか など考えて
一晩 眠れなかった。

そうしたら 今日お昼過ぎた頃 母たちの弟に当たる叔父が 電話してきた。

驚いた。

まるで私の気持ちを察したかのように 従姉妹に起こった事を
見透かしたかのように の 叔父からの電話だったからだ。
何も用があっての電話ではなく 電話してみたくなってなあ と言うではないか。

私は早速 昨夜の従姉妹からの電話について話した。
従姉妹は 叔父にとっては姉の娘 姪にあたる。

そうやったのか なんかこの頃お前とあの子のことが気がかりになってなあ
お前に電話した後 向こうへもかけようと思っていたところやった

そう叔父が言った。

やっぱり叔父も 何かしら感じるものがあったらしい。

もう一人の叔父は もっと感じる人だ。
なにせ 自分の手術中 幽体離脱したり あの世の入り口で
お前はこちらへ来るな まだ早い 帰れ 帰れ
と言われて 引き返した 経験の持ち主だ。

私の母は もっとそれが強い人だった。
私や家族 特に子供たちが熱を出したり風邪を引いたりすると 必ず
何か変わったことない?
と 電話がかかった。

その子である私もまた かなりそれが強い。
私が感じることがそのまま当たるものだから 夫が驚くことがあるし
自分でも不思議だが 何故そうなのか分からないが 何か を感じるのだ。
私の三人の子のうちの一人も そうだ。

このように 従姉妹といい叔父たちといい 母方の縁者には
この方面のことが強い者が多くいる。
これは DNA によるもの としか考えられない。

科学で解明できない力が多少なりと備わっている者は
時として 変わった人 変った子 と見られて 生きにくい。
だから 極力そういう人間であることを隠して生きざるを得なくなる。
又 なかなか友達ができない。

何を言いたいのか というと 気味悪がられるかもしれないが
信じられないことかもしれないが 他人からは 何をバカげたことを言うか
嘘ばっかりついて と思われるかもしれないが
それでも やっぱり 不思議な力を持つ人間は いる ということだ。




こうして 家族のすべてをなくした従姉妹だったが 優しい夫に守られ 舅姑にも
可愛がられ頼りにされて二人の娘に恵まれ 婚家で幸せに暮らしてきた。

成長した娘の一人をすでに嫁がせ もう一人の結婚も決まった去年の十二月
従姉妹に 父方の伯母と名乗る人から 電話が入った。

父親が亡くなった という電話だった。

従姉妹は 突然の降って湧いたような事に驚愕し戸惑いながらも 自分には記憶すら
ない 伯母だというその人の話をよくよく聞くと その方は父親の一番上の姉に当たる
人で なんと父親は もう二十年も前から体を悪くして それまで暮らしていた土地を
離れ その姉を頼って 姉の所へ行ったらしい。
そして 医師になっていたその姉の息子の尽力もあったのだろう。その地にある施設に
入ってずっと暮らしてきたのだが この度亡くなって荼毘にふしたのだ という。
ついては 遺骨をどうしたらいいか という電話だった。

姉と名乗る人は 経緯が経緯だから 従姉妹の返答次第では 遺骨は自分たちの生家
のお墓へ納めることになっても仕方がない と思ってみえたのかもしれない。

でも とりあえず従姉妹は 事情を知った夫と一緒に 直ぐにその地へ飛んだ。
そして伯母と対面し施設を訪れ 父親の入所当時から勤めているという職員にも会って
自分が知らない およそ四十年もの年月の父親の話を聞いた。
結果 夫の勧めもあって 遺骨を持ち帰ったのだった。

実に巡り合わせとは不思議なもので 兄嫁と話し合って お墓は建てない と決め
母親と兄の遺骨を 奇しくも 十二月に本山へ納めに行く予定だった。
そこへ 思ってもいなかった父親の死の知らせだった。

どうしたらいいか悩んだ と従姉妹は言う。 でもどのような経緯があったにしろ
複雑な思いはあるにしろ 母と兄の納骨をしようとしたこの時期に合わせたように
長年離れていて安否さえ不明だった父親が亡くなったと分かり その遺骨が
私の元に帰って来た これは なるべくしてなった運命だと思う。

だから 兄嫁の了解も得て 今日 本山へ三人の遺骨を納めてきた

そういう電話だった。

話を聞きながら 涙が溢れて止まらなかった。

従姉妹も 電話の向こうで 話しながら泣いた。

山ほどもあるだろう父親への恨みつらみ 苦労した母親への思いや
あの頃の辛い暮らし とめどなく湧き上がってくるそれら全てを抱えて なお
その全てを水に流して 母と兄とともに眠らせて来た彼女の心中は 側の者には
察しても察しきれない 深くて それでいて慈悲に満ちたものであるに違いない。

