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水道屋さんが来て 一回の便座も二階の便座も 新しい物に付け替えて行った。

私が知らない間に 付け替えが終わっていた。
昨夜 夫が息子に 工事に立ち会って 代金の支払いもしてくれるよう頼んでいた。

新しいものは やはりいい。
新しい というだけで いい。

寝室に引っ込んでいて気づかなかった私は さっき 初めて使ってみた。が……

二階のは 使う頻度が少ないし 家族以外の人の目に触れることがないから
上蓋が自動であろうが手動での上げ下げであろうが いっこうに構わない。
温水がしっかり作動して 冬場にはお尻が乗る場所が温かくなりさえすれば それでいい。

しかし 一階のトイレまでもが 手動でないと蓋が上がらない便座になっている。
今までのは トイレのドアを開けると 自動で蓋が上がったのに……。

それに リモコンではなく 作動させるボタンが便座の袖に付いている。

ええ〜!これ古いんじゃないのォ〜?

立ち会っていた息子に言うと でも蓋の裏側の表示には ちゃんと今年の製造年が印字
してあるよ だから古くはないよ リモコンを使わない機種なんだよ と言う。

たしかに 表示を見ると 今年製造された機種だ。

でも それじゃあ今までリモコンを取り付けるのに壁にくっつけてあったラック状のものは
どうするの?
壁にそのまま残ってしまっているよ……
剥がそうにも とても手では剥がせない。どうすれば剥がれるのか……。

せっかく新しくなったのに なんだか嬉しさも半減してしまった。

依頼する際に 夫がそういう機種を希望したのだろうか……
ひょっとして ケチったのかもしれないわねぇ〜〜経費を……。

おいおい慣れてはいくだろうが 最初のうちは ちょっと使いづらい。
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二階にあるトイレは 泊まり客がないかぎり 普段は あまり使わない。

夫が 着替えにあがったときや たまたま下のを私が使っているときに 使うくらいだ。

先月のある日 夫が使った後に タンクの脇に 水が少し溜まっているのに気づいた。
手洗いの水が はねてこぼれたにしては おかしかったらしい。

工具を持って何かいじる事が大好きな夫は すぐさま工具箱を持って上がり
どこからか漏れているのでは と あちこちなぶってみたようだ。

こういう場合 放っておくと 夫はだんだんこうじてきて 傷んだ箇所をより傷めて
しまったりすることがある。

出勤前だったこともあって これ以上は夫の手にはおえないらしい と思える頃合いに
水道屋さん呼んだら?仕事に遅れるし と さりげなく言うと 夫もあきらめて
修繕を頼んだ。

要は 温水暖房便座の 水道とつないでいる管のどこかが悪くなっての水漏れらしい。

家を建てて三十五年も経った。
これまでにも お風呂のボイラーが悪くなって 替たりしてきた。

使用頻度の多い一階のトイレも 前に替えた便座のリモコンの調子がおかしくなってきた。

それで 二階のトイレは 修繕を頼むよりいっそ便座ごと新しくすれば つなぐ管も新しく
できるし それに この際だから と 一階の便座も一緒に替えることにした。
そうすれば リモコンも新しくなる。
便器ごと替える とも考えたが そうすると大ごとになるし 今のところそこまでは必要ない。

ところが 水道屋さんは 台風の被害で沢山の修理や修繕の依頼を受けていて
我が家のような軽微な修繕をするまでには 日にちがかかるがいいか と言われた。

つい先ごろの台風で 我が家の狭い周辺こそ無事だったものの 市内も周辺の市も
かなりの打撃を受けていたから インフラの工事屋さんは 大忙しなのだそうだ。

待つことおよそひと月半 ようやく我が家の番がきたらしく 昨日 夫に連絡があって
今日 午前中に来てくれることになった。

これまで 水栓を止めて専ら下のトイレだけを使ってきたが 息子が帰って来てからは
一時的にしろ三人家族になり トイレが一つだけでは 不便さを感じていた。

トイレが悪くなり 私が動けなくなり……

人も物も 年とともに「変化する」のが自然なのだから「加齢」や「老化」を
マイナスのイメージで捉えてはいけない と 何かで読んだか聞いたかしたことがあるが
どれだけ明るく考えようとしても 経年による老化や加齢からは 次第に フレッシュ さ
から遠ざかるイメージしか浮かんでこない。

ただ 救いなのは 経験や体験から培われたモノは確実にある といえることだろう。
しかし それだって 体が動かなくてはどうしようもない というものだ。

「女房や畳」だけではなく「世の中のものすべて」は 新しいほうが断然いいに決まっている。

月の大半をベッドの上で安静に過ごしたおかげで 痛みはずいぶんマシになってきた。

今日は 午後から 大学病院の予約が入っている。

洗濯して洗濯物を干す事もできるようになったし お米を研いで炊けるようにもなった。

でも しばらくすると痛みが戻って 長く立ってはいられない。

脚が弱るから と思っても 痛みが先にたってしまう。

来月半ばまでには なんとしても 外出しての歩行が普通にできるようにならなくては!

