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ここ何ヶ月のうち 初めて知ってビックリした事で覚えている事 といえば

神経根ブロックする際には 必ず背中を大きくアルコールで消毒してから布が被せられて
その後に手術が始められるのだが 前回手術した時 手術が終わってその布を医師が
剥がすと 私自身は終始うつ伏せの状態だからまったく分からなかったのだが 消毒した
背中一面 真っ赤になったいたらしい。

医師が驚いて「アラ⁉︎どうしたんだろ⁈ アルコールよかったんだよねぇ⁇」
と言われると 看護師が「今まで大丈夫ってことだったんですが これは完全に拒否反応
ですよね」「病棟へも連絡しておかないといけないですね」と返されて その時から私は
「アルコール消毒禁止」と ベッドヘッドの真上の壁に 大書した「アルコール禁止」の
紙が貼られる身になってしまった。

ベッドへ来る看護師にその話をすると「〇〇さんお酒飲めないんじゃないですか?」と言う。

その通りで この歳になっても 夫や子供たちや嫁や婿がいくら美味しそうにお酒を飲んでも
半口も飲めば 「もういい」となってしまう。

だから 利き酒はできるようになって 一人前に銘柄によっての違いは分かるようにはなった。
が 飲めないのだ。

その看護師が言うには「お酒が飲めない人は たいがいアルコール消毒ダメなんですよ。
飲んで 赤くなったり蕁麻疹が出たりするってことは 体の中も同じようになっているって
ことなんですよ。〇〇さんの場合 今までは年齢やなんかに助けられてアルコール消毒しても
拒否反応が外に出なかっただけで 本当はダメだったんじゃないですか?」

知らなかったァ〜!
私って 初めから元々アルコール消毒ダメだったんだァ〜!

だから それ以後 点滴や痛み止めの注射はもちろん 手術の際にも ノンアルコールでの
消毒になっている。

今回の手術の際にも 看護師の「アルコール消毒禁止です」の声かけから始まった。

思いもかけなかった。
私は アルコール消毒禁止 だったとは!





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月曜日 内科から出してもらっている薬がなくなったので 月一回の受診に行った。

医師に 大学病院の方はどうですか?変わりないですか? と聞かれたので また神経根ブロック
をしたことと 介護認定の申請をして要支援2の結果が出たことを伝えた。

もともとかかりつけ医だから 私の体については内科的にもよく分かってもらっているし
何年も前には 身障の認定の証明書を書いてくださってもいたから 余計にだったと思うが
「要支援の2ではなんにもなりませんねェ〜今度何かの時には私が書いてあげますから
いつでも言ってください 介護がつくようになるかもしれませんから」
と ちょっと言外に意味ありげな様子で言ってくださった。

言われて瞬時に しまった!と思ったことが二つあった。

一つは 身障の検査や証明書はこの先生がしてくださったのだから 今回の介護認定も
この医師に意見書をお願いするべきだった
ということ。

大学病院にかかっている部位や事だから とばかりが頭にあって 当然のように麻酔科の
担当医師にお願いしてしまったのだったが・・・。

身障の申請をした時 この医師は ダメかもしれないが申請してみましょう と快く言われた。
おそらく意見書なり書見なりを丁寧に書いてくださったに違いない 認定は思ったより早く
下りてありがたかった。
その事を忘れていたわけではない。
あの時から今もずっと 先生のおかげ という気持ちは変わらない。

その事に思い至らなかったのだ。ぬかっていた。
それを考えると この先生に対して失礼な事をしてしまったのかもしれない。

もう一点は 私としては要支援2が下りたことに不満はないものの 医師がそれとなく
言われた言葉から 麻酔科で見てもらっていることだけでなく内科的にも意見書に加えて
記載してもらえたかもしれない という点だった。

だから 次回の見直しの時か体に変化があった時には 今度は必ずかかりつけ医に意見書を
書いていただくようお願いする事を忘れないようにしなくては‼︎ と肝に命じた。

でも でも 昨日 麻酔科を受診し 医師に 要支援2が下りた結果と意見書を書いてくださった
お礼を述べると 医師はくったくなく よかったですねえ〜 と笑顔で一緒に喜んでくださった
のだったが・・・。

土曜日 申請していた介護保険の介護度認定の結果が郵送で知らされた。

「要支援2」との結果。

それに先立って (まだ結果の通知が届いていないのに おかしなことだが) 包括センターの
おそらく今後もこの人が担当になるのだろう職員から どのようなサービスを希望している
のか使うのか また使用可能なのか の相談に伺いたい と電話があった。