そして電話の最後に
施設から渡された数少ない遺品には 写真も何枚かあったんだけど
その中に 別れた頃の私の写真が 一枚だけあったの。
あの騒動の中で 人知れず家を出て行く時に 私の写真だけを持って出て行って
それを ずっと最期まで持ち歩いていたらしいわ。
それを手にしたら いろいろなこと全部を 許せる と思った。

彼女はそう泣きながら語り また

でも あの世で お母ちゃんやお兄ちゃんが なんてことをしてくれたんだ って
私に怒ってるかもね。
今ごろ ものすごい勢いで お父ちゃんと喧嘩してるかもしれないわ。

泣いた後の鼻声で そう言って笑った。


笑えた従姉妹の気持ちの中には 漸く家族が一つになれた という安堵感と
これまで 忘れたようであっても 心の何処かに棘のように刺さっていたものが
なくなった 安らぎ感があったのではないか。

怨讐を超えて今日をむかえた従姉妹を 真から偉いと思った。

大丈夫 皆んな仏様になっているんだから 会えたことを喜んでいるよ。
一緒にしてくれたあなたに きっと三人が ありがとう と言っているよ。

私はそう言って 電話を切った。







連日 娘を連れて行こうとする鬼のような取り立て屋と それをさせまいとして
叔母と中学生だった従姉妹の兄は 死に物狂いで争ったらしい。

そこまできて漸く 己れのしでかした事の重大さに恐ろしくなったか怖じけづいたのか
地獄のような有様を目の当たりにした叔父は 蒸発 という形で自らの身を隠した。

それ以後 妻や二人の子との音信は完全に途絶え どこでどうしているのか
叔父の行方は知れなくなった。

しかし 叔父はいなくなっても なお 借金取りは叔母に張り付いたらしい。
それでも 気丈だった叔母は メゲなかった。

そんな辛い叔母に遅まきながら巡ってきた救いは 働き者の叔母に相応しく
仕事 としての幸運だった。

その当時 成長著しかった子供洋品を扱う会社の パターンと布を買い取り
裁断から縫製 タグ付け 袋詰めまでを一手に引き受けて製品化する という
大きな仕事だった。

腕のいい裁断士と出会え その人と組んでの大仕事だった。
大勢の縫い子に混じって自らもミシンを踏み 次々に新しい商品を請け負い
何百という数の単位で製品化し 会社に収めていった。

そうして働いて借金を返し二人の子を大学まで出し その土地の旧家の息子に
見初められた娘を たいそうな支度を調えて 嫁がせた。

こうして苦労して育てた息子も娘も大変な母親思いで 特に息子である兄の方は
同居して 病に倒れた母親の面倒をみていたが ある日突然亡くなってしまった。

そして数年後 勤めを終えて病室をのぞいた娘と 和やかに会話を交わした叔母は
その夜 病院で一人旅立っていった。



今夜 夫とテレビを観ながらご飯を食べていると 携帯が鳴った。
誰からか と発信者の名前を見ると 関西に住む従姉妹だった。

去年の暮れ半ば 彼女の名で唐突に年賀状欠礼の葉書が舞い込んだ。
不信に思って 遠慮がちにどなたが亡くなったのか尋ねると なんと何十年も
所在が分からなかった父親が亡くなったことが分かったのだ という。

そしてその時 分かった経緯のあらましを聞いていた。

だから これはどうでもいい内容の電話ではない と思い 夫に遠慮して
電話に出ながら 一人寝室へ移った。

私より十才以上若い従姉妹は 彼女が少女の頃 辛い経験をしていた。

事の始まりは こうだった。

それまで真面目に勤めていた会社が倒産すると 彼女の父親は どうしたわけか
ギャンブルに狂い出した。 そのうち 退職金がわりに手に入れていた二軒分の広い
敷地の社宅も人手に渡し 小さな家に移ったが それでも父親の道楽は止まなかった。
結果 借りたお金の山だけが 知らぬ間にいくつもの雪だるまになって膨れ上がり
その小さな家さえも売って とうとう狭い借家住まいになった。

叔母は 突然豹変した夫と 思ってもみなかった事態に激怒しながらも 息子と娘の
二人の子供を抱えて 昼も夜もいくつもの仕事をしながら 必死で働いた。

それでも叔父のギャンブルは止まず 叔母は 昼夜の別なく絶えず繰り返される厳しく
激しい取立てに 生きる気力さえ失くしていったようだった。
挙げ句 子供たちを道連れに死のう としたこともあった。
姉や弟たちが駆けつけ すんでのところで止めることはできたが 肝心の事となると
とてものことに助けてあげられる額をはるかに超えていて どうしてやりようも
ないほどにまでなっていた。