昨日とった予約の時間に 腰椎の手術後に作った 胸から骨盤まである頑丈なコルセット
を着けて 麻酔科へ行った。

コルセットは 家にいて 食事や何かで起きて動く際にも 必ず着けている。
着けると 多少は楽な気がする。

受付を済ませて待ち合いのソファに座っていると 処置室から看護師が出て来て
診察の順番まで ベッドで横になっていたら? と 言ってくれたので 中へ入って
寝て 診察を待つことができた。

今日の医師との話し合いで 前回の受診後 医師の指示通りに 安静にしていたことや
その結果徐々に 多少ではあるが 痛みは軽減する方向にあること など 今の状態を
話した。

医師は 安静にしていれば薄らいでいく痛みならば 今のところ骨折もしていないのだから
今後 これまで以上に 重い物を持たない下げない 腰を曲げたりかがんだりひねったり
もしない 長時間立たない など とにかく腰へ負担をかけないよう気をつけて生活すれば
まだ手術はしないでいいでしょう 前回の神経根ブロックが効き過ぎくらい効いたせいで
動き過ぎた事も 今回 腰へ負担をかけてしまった一因 ということも考えられる。
その神経根ブロックの効き目が薄れてきたことで 余計に痛みが増している とも考えられる
から 年内にもう一度 神経根ブロックをしましょう。

と言われた。

確かに 二年前と比べて状態は悪くなってはいるが レントゲン検査でも骨折はしていない。

負荷をかけないよう気をつけて生活し また 痛みが出ても安静にさえしていれば
骨自体の痛みは 何とか収まるが 神経の痛みは そうはいかない。
安静を保っても とても収まるものではない。
ならば 骨は現状を保つよう気をつけて暮らすことで痛みの発症を出来るだけ防ぐ。
そうすれば金属やボルトを入れないで済むから ブログの針が入る。
針が今まで通り入るなら ブロックを繰り返すことは可能だ。
そうすれば 神経の痛みは緩和できる。

そう考えて 医師の言葉に同意した。

とにかくは 今の痛みをなくすのが先決だ。多少楽になったからといって 無理はしないで
おこう。

トリガーの後 点滴を受けながら そう思った。



先週の診察時に 痛みが収まらなかったら また来週も来た方がいい その際は 予約を
とってから来た方がいい とって言われた。

一週間経っても はかばかしい変化がなく 依然として変わらない痛みがある。

だから 手術後に作った胸から骨盤までをすっぽり保護するコルセットを 起きている時は
ずっと装着している。
それでも痛みを感じている。

それで 今後のことを相談するためと 痛み止めのトリガーや点滴をしてもらうために
明日 十一時の予約を取った。

足の神経の痛みも もちろんどうにかしてほしいが とにかく今は この腰の痛みを
緩和しないことには どうしようもない。

明日 どういう話になるか……
医師はやっぱり 腰の手術回避の方向を勧めるか……

私自身の気持ちも まだ決まっていない。

どうしたものか……。

連日 ベッドで過ごすのは いくら怠け者の私でも嫌になる。

それも ただ怠けてでなく 体の位置を変えるのでさえ伴う強い痛みと一緒なのだから
始末が悪い。

ベッドに横になって本を読めるいい口実の痛みだが 今回ばかりは その度合いをはるかに
超えた痛みだから 本も集中して読めない。

この状態になってから もう何日も経ったが いっこうに痛みが収まらないのが気にかかる。
予約日ではないが 来週の火曜日 もう一度大学病院の麻酔科を受診してみようと思う。
医師にも もし収まらなければ来るように と言われている。

昨日 I さんが わざわざ 穫れたさつま芋を持って来てくれたが 私の様子から 声をかけずに
そっと玄関先に置いて帰って行かれた。

お店で売られているような とてもきれいな形のさつま芋だ。

こうして 気にかけてもらえる 心配りしてもらえると 痛む中 一人で寝ている心細さを
そっとすくい上げてもらったようで 嬉しかった。

日頃 痛みになんか負けるものか と 気丈に暮らしているつもりでいても こうも痛みが
強いと そんな気持ちも萎えてくる。

いつかはこんな状態が収まって 動けるようになる!
そう自分を励まし 思い直さねば!

