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今日は 三ヶ月会っていなかった友人と会った。

私は私で体調が悪かったり 彼女は彼女で家庭の事情だったり彼女自身の体調が悪かったり
会いたいという気持ちはつのっても なかなか会えなかった。

迎えに来てくれた彼女はいつもの彼女で 三ヶ月も会っていなかったことなどあっという間に
吹き飛んで 入ったパン喫茶で話し込み 十一時前から気づいたら午後一時半過ぎまでいた。

場所を変えてランチを と思っても おそらくはどのお店のランチの時間にもギリギリの時刻
になっているので 手っ取り早く入れる近場のお寿司屋へ行き お寿司のランチになった。

またここでも 食べたり話しているうちに午後三時を回ってしまい 慌ててお店を出た。

その後 二人でよく行く喫茶店に入り また話す話す よくこんなに話すことがあると思うほど
話し込み なんと時計は六時を過ぎるまで話していた。

彼女と会って話すとストレスがかからないから また百パーセント気を許して話せるから
こんなにも長く話していても その時間が短く感じるのだろう。

それに こんなに長い時間話していられたのは 痛み止めの新薬のおかげでもあった。

今朝は 強い副作用を案じてダリージェを一錠半にして他の薬と一緒に飲み 夫を送り出した後
一時間ほど寝た。

起きてみると 昨夜のようなことはない。
でも両足はひどく気持ちが悪く 強い締めつけるようなしびれがあり 特に左足の裏は鉄板を
貼りつけているような感覚が 相変わらずある。

しかし しかし 腰の痛みが劇的に緩和しているのも確かな事実。
そしてそれがずっと会っているうち中続いたからこそ こんなに長時間座っていられたのだ。

彼女は 私を見て 前に会ったときと比べて変わっていなくて顔色もいい と言ってくれたが
それは多分 腰の痛みが軽いから 顔つきや表情が明るかったからだろう。

痛みは 人格を変える と言われるほど 精神状態に強い影響を与える。

タリージェが腰の痛みをしっかり抑える とはいえ 副作用が強くて 体の他の部分が
ことに脳や血液の流れに悪い作用を与えては 残念だが 服用をやめざるを得なくなる。

今夜は一錠にしておいた。
それでも 頭が後ろへ引っ張られるようで 頭自体も重くて鈍痛がある。

このまま一錠だけでも服用し続けて大丈夫なものかどうか 血圧も少し高くなっている。

明後日 かかりつけの内科医院を受診して訳を説明し 相談するつもりでいる。

副作用さえなければ こんなによく効く薬なのに 本当に残念だ。


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昨日はまた大学病院受診。

予約患者数千三百七十一人。
相も変わらず すごい数だ。

その中の一人になって診察を受けた。

来月十二日に予約してある神経根ブロックの話と その後の様子を観てのことに
なる 次の手段としての機器を体内に埋め込む療法について 詳しい説明があった。

現在ではこの 機器を体内に埋め込んで 外部からそれをコントロールして
背骨に信号を送り 脳が出す痛みの神経を緩和させる という療法が 痛みについての
最高のものらしい。

実際 長年強い痛みに苦しんできた人が この療法によって痛みがとても緩和された
という実例集の冊子も頂いて来た。

考える余地がある ということだ。

しかしは 当面の痛みを緩和することが第一で 前々回から処方されている新薬の
痛み止めを倍増して 今まで処方されてきた薬とともに服薬することに。

ところが 一錠だった時は良かったが昨夜二錠飲むと てきめんに副作用が!
しかし 強いだけあって 痛みは確実に軽減された。
が 腰の痛みには確かに効いているが その反面 左足の痺れと締め付けるような
感じと重だるい感覚がものすごい。

とはいえ 痛みが軽くなると ほんとうに楽になる。

副作用をできる限り耐えて痛みを緩和するか 飲まないで痛みを我慢するか。

痛み止めは脳の薬と言ってもいいくらい脳を刺激するから これほどの副作用が
起きる薬は 正直言ってこわい。

効き目は弱くても 朝からは また一錠だけを服用することにして 来週の受診の
時に 医師に説明することにする。

どうして処方される新薬が どれも私の体に合わないのか。

まったく 人生の後半を 痛みの中で送れ とばかりの在りようにうんざりする。


昨夜 深夜バスに乗って 息子が姉の海端の家へ旅に出た。

当初 私も一緒に行く予定を立てていたが この体調不良ではとても行けそうもなく
どうしたものか と思っていたら 一人で行って来る と言い出した。

一人で行けるのならそんないいことはない。
まさか彼が 一人でも行ってくる と言い出すとは と驚きながら それだけ回復してきて
いるのだ とも思え とても嬉しかった。