そして 果てには もっと地獄がやってきた。
返せない借金の代わりに その頃中学生になっていた従姉妹を連れて行く と
取り立て屋が言い始めたのだ。

かなり前 四十代の頃になるが 友人二人と私の三人で 毎月積み立て貯金をし
年に一度 一泊旅行をする会を持っていた。

会の名を それぞれの名字の一字から取って名付け 行けない年は
そのお金を翌年にまわして楽しんだ。
なにせたった三人だから その都度三人の気持ちさえ合えば 行き先が決まった。

三人での旅行で一番思い出深いのは 一番遠くへ行った 台湾への旅だ。

夜店で 葡萄の房のように実が付いた生のライチを買って ホテルで食べたり
旅行社が付けたガイドの マージン欲しさの案内先を変えさせたり
友人の知り合いで 駐在のご主人に伴って現地で暮らしてみえた夫人の案内で
観光客には絶対に売らない という中国茶の老舗で 土産物でない本格的な高級な
中国茶を試飲させてもらい その頃はまだ日本では珍しかった種類の 美しく美味な
お茶を買わせてもらったり ゆっくり時間をかけて博物館内を見て回ったり
思い返しても 印象深い旅だった。

山陰への旅では その頃マスコミではまだ取り上げられていなかったが 本好きな私が
希望して 金子みすずが暮らした場所へも行き 後に 教科書にも詩が載るようになって
二人から あの時 行って来てよかった と喜ばれたりもした。

金沢への旅では 宿泊先を安宿にして その分を金沢でも高級な料亭の 江戸時代に
芭蕉が泊まったという部屋での夕食に充てたり 三人という少人数でしか味わえない
楽しさを考えての 自由で楽しい旅の会だった。

でも 亡母の病状が次第に深刻になり 申し訳ないことに私が抜けざるをえなくなって
それなら と会を解散した。

それ以後は互いにスーパーで出会ったりした際 今度お茶でもどう? と連絡を取り合って
年に一度か数年に一度 喫茶店で会って 互いの近況などを知らせ合ってきた。

今日の新年会もたまたま友人二人が病院で出会い 私も誘って三人で食事をしよう となった。

子育て真っ盛りだったあの頃から年月が経ち 今では三人ともが正真正銘のお婆さんだ。
話のネタもそれに見合ったものに変わった。

今日 話題になったのも 病気や病院の事 知人の病や果ての死の事 連れ合いの病自身の病
介護施設の事 その費用の事 などなど。
唯一の明るい話題は 互いの孫たちの事だった。

共に旅を楽しんだあれから三十年が過ぎ これからも時折は今日のように会って話をするだろう。
でも そこでは 今日の話題がもっと深刻に真剣なものに変わっていくに違いない。

それでも 会って話ができればいい。
そのうち歩けなくなったり外出ができなくなったりして 三人で会うことが叶わない日が来る。

おそらく その一番乗りは さみしいことだが 私だ。




今日は書道の日

気温が高い と お天気兄さんが言っていたので 久しぶりにバス停まで歩いて行った。
ところが 日差しはあるものの 風が冷たい。

そのうえ 最近あまり歩いていないせいで サッサと歩けない。
サッサと と言っても私の場合のサッサだ。 同年齢の人に比べたら 普段の歩きが
そもそも遅い。 だから 誰か今日の歩きを見ている人があったなら なに あの人!?
と 呆れただろう。

それでも 行きも帰りも バス停から歩いた。

歩きながら休みながら高速道路の広い工事現場を見ると もうすでに一箇所では
路本体の工事が 出来上がった橋脚と橋脚をつなぐべく 始まっている。

一方では 新しく橋脚になる工事が いくつも連なって進んでいる。
インターへの上りやインターからの下り路が 大きくループを描くらしいから
今はまだ作りかけのたくさんの橋脚が これから次々に姿を現わすのだろう。

そんなことより 書道の話だ。
今日が二回めの練習だというのに 書けないこと書けないこと!