(この場合 痛みが治まる のと 今置かれている状況が収まる のとの どちらの意味合いが
より強いのか ならば どちらのオサマルを遣うべきか……迷う。日本語は難しい。)

中学二年半ばで実家がある町内の三校が統合され 生徒は山腹に新しく建築された校舎へ
通い始めた。

団塊の世代真っ只中の私たちだったから クラスも生徒数も多かった。

新たに編成されたクラスは そのまま卒業までのおよそ一年半 担任は変わっても
メンバーは変わらなかった。

時代がそうだったからか それぞれのクラス内の団結は強く 何かというと
クラス対抗になり クラス旗を掲げて競い合った。

中でも 私たちのクラスは 群をぬいて結束が固く 男女の区別なく仲が良かった。

その仲は 卒業して五十五年経った現在までも変わらず続き 地元にいるメンバーの骨折りで
毎年クラス会が開かれてきた。

子育てや父母にかかわり忙しくしていた時期は 出席したくてもままならなかったし
体を悪くしてからも その時の体調次第で 出たり出なかったりの私だが そんな私にも
毎年忘れず 案内を送ってくれる。

還暦の年は 学年全体で 京都への一泊旅行だったが 腰を痛めていた私は 残念ながら
大学病院に入院していて 参加できなかった。

後に 月に一回通院しているというクラスメイトが 旅の模様を知りたいだろうから と
わざわざ 旅に当たって配布された印刷物や写真などをコピーして持参し 病室を
訪ねてくれたりもした。

痛みに押しつぶされそうになっていた当時 自身も点滴をしながら ガラガラと点滴棒を
引っ張って病室まで来てくれた友の姿と気持ちが どれほどありがたかったことか。

そんな 気持ちのいい 人柄のいい友ばかりの集まりだから クラス会の案内が送られて
来るのを 毎年心待ちにしている私だ。

そして 今年も先日 会の案内状が届いた。

今年は 古希を祝っての 熱田神宮参拝や復元された名古屋城本丸拝観などを盛り込んだ
一泊旅行だという。
七十という歳を迎えた仲間に合った いいコースを考えてくれた。

なのに どうしてこうも間の悪い時にばかり 痛みに居座られるのか……

この分では また今年も出席は無理だろう……。

幹事の面々の顔が浮かんでくる。
何度も集まって 案を練ってくれただろうに……
一人でも多く参加してくれたら と思いながら 案内状を送ってくれたのだろうに……
欠席 と 丸して返信するのが ためらわれる……。

しかし 会が開かれるころには 体がどうなっているか分からない。
この調子では もしかしたら 手術もあり得る。
冬に入っての旅だから 足や腰にとって よくはないだろう。

仕方がない 諦める。

みんなに会いたい気持ちを抑えて 未練たらしくしないで 欠席 に印して
返信するよりないだろう。

今朝 とにかく痛みをこらえて 大学病院へ行った。
片手にコロコロのついたバッグ 片手に杖 バッグのサイドポケットには予備の杖を入れて。

なんでもない時には 家への出入りは車庫側から 二段の段差を上り下りしているが 昨日今日
は それもできず スロープを歩いて門扉側から出入りしている。

病院では いつもは表玄関に横づけしてもらい降りるが 今日は少しでも歩く歩数を
少なくしたくて 車椅子使用者やベッドで運ばれる患者のためにある 少し奥まった所へ
車を入れてもらった。

降りるにも歩くにも 痛い。一歩一歩に痛みがはしる。

常なら エントランスからホールのエスカレター 降りて二十歩ぐらいのカウンター へと
杖をついてはいても スムーズにたどり着ける。

ところが 今日は エスカレーターまで カウンターまでの長いこと長いこと!

痛むから どうしても早くは歩みが進まない。自分でも可笑しいくらい時間がかかる。
受付が済んで麻酔科の前の待合へ行くまでが これもまた遠い遠い! 痛い痛い!

こんななら 車を降りた時に たくさん並べてあったのだから 車椅子を借りて ボランティアの
人に押してもらえばよかった。

かといって 麻酔科を目の前にして 今更どうにもならず 待合へどうにかたどり着いた。

呼ばれて診察室に入り ことの訳を話すと レントゲンを撮って状態を診ましょう と言われて
また一階の放射線科へ。

なんとか戻って しんどかった痛かった遠かった と看護師に言うと ごめんなさい車椅子で
行けばよかったですねえ と言ってくれたが 後の祭りで なんの役にも立たない。