本当にここ最近は めざましく回復の方向へ向かっているように見受ける。

でも まだまだ夜は眠れないで 医師の処方薬が手放せないでいるから 完治への道のりは
遠い と思っている。

この病は 周囲の とりわけ家族の理解が重要だというから 夫もとうに腹をくくって
気長にするよりない と言っているし 息子に対する態度も その言葉通り 彼を刺激する
ような言葉や会話は 決してしない。
もちろん私も 時には 子供の頃の話をしたりして 会話や言葉がけにも気を配っている。

「あなたは私たちにとって 大切な存在である」ことを 感じさせたり思わせたりし
「あなたがこの世に存在していることそのものに意味や意義がある」と 彼が芯から
思い納得して 人生の一歩を踏み出す勇気を持てるよう 日々暮らしている。

かといって 特別視もしていないし 我が家の次男として産まれてきてからずっと
そうだったように 自然に接しているだけだ。

笑うことも多くなってきたし 顔つきも 以前のように穏やかな表情になってきている。

自分から調べて計画し 予約すべきことを予約済みにして 彼は出かけて行った。

どうか 旅の途中でトラブルやアクシデントが起きませんよう。

楽しかった と 笑顔で帰って来ますように と 祈っている。

鮭は川で産まれ大海原へと乗り出して行く そしてまた産まれた川へと帰って行く。

鮭だけではない。
イワナやヤマメ 淡水魚の代表のような鮎でさえ いっとき遡上し また川へ帰って行く。

それも 必ず産まれた川へ。

生まれた場所へ帰るのは ミツバチや蟻 ツバメもそうだ。
ツバメだけでなく 渡り鳥の多くは自分の前年の繁殖地に戻って来るらしい。

アホウドリやミズナギドリなどの海鳥 アザラシやオットセイなども 必ず繁殖地へと
戻っている。
ペンギンの類も そんな過酷な環境で繁殖しなくてもいいのに と思えるような繁殖地でも
必ず 翌年には繁殖地 生まれた土地へと帰っている。

これは「帰巣本能」 と 大きくまとめた言い方で呼ばれる。

さて では 人はどうだろう。

帰りたい気持ちはあっても それは様々な事情や条件が絡みあって 難しいのが現実だ。

その証拠に どのジャンルの歌にも 故郷を歌った歌や恋しがる唄 思いを馳せる唄が
たくさんある。

何故こんなことを書いたかというと 人生の最期を迎えた人が 自分の命の短さを悟ったのだろう
「故郷に帰りたい」と か細い声で訴えたそうな。

そのことを聞いた時 何故かしら涙がこみ上げてきた。見ず知らずの人の話なのにだ。

涙の理由をつきつめてみると おそらく 私の中にも帰巣本能のようなものがあって その最期を
迎えた人の言葉が 私の本能を刺激してのことに違いない。

海で暮らすものも川で暮らすものも 陸で暮らすものも 生き物の殆ど皆んなが 故郷へ帰る本能
故郷へ帰りたい気持ちを持っているらしい。

「生まれた場所へ帰って行く」ことを これほど大きく考えたことは 今までなかった。

「生まれた場所」とは それほど生き物にとって大切な意味のある場所なのだと知った。

では 「生まれた場所」 というものが 人間の私にとって 自身が思っている範疇を超えた
もっと何か意味のあるものなのだということか・・・・・・。














今日は お昼近くから 週末から娘宅の七里ガ浜や東京へ出かける息子の衣類を買いに
出かけた。

葬儀の後 昨日までほとんどベッドで過ごしていた。

痛みが結構な強度であるが かばって寝てばかりいると 筋力が次第になくなっていくのを
感じる。
だから 痛みがあっても コルセットを着けてでも歩かなければ と思って一緒に出かけた。

それに 一人旅をしよう と思えるまで回復した息子だが まだまだ治療中の身。
買い物くらい一人で大丈夫だろう とは思っても 食料品も買いたかったし 同行した。

紳士服の売り場をあちこち回って 彼が これがいい という服を数枚買った。

靴も欲しいと言うので 靴売り場を見たが 気に入った靴がなかった。

それで モールを出て 単独の靴店へ行った。

色々手に取って見たり試し履きしてみたりした結果 気に入った靴があった。
彼が思っていたのよりかなり高かったが 長歩きしても足のくたびれがない良い作りの
靴だったし 長く履ける靴だし キチンと感もあって良い靴だと思ったので
それくらいなら買ってあげるわ と私が払って買った。

家へ帰って来て療養を始めてから 自分から 買い物に行きたい と言い出すこともなかった
息子だったから 言い出した時は 内心 涙が出るほど嬉しかった。
少しずつ少しずつ回復している証拠だ。