今月は昇級月だというのに このままでは とても昇級などできそうもない有様だ。
自分で書いていて嫌になるくらい ため息が出るほどの下手くそさ加減だ。

原因の一つは 何故だかわからないが 集中できない事にある。
年初だというのに 気持ちがのらない。

このままでいい訳はないので 自分の練習日でなくても 土曜日に行って
稽古をしなくては と思っている。

もう仕上がって 他の課題に移っている人があるというのに
なんと情けない私であることか。

毎週水曜日の温泉行きだが 今日は珍しく久しぶりに 夕食は温泉の食堂でとろう と
夫と約束して出かけた。

日中には また今週も Iさんに来てもらって温熱療法をしてもらったから
体に入った熱を逃がさないためにも 今日の温泉行きはちょうどいい。
おまけにその後 二人で喫茶店でランチを食べ コーヒーを飲んで話し込んだから
夕飯を準備しなくていいのは なまくらな私には 何よりも嬉しい。

本当は 夕食の時にはお酒を呑みたいから 外食 特に夕食を家の外でとるのを嫌う
夫だが 以前は私に合わせる格好で しばらくは温泉へ行くたびに館内の食事処で
夕ご飯を済ませて帰っていたのだが そのうちに飽きてしまった。
それで やっぱり家で食べるのが一番 となり それ以後は温泉だけで帰宅していた。

だから今日は 久しぶりの食事処での夕食だった。
夫は ここでは食べたことがないからカツカレーにしてみると言い
私も 以前は野菜いっぱいのうどんを食べていたのを海老天うどんに代えて頼んだ。

この温泉は 隣市の観光ホテルが経営する施設だから 当然食事処もそこの経営だが
今まで私たち二人が食べたもので これは美味しい と思えたものがなかった。

それが今夜も やっぱり美味しくなかった。

夫が頼んだカツカレーは カツのお肉そのものが薄くてペチャンコなうえに カレーも
シャビシャビで 美味しくない と夫が言う。 私が頼んだうどんも 麺そのものが
美味しくないし おつゆの味もイマイチだった。
食べきれなくて 半分くらいを夫に食べてもらったら 夫も同じ感想だった。
それぞれの値段は まちなかの食堂と変わりないか ちょっと高めなのに
値段に比べても 味も質もちょっといただけない。

食べたことのない他のメニューを頼んでも 同じかもしれない。
だからか オープン間もない頃は順番待ちするほど食事処も賑わっていたのに
最近では 土日や連休を除いた日は 食べているお客が少なくなっている。

それで今夜の結果 温泉につかった後 夕ご飯を外で食べるなら 他で食べる方がいい
でなかったら 粗食でもいいからやっぱり家に帰って食べよう と二人で話した。

せっかく温泉がいいのだから 食事もそれなりに良ければいいのに 残念な事だ。

大学病院 整形外科に続いて 今日は帰宅後の夫に連れて行ってもらい 内科を受診する。

これで 私がいつも通っている三軒の病院 全部を受診する。

また 連日の病院通いの暮らしが始まった。

悪くはなっても良くはならないのだから 今の体を維持するために必要な
病院通いであって 病院が好きで通うのではないから 仕方がない。

この病院通いが 生活のすべてになったり 生活の中心になったりしないよう
生活を支える大切なもの と考えて暮らす事が大事だ と 常々思っている。
そうでないと 本来あるべき病院以外の生活が 自身に見えてこなくなってしまう。

病院だけが自分の世界 だなんて こんなつまらない人生はない。
同年齢の友人たちのようにアクティブな生活はできなくても 自分なりの
ああしたい こうしたい と思う事くらいは出来る私でありたい。

これまでも 痛みに負けまいとする心が表れている と 言われる書道だが
たおやかな文字が書けるよう 通えるだけは通いたい。

食についても 春夏秋冬を感じる食は 行事の一つとして作っていきたい。

何より自分らしく 自分なりの暮らしが全うできる 生活ができたら
変わり映えしない当たり前のことだが それを 今年の願いにしたい。

昔は 十五日までが松の内だったような気がする。
少なくとも子供の頃は 十日までが松の内で 十一日の朝が鏡開きだった。
十一日に ようやく玄関の注連飾りや鏡餅を下げた記憶がある。

江戸時代に幕府が 正月は七日まで と決めておふれを出したらしいが
風土に根ざした行事が多いお正月のことだから 関東以外へは 広まらなかったらしい。
だから 地方独特の暮れから年明けの行事や過ごし方が 今日まで残った。