レントゲンは直ぐに検査結果が出た。

この度の痛みは神経でなく腰そのものからきていることは 痛み具合から 自分でも
予想していたが 医師の話はそれを裏付けるものだった。

腰椎の手術をした際 周辺の筋肉が 同年齢の女性のそれと比べて強靭だったために
普通なら金属やボルトで骨を固定するところを 痛みを逃すよう骨を削っただけだった。

だから今の痛みは 要するにその時にあった筋肉が 手術以後から現在に至るまでに
なくなってきて 骨を支えきれなくなってきての事だった。

そりゃあそうだろう。
手術してから十年は経っているのだ。
その間 神経の痛みで 満足な動きすらできないで過ごしてきたのだ。

いくら 調子がいい といっても そんな時でさえ 最高に歩いて五千歩がリミットだった。
それも そんな時は ごくごく稀だったのだから 筋肉が落ちても当たり前。
おまけに加齢もあるだろう。

骨の痛みは その手術でかなり軽減するだろうが 問題は神経の痛みだ。
こちらが解決しない限り 死ぬまで激痛や痙攣はある。

ボルトを入れないまま 神経ブロックを繰り返していくか……
いっそ 金属を入れて骨の痛みだけに対処するか……

とてもできそうにない二者択一の問題に直面することになってしまった。

なぜなら 金属を入れてボルトで固定してしまうと 今度ブロックの際に針を入れるのが
難しくなってしまうのだ。

これは 医師の手術に関しての説明の後 私から問うたことへの 医師の答えだ。

この手術は腰椎の痛みのための手術ですよね この手術の後も 今までのように
神経の痛みを緩和するブロック手術はしてもらえるのですか?

そう質問した私に 聞かれるだろうと予期していたかのように 医師は
少し苦笑いを浮かべながら 答えてくれたのだった。

だから医師も 絶対に金属を入れる手術をせよ とは言えないのだ。
手術となると それは整形外科の分野であり 以後はそちらへ転科して診てもらう
ことになるのだろう。

すると 神経の方はどうしたらいいのか……
神経の激痛や強い痙攣に どう対処したらいいのか……

悩ましい問題に当たってしまった。

昨日からずっと 腰の痛みが激しい。
だから 昨日も今日も おおかたベッドに横になっている。

寝返りも 体の向きを変えるにも ちょっと前へ上体を傾け足りて後ろへやったりするのさえ
激痛が走る。

一昨日の夕方近く 夕飯の準備をしていて ギクッときた。
それから激痛が始まった。

なんとか整形外科へ連れて行ってもらい 注射と点滴 リハビリをしたが
歩いて車に乗るのも 医院に着いてから歩くのも 一苦労だ。

杖をついても痛みは変わらないし いつもより足が動かなくて不安定だから
予備にと買ってあった杖を出して 両手でつき なんとか歩く有様だ。

やっとこさっとこ車に乗ってもタイヤがゴトゴトするたびに 腰に響いて激しい痛みがくる。
道は舗装されているし 普段ならこんなには響かないのに 痛い。

これだけ痛みが激しいと ご飯も食べたくない。
夫に 直ぐ食べられる物 自分たちが食べたい物をみつくろって買って来てもらった。

明日は大学病院の受診日だから なんとしても行って診察を受けねばならない。


午後の三時半ごろ とうとう我が家に新しい洗濯機が!

朝 今使っている洗濯機で最後の洗濯。

十四年間よく頑張ってくれたわね 無理に詰め込んで洗濯させたこともあったのにね。
それでもあなたは止まることなく 汚れ物をきれいにしてくれました。

あなたが家へ来たのは 前の仲間のフタを 亡父が壊して 閉まらなくなったからでした。
それも長男に第二子が産まれる直前のことで オッパイの匂いのする小さな産着やタオルを
直ぐにも洗い始める羽目になってしまったわね 四十日間もね。

十年前からは 畑仕事の野良着も加わって 汗だくのシャツやズボンを洗ってくれました。

毎日毎日 時には日に何度も働いてくれました。
平均寿命の八年を越えて よく十四年間も動いてくれたわ ありがとう。

電気屋さんに引き取られて行ったあなたは それからどうなるのでしょう。

行く末を想うと なんだかちょっとかわいそうで…悲しくなってしまいます。

頑張り屋さんだったあなたから新顔さんに わたしのようによく働くのよ って言ってね。

この屋のお母さんも 新入りさんと どっちが長く頑張れるか 競争するわ。

できればお母さんより長生きして お父さんの面倒も見てあげてほしいと思ってるの。

さア 明日の朝から共同作業が始まるわよ!よろしくね!
仲良くやりましょうね!