観るに 急速に回復しているように思える。
今度の七里ガ浜行きも その最たる者だ。

彼なりに考えて 夜行バスで横浜まで行くという。
自分であれこれネットで調べて 自発的に行動したい と思えるまでになっている。

だから ちょっと高くても靴を買ってあげるくらいなんでもない。

金曜の夜に出発する予定でいる。

笑って 喜んで送り出したい と思っている。

帰宅後 先週の金曜は 葬儀で行けなかったので テリボン注射をしてもらいに
整形外科へ。

医師は 長丁場なのだから 打つ間隔を 神経質に考えないでいい と言って
くださるので 気持ちが楽になる。

昨日の今日は さすがにしんどい。
正直言ってこんなに応えるとは思っていなかった。

出棺を見送るだけで失礼して来てよかった。
本当は 斎場まで行きお骨あげをし そのあと葬儀場へ戻って 初7日と四十九日の法要
その後の精進落とし とあったところを お見送りだけで失礼する と 従兄弟には伝えて
おいたから よかった。

昨夜は 釣りに出かける主人のおにぎりを作っておいて早く休んだが 夫が三時に起きて
出かける時には 気配で目が覚めて 見送った。
その後なかなか寝付けなくて とうとう六時にはベッドを出て 洗濯機を回し花の手入れや
玄関先の掃除など コソコソと動いた後 ヤレヤレヤレと時計を見ると九時半を過ぎたところ。
それなら と急に思って かかりつけ医院へタクシーを呼んで行った。

昨日帰宅後から 何だか頭の中がボーンとしていて ふらつく感覚があったから 心配だったのだ。

頭のCTを撮ったが 血管は何ともなかった。
それでも 頭部内の圧を下げる点滴をし 薬も処方してもらった。

本当は 生家のある市の病院へ入院したという 別の叔母の状況を昨日聞いたので お見舞いに
行かなくてはならないのだ。

帰り際に その市から来ていた別の従兄弟が こそっと耳元で 次は近いよ と私に言った。

だから まだ大丈夫なうちに 行って会って来なければならないのだ。
叔母は父の弟の奥さんだ。
この二月から施設に入っていて 具合が悪くなって救急車で病院に運ばれたらしい。
まだ意識はあるから 顔は分かるらしい。

春に御墓参りに行った際には どこの親戚にも寄らずに帰って来た。 意識のあるうちに 会っておかねば・・・・・・。

本当にこの体が恨めしい。

(どうしてこんな痛みに見舞われなくてはならなかったのだろうか・・・・・・)

いつもはそんな思いを沈めているが 動きたい時動かねばならない時に 自由に動けないことを
どうしても嘆いてしまう私だ。

叔母の葬儀は 従兄弟から 「家族葬だから」と言われていたが 彼の二人の姉妹と それぞれの
連れ合い そして彼らの子供たちとそのまた子供たち それに 従兄弟として連絡をくれた三人と
私と一緒に行った叔母 それだけで 集まった人がなんと四十人にもなった。
孫もだが 亡くなった叔母からするとひ孫がたくさんだったからだ。

喪主を務めた従兄弟には 三人の子に 計八人もの孫があった。
あまり幸せとは言えない幼少期を送った従兄弟だったが いい連れ合いに巡り合い いい子供たち
とたくさんの孫に囲まれて 実に堅実で柔らかく暖かで 優しい愛情が通い合っている家庭の主人
になっている。

その従兄弟が喪主になって 叔母を逝った。

葬儀の最後に 棺の蓋を取り 参列者みんなで棺を囲み お花を入れる時が来た。
葬儀会場の司会進行した女性が 従兄弟と彼の姉に 「どんなお母様でしたか?」と優しい声で
問うた。
二人は「山あり谷ありの人生を頑張って生きてきた人だった」「苦労の多い人生だった」と
言葉短く答えた。
孫たちにも 同じように問うと「厳しい人だった」と誰かが答えた。
ひ孫たちにも問うと 彼らは「・・・・・・ 」と 二十歳を筆頭にみんな無言だった。

その時になって 私ははたと思い至った。
答えられないのも最もで ひ孫たちが生まれ育った今日までの期間のほとんどを 叔母は
施設で過ごしてきたからだ。
だから 中学生のひ孫は「今日初めて顔を見た」と小さな声で 私の隣でつぶやいていた。

そうなのだ。
たくさんのひ孫があっても 元気でいなければ その彼らの存在さえ知らずに 顔も見ないで
逝ってしまわなければならない。
体はどれだけ悪くなっても 頭だけはハッキリして老いていかないと・・・・・・。