高山は 宮中の女官言葉が今も方言のように残っているくらい 古くから京都との
繋がりが強い土地だから 七日で正月明け とはならなかったのだろう。

しかし この土地で暮らし始めてから 注連飾りは七日まで という周囲に合わせて
正月終いをしてきた。

鏡餅も 昨今は型で作ったものの中に個包装された切り餅が入っているのを買うが
実家では 暮れの二十八日に餅搗きをして その内の一臼で鏡餅をとった。

鏡開きの時 自宅でついたお餅で作ったお鏡様は 乾燥してひび割れていたり
カチカチだったりで あまり美味しいとは思わなかったが 幼い頃から鏡餅作り
を手伝っていたから 自分が丸めて 上手 と褒められながら作ったお鏡様を頂くのだ
と思うと 水餅にして焼いても まだ硬い部分が残っていても 食べられた。

注連飾りや鏡餅は七日で終ったが 食器や漆器などの道具類は 年頭から何や彼や
あって 片付けがなかなかできなかった今年の正月明け。
それを ようやく小正月の今日 片付けた。

出す時よりしまう時の方が 時間もかかる。
御膳の一枚一枚を拭いて和紙で包み キッチリと木箱に入れる。
重箱も同じだ。
お椀類も 同じように一椀一椀を和紙で包んで重ねる。

漆器類は 陶器の食器より扱いに より注意が必要で 出し入れや片付けにも
気を遣う。

だからか 今時の人たちは 面倒だ手軽ではない として見向きもしないが
それは 手をかけてこそ の思いや喜びがあることを知らないからだ。

特に 代々受け継いできた旧家などでは 何代も前の家人たちの道具への
思いに触れながら出し入れするのだから 扱う丁寧さもひとしおだろう。

歴史のある家でなくても 子は親が扱う姿を見て育てば 自然に馴染む。

手軽で簡便な物は 道具 とは呼べない。
丁寧に扱い 長く大切に使うものだからこそ 道具 と呼べる。

着物も 道具の一つだ。
今では レンタルすれば手入れの必要もないし 終っておく場所も要らない。
しかし 昔の人は 誂えたり買ったりして 自分だけの着物を
道具 と考えて 持っていた。
母なども 道具だからね と言いながら 一生に数回着るだけの着物を
手入れしていた。

持っていることの嬉しさや楽しさ 虫干ししながらそれを着た時を
思い出したりする心の豊かさ それはレンタルでは決して味わえない。

考えが古い と言われそうだが 日本人である以上 先人たちが残した
イイモノ は 自分も使って残していきたい。

手をかけるからこそ得られる喜びがある。

そんなことを思いながら 休み休み 片付けた。




今年は 始まりから 可愛がってくれた叔母が亡くなる という悲しい事が起きたが
私自身の内面は その悲しみや喪失感をはるかに超える幸せ感で満ちている。

これまでの人生で これほど満たされた感じを持ったことがないくらい幸せで平安で
しみじみとした嬉しさが 心の底から湧きあがってくる。

そのもとは二つある。

一つは お正月の二日にある。

嫁 娘 三人の女の子の孫それぞれが着物を着て 家族が誰一人欠けることなくお詣り
できた。
娘や嫁は 私の思いなどは想像すらせず かえって面倒に感じたかもしれないが
このように家族が装っての初詣は 皆が皆できることではない。
特別な幸せなこと と言えるだろう。

また その日の夜は 例年にも増して豪華なお正月の食事で それを家族皆で楽しめた。
それも ワインは婿が おせち料理は娘が 日本酒は長男と次男が 蟹は次男が と
テーブルに乗った殆どのものが 自然に子供達が持ち寄ったかたちであったこと。
それに 私達夫婦が家族の数だけのお肉を添えられたこと。
それらを 飲んだり食べたりワイワイ楽しく過ごし 最高の 家族での宴ができたこと。

二日のこれらの出来事だけでも これまでにない至福を感じていたが
更に幸せ感を重ねたのが 昨日だった。

これまでは 個々に大切な人ではあっても私を介してでしか繋がりのなかった
友人二人が 直接会って繋がり 一つのロープになった。
それも 彼女らが初対面であったにもかかわらず ずっと昔からの友人のように
なんの紹介も説明もなしに直ぐに打ち解けたのは 不思議なくらいだった。
その事から湧き上がる嬉しさや幸せ感は これまでの人生では味わったことのない
深いものだった。

正月二日の出来事や昨日の事が 七十年近い私の人生で最高の幸せを感じさせて
くれただけでなく これまで自分の上に起こった様々な辛苦はこのためにあった と
自分の生きてきた道程を初めて自身で肯定でき それらの全てに 素直に感謝できた。

ロープを繋げたい人大切な人は まだある。
この至福感が得られた私の周囲には 支えてくださり見守っていてくださる方が
まだあって その人たちの顔が鮮明に浮かんでくる。