昨日午後 病院へ行くと 叔母は すでに荷物をまとめ病衣を着替えて 椅子に座っていた。
そして 私の顔を見るなり もう 待ちくたびれたぁ と 笑いながら言った。

なにしろテレビも活字も見られないから 退屈で 時間をもてあましてしまうらしい。
それで 早くから荷物をまとめにかかったようだ。

叔母は 日頃 身の回りの物すべて なかなか片付けられない人なので これまでの入院も
そうだったが いざ入院に際して病院へ持っていく物を荷作りするとなると あれも要る
これも要る あれも必要になるかもこれも それならやっぱりこれも必要だわ となり
荷物が出来上がってみると ええッ⁉︎どうしてこんなにたくさん⁉︎ とびっくりするほどの
大荷物になる。

今回も入院前に電話で話した時には たった四日のことだし 病衣もタオル類も借りるから
持って行く物は下着の替えくらいしかないわ と言っていた。

たしかに あらかじめ頼んであるコースには 病衣やタオルの他に ティッシュや歯磨き
ウエットティッシュやブラシなども含まれているし 術後は洗顔もできないから
洗面用具も要らない。

叔父が亡くなってからの三年で 叔母は 四回病院へ入り一度横すべりで高額施設へ入った。
だから電話で話した時には さすがに入院馴れしてしてきたか と 思った。

ところが やっぱり今回も 迎えに行くと大荷物だった。
旅行用のキャリーバッグに大きなバッグが三つ。

でも使ったのは キャリーバッグに至っては開けもせずに持ち帰ったし 三つのバッグからも
机上に出したのは 持参した薬と術後にかけるメガネだけ。
小さな冷蔵庫に飲み物やお菓子類を入れれば それで必要なものはすべてだった。

お見舞に来た人からも どうしてこんなにたくさんの荷物を⁉︎と呆れられていたが
それに対して叔母は だから旅行は大嫌いなのよ 荷作りができなくて行く前に疲れちゃう
から と答えていた。
入院荷物どころか一泊の旅行でさえ大荷物になってしまうらしく 一緒したことのある友人
は うなづいていた。

人はそれぞれ性格が違うが えてして なかなか考えのまとまらない人や心配性の人は
こうした荷作りは苦手らしい。
そのかわり 人も物も切り捨てることができないぶん 気が良くて情にあつい。

叔母にしてもそうだ。
だからこそ 私たち夫婦も 知らん顔ができないのだろう。

ともあれ 笑顔で退院できて 本当によかった。

常に腰が痛み 足が細かく痙攣していても 内蔵が丈夫 風邪をひかない ことは
とてもありがたい。

私にとって 腰痛と爆弾のような左足は常のことだから もちろん強弱はあるが
それでもってどうだ ということには よほどのことでない限り ない! ことにしている。

だから 叔母のこの度の入院騒動も 大変大変! とは思わない。
日常起こりうることに一つ ぐらいの出来事だ。

だから動ける 動く!

だから 午後は病院へ行き 夫と合流して 叔母を退院させ 家まで送る。

昨日 叔母を迎えに行く前 荷物が宅配された。

休職して療養している息子に食べさせてあげて と友人が送ってくれた果物だった。

休職して家へ帰って来て以来 食事にはお肉や魚より野菜がいい と言っている息子には
ありがたいことだ。

叔母の家へ向かう前 お昼が野菜と卵のサンドイッチだったから 息子にはあまりお腹の持ちは
よくないらしく 二階から降りて来たから 私たちが留守にする間 早速いただいた果物を
どれでも食べていてね と言い置いて家を出た。

家の中ばかりにいると どうしても手持ち無沙汰になるから 口淋しくなり ついつい間食に
手が伸びてしまう。
間食は お菓子やスナック パンなどの炭水化物 甘い物が多くなりがちだ。
だから 果物なら果糖はあってもエネルギーは低いから
こうして私たちが家を留守にして一人の時の間食は果物が一番いい。


昨日は 私たち夫婦は病院の夕ご飯が配膳されるまで病室にいて 帰って来た。
血圧も高くなって不安げな叔母を 個室に一人にして帰っては来られなかった。

そして今日 十時からの手術の前に病院へ行き 夕ご飯の配膳がされるまで付き添っていた。

事前に受けた医師の説明では 角膜がいびつに癒着しているから それをきれいに剥がすのが
難しい しかも 通常の白内障の術後のように見えるようにはならないかもしれない という
ことだったが 手術室からは たったの二十分も経たずに戻ってきた。

手術に当たっての麻酔は点眼薬だったし なんだかわからないうちに済んでしまって
叔母は 術後ベッドに横になりながらも ホントに済んだの?手術したの?
見たら状態が悪かったからやらなかったんじゃない? とまで言って 信じられない
様子だった。