九十七歳で逝った叔母だったが 七十代で認知が出 グループホームに入所。
以来 施設をいくつか変わり 最後の短い期間 九十七歳の最期を病院にいて逝った。

私から見た叔母は 自分だけの幸せを求めて自由奔放に生きた人だった。
行動も言葉も そこから生まれるものだった。

父もそうだったが叔母も 最後は認知になって 過去のことはすべて忘れて生きた。
認知は 周囲の者は大変な思いをするが 本人にとっては 一番楽な生き方なのかもしれない。

そんなことまでをも思わせる 叔母の葬儀だった。

逝った顔は 一つ上で仲の良かった私の父に 実によく似ていた。

今ごろは 早くに亡くなった母親と 父親やたくさんの兄妹が待つ処へ行くべく
現世での子供たちやそれにつながる孫やひ孫の幸せを祈りながら 巡っていることだろう。

叔母さん あの世で私の父母に会ったなら **子は幸せに暮らしていたよ と伝えてくださいね。

夕方 また事業者の男性が 私の実情に合いそうな しかもレンタルできる車椅子を
持って訪れてくれた。

昨日のより多少狭めで 背や座面に少しクッション性のある機種だった。
それにマットを敷いて座ると 背面の痛みも緩和され 私には合っている機種だと思った。

実際に家の中を車椅子で動いてみると どこへでもスムーズに行けた。

私にぴったりの 座り心地も背のもたれ具合もいい車椅子で 何だか子供みたいに嬉しい。
久しくこんな気持ちを味わったことがなかった。
嬉しくて 家の中を リビングからキッチン キッチンから洗面所 洗面所から玄関やトイレ
そしてまたリビングへと 何度もクルクル回ってみた。
快適 快適!

これを一週間お試しで借りられる。
その後 不具合があれば 他の機種に変えてもらうなりできる。
ありがたいことだと思う。

それにしても 昨日持って来てくれた機種といい今日のといい 新品ばかりだ。
包装を解いて試乗した物は そのあとどうするのだろう。

ちょっと気になる。

今朝7時に 近くの市に住んでいる従兄弟から電話があった。

寝たきりで施設にいた彼の母親が 日付が変わった頃亡くなった という。

父は九人兄妹だったらしいが 私が生まれた頃には 六人だった。
電話をもらった従兄弟の母親は 父とは年子にあたる叔母だ。
そして 寝たきりとはいえ 最後に残った たった一人の父方の叔母だった。

従兄弟は 幼い頃に母親と別れ 父たちの実家である本家で育てられた。
だから 近所で一緒に遊んだり本家へ出入りしていた私は てっきり彼は
本家の子だとばかり思っていた。

だから中学になって 彼の苗字が 実は違って 別の苗字だと知った時は驚いた。

従兄弟は穏和で優しいが 内面では かなり複雑な感情を抱いて成長したのだろう。

彼が成人して家を建てた時 叔母は当然同居できるものと思っていたらしいが
彼は「親らしいことをしてくれたことがあるか」と言って同居を拒否した。

以来 叔母は 彼の姉の家で 認知になるまで暮らしていた。
施設に入っていたが次第に体力が衰えて 最後は病院で亡くなった。

その間の長い年月 従兄弟は定期的に施設の叔母を見舞ってきた。
一度は拒否した母親だったが 優しい彼は見捨てることをしなかった。
実に立派は人間だと思う。

あまり交流のなかった叔母だが 従兄弟のために 明日は葬儀に出よう。
施設に入るまでは姉の家で暮らした母親を 従兄弟は明日 喪主として
おくる。
そんな彼のために 明日は出棺を見送って帰ろうと思っている。

昨日 麻酔科にかかり痛み止めを倍増してもらった。
そして 介護認定を申請する際の 意見書を書いてもらうようお願いした。
医師は 快く引き受けてくださった。

また今回もダメかもしれないが 申請してみなければ事は進まない。
前回は 医師に意見書を書いてもらう以前に センターから 無理 と判断され
てしまったが それに比べたら今回は 多少の望みが持てる。

そして今日の夕方近く 業者が 車椅子を持って来てくれた。

事情を予め伝えてあったので 腰の下に敷くように かなり分厚い低反発のマットも
持って来てくれた。
レンタル用の機種は限られている と言い カタログで選んでいた機種は レンタルできない
とのこと。
安価で借りるのだから やむを得ない。

それでも 持って来てくれた車椅子にマットを敷いて座ると 座り心地はいい。
しかし 腰椎が当たる背面の痛みには対応していない。

それを話すと 明日また別の機種と 座面から背面までつながっているマットを持ってくる
から 試してほしい と言って帰って行った。

選んでおいた機種が使えない と分かって ちょっとガッカリ。

明日持って来てくれる機種の具合はどうだろろう。

楽しみなような 車椅子を使うことは それだけ状態が悪い ということだから
手放しでは期待出来ないような 複雑な心境ではある。 続きを読む