しかし これほどの事が もし私の人生がこれで終わったとしても悔いはない と思える
ような事が 今後やってくるだろうか 。
心が芯から充たされた幸福感を味わうときが これからも私に与えられるだろうか……。

そう想像できないほど それほど幸せなこの上ない始まり方で 私の新しい年が明けた。

夫に家族に 友に 両親に先祖に 来し方に これまでのすべての事に
今は 感謝 感謝があるのみだ。

今朝 約束の時間に ケーキを下げてIさんが来てくださった。

粗茶で一服してもらった後 早速 I さんによる Iちゃんの温熱療法の体験が始まった。

全身に丁寧にかけてもらった Iちゃんは 盛んに 体がポカポカしてる と言って
心地好さそうだった。
ポカポカ感は 高速バスの停留所へ Iさんに送ってもらった後までも続いていて
心地いい と バス停からの電話でも言っていた。

私が話をしていたこともあってか 二人は初対面だったにもかかわらず 古くからの
知り合いのように 施術が済んで お昼にと準備したお好み焼きを焼きながら また
食べながらや食べ終えた後も 話が弾んだ。

生育歴も生きてきた過去も 育った環境も異なる人たちだが 私も含めた三人には
核になっている共通のものが確かにある と思う。

二人を大切に思っている私には それがとても嬉しかった。

温熱療法だけでなく民間療法と呼ばれるものは 人それぞれに合う合わない 好き嫌い
があるから 効果はともかく縁がなければ それで仕方がないが 今日の二人の出会いが
深い縁があっての事だ と思いたいしそうであってほしい。

膝が悪くて 最近では 体が冷えて仕方のない I ちゃんが 私が施術してもらっている
温熱療法を体験したい と昨日やって来た。

今日来て体験する予定だったのを 大雪の予報だったので 天気のよかった昨日来た。
そして今日 いつも私が施術してもらっている I さんに施術してもらう。

療法を気にいるかどうかは人それぞれだから まずは体験してみないことには と
一昨日に引き続いて 快くI さんが引き受けてくださった。

I ちゃんが 夫のお酒のつまみや食材を買い込んで来てくれて 昨夜は寄せ鍋をした。

日本酒なら少し飲める と言うので 喜んだ夫は早速 Iちゃんの分のぐい呑みを出し
二人で鍋をつつきながら チビチビやり始めた。

いつもは一人で黙ってする晩酌が 昨夜は相手があるので夫も嬉しそうだった。
暮れからお正月にかけて飲んだ日本酒やワインのラベルをコレクトしたものを出して
見せたり 昨夜飲んだお酒の銘柄の話をしたり 楽しい夜になった。

亡くなったご主人がビール党で日本酒を好まれなかったからと 夫が話す日本酒についての
拙いうん蓄にも I ちゃんが耳を傾けてくれ 夫は上機嫌だった。

今朝は 十時に I さんが来てくださることになっている。
療法を気に入ってくれればいいのだが。

それになにより 私の大切な友人の二人が お互いに好印象を持ってくれたら と願っている。


最近友人の Iちゃんが 私がやってもらっている温熱療法に興味を寄せている と言った。

体が冷えて 夜中にお風呂に入ることもあるくらいだし 膝も痛むから 温めたらいいかな
って思ってね だから その施術が私にも合うんじゃないかって思うんだけど……

そう言うので いつも施術してもらっている I さんが来てくださる日にあなたも来たら
と 誘ったのが去年の暮れ近い頃だった。

そして 昨日 I さんに来てもらえないかお願いすると 快く承知してくださった。
日にちは 金曜日に となった。
また 友人の I ちゃんの話をしたので 私は私で別に施術してあげるから 明日ではどうか
と 思いもかけないありがたい申し出。I ちゃんを金曜日に施術してあげるから と。
私に否やがあるはずはない。
心苦しくはあったが 甘えてお願いすることに。

お昼頃 私には大好きな焼き芋やら醤油団子やら 夫には珍しいチコリから作ったお酒を
持って 来てくださった。

今回は 年末に片付けたり掃除したりしたので 居間でなく和室でやってもらえた。

今年初めてだったのと ちょうど今日が十日だったから 缶詰の小豆ではあったが
それを使ってぜんざいを即席で作りお餅を焼いて 二人でいただいた。

我が家の玄関内には 未だ松飾りがそのままになっている。
他のお正月飾りは片付けたが これだけは夫でないと始末ができないから仕方がない。

お年越しとお正月用に出した食器や御膳 重箱など 漆器の片付けもまだだ。

何もない例年なら ゆっくり自分のペースで片付けるのだが 今年は 初めから
何や彼やとあって 片付ける時間が持てないでいる。

明後日 I ちゃんが来てもこのままだけど 仕方がないわ。
I さんも 遠慮のない間柄の方達だから 許してもらえるだろう。

Padを使うようになって 今回初めてPadのない生活を二日ほど経験した。
日曜日に叔母宅へ行って テーブルの手が届く位置に置いていたのに 何かの話の時に
叔母が テーブルの端に積んでいた書類や郵便物の中から 必要なものを引っ張り出す時
Padの上にそれらの書類や郵便物を載せてしまっていたから 帰る時 気が付かずに
帰って来てしまったのだった。