もともと春からの目の治療で 病院に不信感があるから 無理もないが
確実に手術はされた。
その証拠に 夕方までには 立ち会った医師が来て様子を見 その後 夕食前には執刀医が
病室を訪ね 無事に済んでよかったね と 声をかけてみえた。

それでようやく叔母も安堵したらしく 医師に笑顔で答えていた。

どれだけ見えるか は まだ数日しないと分からないが おそらくは 案ずることはないだろう

大丈夫だから と 手術前には なだめながらいたが その通りの結果になったようで
安心して帰宅した。

今夜こそは 叔母もぐっすり眠れるだろう。


高速道路工事が始まってからというもの すぐ近くの山の木が切られたり 山自体が
削られたり 建造の騒音だったりで 小鳥の声どころかカラスやトンビさえ 鳴き声が
聞こえなくなっている。

それなのに キジバトだけがよく鳴くのはどうしてだろう。
ドテッポッポー ドテッポッポー と 低い独特の含み声が すぐ近くで聞こえる。

今も ひとしきり鳴いて どこかへ消えた。

今朝は「秋晴れ」の見本のような 清々しい朝だ。

午後から 大丈夫かしら と不安を抱えながら 目の手術のために入院する叔母にとって
この澄んだ空の天気は 少しは気持ちを明るくしてくれるだろう。

夫と一時半に迎えに行き その後は 手術後おそらく夕食が済む頃までは 私が付き添うことに
なるだろう。

春以来 思いもかけない角膜の傷や菌での通院や点眼 消えない菌での痛みに振り回されての入院
挙句 白内障は重くなるは おまけに角膜が癒着してしまって 物が歪んで見えにくかったり
一部が見えなくなってしまうは で 叔母にとって 今年は 目の厄年になってしまった。

医師に 角膜が癒着しているからそれを剥がすのが難しい 通常の白内障の術後の患者のようには
見えるようにはならないかもしれない と 説明会ではっきり言われてもいる。

だから 叔母でなくても 今回の手術は 不安材料がいっぱいだ。
見えなくなる なんてことにはならないだろうが どれだけ視力が回復するか は 分からない。

ここまでくれば 身内も同然の叔母だ。
他人の身を案ずるより より心配なことも抱えてはいるが ともかく今日の日は 叔母に付き添い
過ごそうと思う。

お気楽そうに ドテッポッポー!と鳴くあのキジバトのように 今日一日は 他のことは考えずにおこう。

あのキジバトだって すみかを追われ仕方なく鳴いて憂さを晴らしているのかも知れないが……。


来年 誕生日を迎える私に 県の公安委員会から 「運転免許証の更新に必要な高齢者講習の
お知らせ」がきた。

更新期間が満了する日に 七十歳から七十四歳の人は 免許の更新前に 高齢者講習を受ける
ことが 法で義務付けられている。

この講習を受けるには まず自動車学校などに電話して 高齢者講習を受ける日にちの予約を
しておいて その当日 講習を受ける。

講習を受けると 高齢者講習終了証明書が発行されるので 免許の更新まで保管しておき
誕生日の前後一ヶ月以内に 更新の手続きをして更新が完了。

送られてきた案内には 以上のことが細かく指示されている。
そして 案内状の下側に囲みがあって 「免許証の自主返納と運転経歴証明書」について
書いてある。

ここまで長々と説明を書いたのは 自分の心を整理するためだ。

父を引き取って世話するようになって 日中病院へ駆けこまなければならない事が
たびたび起きてきた。

昔 人生で一番幸せな時期に 二度も交通事故にあった。
その時 単に交通事故で体が傷ついただけでなく その何倍も心が深く傷つくことが
あって 地球上に運転免許を持たない人間が私一人になっても 絶対に免許は持たない
と 決めた。

以来 どれだけ周囲の人が取っても持っていても 羨ましいとも取りたいとも思わずに
暮らしてきた。

ところが 五十を過ぎるころになって父を引き取ると そうもいかなくなってきた。
それで これは免許を取るよりしょうがない と思いを変え 自動車学校へ通った。

入校前には 歳の数だけ万札が要る と聞かされていたものの 幸い大学生と同じだけの
費用で取得できたが 仮免許と本免許の路上運転試験の際は 車から降りた時には
手が震えていた。
それまでの人生で あれほど震えたのは初めてだった。

受講の時間を決めるのも 父の状態やデイサービスに出かける時間に合わせなくては
ならず それが一番の苦労だった。

そんな思いをして取得した免許だったから 本当は もう十年も前に 痛みが出て
手術を受け投薬が始まった時 医師から 車の運転は禁止する 運転はしない 旨の
書類を渡され 署名捺印して提出していた。

それ以来 ハンドルには触っていない。

だから この件については もうとっくに気持ちの整理がついている はずだった。

ところが いざ葉書がきてみると 少し揺れる自分がいる。

その奥には どんな感情があるのか 自分でも戸惑う。

でも 免許の更新期間内には警察署へ行き 免許証を返納するつもりではいる。

持っていても 使うことのない免許証なのだから……。

幼い頃 実家には まだなつめの木がなかった。

それでも 秋になると親戚のあちこちから実をいただいたから 母はそれを蜜煮にした。

飛騨の古い家では 一年が終わりを迎える頃 報恩講が営まれる。
秋に蜜煮にされたなつめは その報恩講に出される料理の一品にもなって膳に載っていたが
報恩講自体 今では営む家が少なくなってしまった。

煮たものより 断然 生で食べるのが好きな私は 母が煮る前に慌てて 食べる分だけを
取りよけて別にし 一人でカリカリとかじって食べては種の山を作り 笑われた。

それほど好きななつめだから 店先で見かけても 直ぐに欲しくなってしまう。

日曜日ごとに高山へ 一人で習い事に通っていた小学生の私は 九歳か十歳だった年の秋
稽古帰りに 師の家からも遠くなかった陣屋前の朝市で 大きな袋に入れて売られていた
なつめを見つけた。

おとなしく引っ込み思案で 学校では手も挙げられなかった私だったが 一人で 家から
汽車に乗って通うようになると 習い事の帰りには 用もないのに街中をブラブラと歩き
時にはソフトクリームやみだらし団子 大判焼きなどを買い食いしたり 時には堂々と
お店へ入って中華そばを食べたりするようになった。

そのころは時代もよかったのか そんな子どもの私を 見とがめたり叱ったりするお店も
人もいなくて 今思えば おかしな小学生なのだが 習い事が主なのかそれが楽しいのか
わからない 日曜ごとの高山行きだった。

そんな年の秋 師の家から遠くない陣屋前の朝市で 大きな袋にいっぱいに入れられて
売られているなつめを見つけた。

山に積まれた茶褐色の実を見て もう欲しくて仕方がなくなった私は 持っていた
お小遣いを全部はたいて買い 重い袋をえっちらおっちら持ち帰った。

陣屋前から駅まで駅から家まで 小さな子が休み休み大きな袋を持って歩く姿を想うと
今でも可笑しくなるし たどり着いた家で 父や母に呆れられたことを覚えている。

畑のすみになつめの木が植わったのはその後だったから 両親はそれについては何も
語らなかったが おそらくは そうまでしても食べたい私を思ってのことだったには
違いない。

その故郷の 今年も枝をしならせて実をつけただろうなつめの木が あのころの父母
との暮らしが むしょうに恋しい。


我が家には なつめの木が 二本ある。

なつめは 飛騨人なら誰でも知っている木だ。

緑色から次第に茶褐色になる実は小さくて りんごに似て甘酸っぱく 秋に鈴なりに成る。

故郷の味が恋しくて 実家の木から出た小さな苗木を持ってきて植えたのは ずっとずっと前だ。
その木は 今では幹も太くなり 毎年秋になると 枝をしならせてたくさんの実をつける。
それで 何年も前に苗木の一本を畑へ持って行き植えた。
その木も 今では太く大きくなっている。
また 一本は庭に植えたが 元々生命力の強い木で 庭のあちこちから子供が出るようになって
他の植物のために良くないと 株ごと掘り起こして なくしてしまった。

寝室の窓から見える元々の木は 年数を経た今もなお 思ってもいない数メートルも離れた所
にまで おそらくは根っこが延びてだろう 若緑の葉とトゲを持った苗木を生やす。
トゲで足を傷つけてしまうので 生えてくるたびに小さいうちに切っている。

その私の大好きななつめの実が せっかくたくさん成っていたのに この前の二つの台風で
おおかた落ちてしまった。

実るのを楽しみにしていたのに 青いまま強い風に落とされてしまったのが悲しくて残念で
ガックリしていた。

ところがところが 三日ほど前 高山の友人から 夏の間は猛暑で成らなかった小茄子が
最近成り出してそれを漬けたから送ってあげる と電話があった。
そして なつめはどぉお? と言う。

彼女は ご主人と一緒に 何度か干し柿用の柿を畑へちぎりに来たことがあって 畑になつめ
の木があるのを知っている。
だから どぉお? と聞いてくれたのだった。

よくぞ聞いてくださった!!

あのねえ それがねえ〜この前の台風でねえ……全部落ちちゃったのよォ〜!……

と説明すると それなら なつめも一緒に送ってあげる と言ってくれた。

嬉しい!嬉しい!ありがたい!
今年はもう食べられない と諦めていたなつめが食べられる!