日常絶えずPadを使っているから その間何か物足りなくて 心細いような寂しいような
体の周りが寒いような ケソケソした二日だった。

数年前までは Padの存在すら私の生活には必要のないものだ と思っていたのが
便利なものを手に入れてしまうと どのようなものにしてもPadだけでなく その後の
生活は変わってしまい もうもとへは戻れない。

これは 単に私一人のことではない。
大げさに言えば 人類は こうして進歩し進化してきた。

テレビでさえ一般に普及した当時は 目に悪いやら映像が刺激すぎるやら 子供に
悪影響を及ぼすやら 物議をかもしたものだ。

以来 テレビどころではない進化に進化を重ねた子供向けの機器が 発明製造され
続けているが 昨今では 子供にとって機器が良い悪いより 親がどう子供に
それを与えるか使わせるか 使う側の問題だ というのが 世論の多くを占めている
ように思われる。

これは 機器の発明や製造の方が 人間がそれを認知して馴れる速さよりはるかに
上回る速度で進んでいるからだと思う。

若くて柔らかい脳たちは その進化の速度に直ぐに順応して 機器を使いこなせるが
古くて硬くなった脳の持ち主たちは もうこれくらいで十分だ と 人知れず思う。

その最たるものが 私にはこのPadだ。
これさえあれば 家に居ながらにして世界中の様々なことを知ることができるし
様々な場所へ架空ではあるが 行くこともできる。
だから Padに大満足している私には これ以上便利なものなんて考えられないし
要らない。

最近では 読書のほとんどもPadで間に合わせている。
紙の本より安価に居ながらにして購入できる上 場所を取らない かさばらない。
そして 何処へでも すべての本を持ち歩いて 好きな場所で読める。
紙と活字が大好きな私だが この便利さと手軽さを知ってしまうと
どうしても容易な方へ傾いてしまうから 今では購入する本の大半がネット上でだ。

生活のすべてが この小さくて薄い世界の中にある と行っても過言ではない。

それなのに こんなに大切なものを忘れるなんて なんてバカなことをしたものだ と
自分で自分を叱っている。

お骨あげが終わった頃から 高山は激しい雪になった。
お骨あげの後 叔父や従姉妹たちとお寺へ行く予定でいたのを 急遽変えて
帰ることにした。

しかし 激しい雪も清見から荘川辺りまでで 心配だった高鷲から白鳥の辺りへ来ると
ピタリと止んで 路肩の雪さえ消えていた。

人の死 は 突然やってくる。
身近かな親族は それを受け入れることもできないまま 呆然とした中で お通夜や
葬儀に臨まなくてはならない。

だから 不手際や行き届かない事があっても それは仕方がない。
が それでも 日常からかけ離れた事に当たって出来るだけ心を砕くのも 残された家族
の務めだし その気遣いは 親戚の者たちや弔問客には伝わるものだ。

この歳になるまで 幾つもの葬儀に出たからこそ こういう時はこうするものだ
こう動かねば と 我が事にして思うことが多々ある。
それは 知らず知らず人の動きを観察しての結果 感じたり理解したりできる事だろう。

とは言え 何事もその家その家の考えによって違う ことも理解しなければならない。

ともあれ * * 家の叔母の葬儀は 無事済んだ。

新年は 娘の子等の放つエネルギーに引きずられるように明けた。
だからか 今年はこんな年に とか こうなったら とか まったく思わないまま
開けてしまった。

おまけに訃報が入って お正月気分がどこかへ飛んで行ってしまったから
未だに 年頭の願いや目標を考えていない。

そうしているうちに もう七草だ。
女正月 とも 小正月 ともいう今日 改めて じっくり考えてみることにした。

考え始めて直面することは この体の私は 神仏に何を期待されて生かされている
のか ということだ。
この世の中のあらゆる事には 必ず道理があって それで成り立っているのだから
必ず理由や訳があるに違いないのだが もう十年にも余る年月が経つ というのに
未熟な私は 未だにその答えを導き出せずにいる。

夫の両親も私の両親もすでに他界しているし 三人の子供たちも それぞれが
それぞれなりに 社会の中で働く場を得ていて 親としての出る幕は終えている。

一番身近な夫も 私が忙しく仕事をしていた頃から少しずつ 自分の身の周りの事は
自分ですることに慣れてきたし 私の体がこんなになってからは 台所にも立って
カレーやチャーハン程度なら作れるようになっている。
だから もし私がいなくなっても 俄かに困ることもないだろう。

こう考えると 私は家族の役にすら立たなくなっている。

そうすると ますます なんのために生かされているのか 分からなくなる。

唯一の楽しみの書道は 自分のためにだけあるものだし 誰のためにもならない。

自分という人間を どう扱えばいいのか そんなこともわからないでいる私なのだ。

とりあえずはその答えを見つけ出さねば ああしたいこうしたいが出てこない。

お骨あげが終わった頃から 高山は激しい雪になった。
お骨あげの後 叔父や従姉妹たちとお寺へ行く予定でいたのを 急遽変えて
帰ることにした。

しかし 激しい雪も清見から荘川辺りまでで 心配だった高鷲から白鳥の辺りへ来ると
ピタリと止んで 路肩の雪さえ消えていた。

人の死 は 突然やってくる。
身近かな親族は それを受け入れることもできないまま 呆然とした中で お通夜や
葬儀に臨まなくてはならない。

だから 不手際や行き届かない事があっても それは仕方がない。
が それでも 日常からかけ離れた事に当たって出来るだけ心を砕くのも 残された家族
の務めだし その気遣いは 親戚の者たちや弔問客には伝わるものだ。

この歳になるまで 幾つもの葬儀に出たからこそ こういう時はこうするものだ
こう動かねば と 我が事にして思うことが多々ある。
それは 知らず知らず人の動きを観察しての結果 感じたり理解したりできる事だろう。

とは言え 何事もその家その家の考えによって違う ことも理解しなければならない。

ともあれ * * 家の叔母の葬儀は 無事済んだ。

夫は 娘が急いで荷造りした特大荷物を車のトランクに積んで 娘と孫二人を乗せ
駅まで送って行った。

特大荷物は 二十五キロをオーバーしていて 明後日にしか東京へは着かないそうな。
中には 孫が自分のリュックに入れて行きたい と最後まで粘っていた大切なお友達の
ぬいぐるみが二つ入っている。
明日には会えるんだから と言い聞かせて荷物に入れたのに 二晩も無しで過ごすハメに。
聞き分けよく承知すればいいが 娘夫婦が困らなければいいが と案じられる。

次男も 私たち夫婦が家を出るのと同時に家を出て アパートへ帰って行った。

葬儀さえ入らなければ もう二、三日は居られたものを それが残念だが仕方がない。

夫が娘たちを駅まで送って帰り まもなく高山へ向けて出発して来た。
途中雪も降らず 路も路肩以外には積もっていなくて 順調に走ってきた。

ホテルに着いて喪服に着替え お通夜の会場へ。
親戚が少ないから 親族席は空きが多いが 故人が茶道で交流があった方々や
町内の方々など 弔問客は多かった。
私は知らなかったが 文化伝統継承者に認定されていたり 家元から功労をたたえられて
いたり 飛騨で開かれた大きな全国や東海の大会では壇上で講話したり 叔母は かなりの活躍振りだったらしい。
飛騨淡交会の重鎮として 長らく睨みを効かせていたのだろう。
だからこそ 最期でも 難しい茶道の本を入院先のベッドの上で読んでいたのだ。

柩の中の叔母は 生前と変わらない様子のお茶会に行く着物姿で 袱紗袋を枕元に置いて
横たわっていた。
とても享年九十二歳には見えない叔母は 苦しまないで逝ったのだろう 穏やかな顔だった。

これで 母の妹たち三人が皆逝ってしまった。

まだ叔父三人が残っているものの 皆 心臓疾患があったり 目が悪くなったりしていて
健康で歳を重ねている叔父は一人もいない。

ただ 一昨日亡くなった叔母の連れ合いである叔父が 叔母と同じ歳なのに
顔色も良く元気なのが嬉しい。

去年の初冬には 娘と一緒に交互に運転して 車で北海道まで往復して来ている。
九十歳で と 驚かされるばかりだ。

優しく理解ある夫に恵まれた叔母は 幸せだった と言えるだろう。

亡くなる前夜に病室を訪ねた娘に 自分でも 私は幸せ者だ と言っていたそうだ。

明日は本葬。
叔母との別れの日だ。