送ってもらったなつめは まだ青い色の実が多かったが それは蜜煮にして別の楽しみに。

さっそくポリポリポリと茶色の実をかじりながら 故郷の実家の畑の木も 今ごろは実を
つけているだろうか……と想う。

想いをめぐらしながら つまむ指と口が止まらない……。

21号台風より威力がある というので これまでしたことがなかったが マスキングテープを
雨戸がないガラス窓に貼るなどして 24号台風に備えていたが ありがたいことに この地域
は大きな被害もなく 無事に通り過ぎていった。

今夜 夕食の後 面白いテレビ番組がないか探すと ワイルドライフ という番組で
オオサンショウウオ を撮影したものを放送する と番組表にあった。

興味があって一時間の放送を観た。

なぜ興味があったかというと 子供のころ育った土地には 山から大きな川に流れ込む谷川が
いくつもあったが そのうちの一つが本家の山を流れ落ちる小さな谷川だった。

深い谷だし 魚や釣りに興味のなかった私は行ったことはなかったが 弟や従兄弟たちは 時々
連れ立って その谷へ遊びに行っていた。

その谷に サンショウウオが生息していた。

そのころはまだ天然記念物に指定されていたのかどうかわからないが 弟は そこで見つけた
小さなサンショウウオを捕まえて来たりしていた。

また 本家の伯父は 病弱だった伯母に飲ませるために サンショウウオを捕って来て
竹串に刺し それを囲炉裏の灰に指して 燻していた。

時々行く本家の囲炉裏に ぐるりとその串が 火を囲むようにして指してあったことを
覚えている。

居間は薄暗くて 薪が烟った煙がモヤのようになって漂っていた。

そんな思い出が サンショウウオにあったから 今夜の番組も観たいと思った。

番組の中では 子供の頃はもちろん この歳になっても知らなかったサンショウウオ
の生態が 水中に設置された数台のカメラで映し出されて 面白かった。

そして 大きな体に短い手足 丸くて小さな指先で 水中を動く様子は グロテスクな姿
なのに どこかユーモラスでもあり可愛かった。

子どもの頃に見たあのサンショウウオも ああして生きていたのだ と思うと
当時天然記念物であったかどうかもわからないが 複雑な感慨があった。

イケダニ という故郷のその谷が 今どうなっているのか 知らない。
その谷に 今もサンショウウオが生きている とは 聞いたことがない。

清い流水でしか生きられない生き物だから おそらく 今はもう生きてはいないだろう。

でも 日本には こうして命をつないで生きている場所がある。

テレビを面白く観ながら どうかこれからも 長く命がつながっていく場所が
失われませんように と 思った。

昨日 夫と一緒に帰って来た時には アラ?
いつもと変わらないじゃない?単に会社が嫌で辞めたいだけなのかも……

と一瞬思ったほど いつもの帰省と変わらない息子に見えた。
夫と共に日本酒を飲み テレビを観 私とも冗談交じりに会話を交わした。

そうなるのがいつものパターンだから 夫が息子の所へ行っているうちに 日本酒を飲みながら
食べられるようにと 早くからおでんの準備をして煮込んでおいた。

そのおでんの中でも じっくり煮込んで味のしみた大根やこんにゃくを息子は喜んで
何度もお代わりして食べた。

そんなふうで 息子の様子は落ち着いていて 昨夜は よかった。

私は よかったわ思っていたより元気みたいで と 夫に言うと 夫も同じ思いだったようで
見かけは体だけの問題に見えるよなあ…… と言っていた。

でも お盆に帰省した時には 五月の連休に帰って来た時より ずいぶん体重が減っていたが
昨日玄関へ入って来た息子は もっと痩せていて 丸かった顔が 長くなっていた。

だから 辛い日を過ごして来ただろうことは確かに伺われて 痛々しい思いだった。

今日になって 午前中からお昼過ぎくらいまでは 様子に変わりなく落ち着いた様子だったが
午後になって 自分からアパートの退室届を書いて それをファックスで管理会社へ送ったり
明日は会社と疾病手当などの件で連絡を取らなくてはならない など夫と話したりしている
うちに 次第に顔つきや顔色が変わってきて 頭が痛いから寝る と 二階の自室へ上がって
行った。

そんな息子の後ろ姿を居間で見送ると 夫が やっぱり普通じゃないんだなあ……と ボソッと
言った。

十月いっぱいでアパートを明け渡す と決まったから 早晩 仕事先も辞めることになるだろう。

その先がどうなるか 今はまったく光が見えない。

でも どんなことになろうと 夫と私は彼の親だ。
しっかりサポートしてあげたい。