申請結果がどうなったのかまだ未通知だと言うと 週末くらいに届くだろう と返ってきた。

こういう事は 普通 結果が本人に知らされてから初めて始動するものではないのか と
これまでの同じ職員が関わってのあれこれに ちょっと不信や不満があったものだから
瞬間 言いそうになる気持ちを抑えて どのような結果が出ているのか分からないまま
水曜日の午後四時に来訪の約束をした。

そして次の日 通知が郵送されて来た。
結果は「要支援2」

以前に二回 認定について動いてみた時と 私の体の状況はほぼ変わっていない。
それなのに今回は介護度の認定が下りた。

今回との違いは 私が七十という年齢になっていることだけだから 多分それが
大きかったのかもしれない。

父の介護をしていた時から十年以上経って どれくらい受けられるサービスが
増えているのか サービスがどれくらいきめ細やかになっているのか・・・。

何はともあれ 明日 大学病院を受診する際に 意見書を書いてくださった担当医師に
結果を報告し お礼を述べねば。

私の場合 介護度としては これが精一杯のところだろうから 不服はない。
あとのことは 明後日 来訪する担当者と話し合って決めることにする。



この春に 夫と東京の娘家族のところへ行った時 上野の国立博物館へ 開催初日の
東寺展を観に行った。

その折にショップで 「太子筆」という 職人が手作りした「世界一小さな本物の筆」
と銘打った筆を見つけ 購入して来た。

なぜその筆が目に止まったかというと ずいぶん以前から書道教室の先生が
毎月の課題をこなすだけでなく 書いたものを暮らしの中で楽しめるように
百人一首を書いてみませんか
と 数人に声をかけてくださり ご自身でその為の準備を始められた。

どのような用紙がいいか どのように書くか など様々に工夫され 書くための筆も
いろいろ試してみられたが なかなか これはいい!と思う筆が見つかっていなかった。

教室へ行くたびに先生から書かれたものを見せていただき 筆探しに苦労している という
話を聞いていなかったら 東寺展のショップで販売していたその筆にも目がいかなかった。

二本入っている箱でも小さなものだし ましてや展示台の隅っこに置いてあったサンプルの筆
も 他のたくさんの商品に埋もれて目立たなくて 実際 私も その側に置いてあった商品が
気になって 手に取って買おうか思案しているうちに目に入っただけだった。

筆といっても 長さは二十センチもなく太さも五ミリくらいで細く しかも全体が黒色で
ましてや筆先はというと 見たことがないくらい小さくて短くてしかも細い。

おそらく 普段筆を持ち慣れていない者が写経するために と開発された筆だろう。

でも キャップ式になっている筆先は 市販されているこの手の物とは違い 本物の毛が
使ってあり一本一本職人が手作りした物だと 東寺から来ている販売員が説明してくれた。

試してみると たしかに小さくて細いが 穂先はしっかりしていてしなやかだったから
これなら先生も気に入ってくださるのでは と思い 二本入りの箱を一つ買って来た。

帰宅後 さっそく先生にその筆を見てもらうと たくさんの筆を試したが これほど
書きやすくて しかも本物の毛で作ってある物は初めてだ 実にいい! と気に入られた。

そして この筆なら書こうとしている目的にピッタリだから何本も欲しい
十箱ほど手に入るよう手配してくれないか と言われた。

それで 息子が七里ガ浜へ行く続きに東京へも行き 上野の博物館や美術館へも行く と
いう時に 買って来てくれるよう頼んだ。
そうすれば 送料分だけでも助かるからだ。

そんな経緯があって購入した筆だったが その後体調が悪くなったために教室へ行けず
先生に届けられずにいた。

それを 一昨日ようやく持って行った。
先生は 嬉しいわ これでまた書く楽しみが増えたわ と言われた。

そこまでではなくても 生徒の私たちも この筆を使って百人一首を書くのだ という
気構えが 少し現実をおびてきた感がある。

百首を書きあげるのに いったい何年の年数がかかるのか 考えると気が遠くなるが
これでまた 新たな生きる目標ができたと 思えば心がはずむ。

書道 教室 先生 仲間 そこから得られた様々な知識や物事・・・その巡り合わせに
この「太子筆」が 今回加わった。

昔 生前母が 百首を竹の葉に見立てて書き一本の軸にした物が 私の手元にある。

書道を始めた時 いつか私もこんなふうに書いて作品にできたら と思った。

つたないながらも休み休みでも ようやくここまで来られた感がある。

いつ始めるかもまだ分かっていない「百人一首を書く」だが 筆が見つかった事で
より現実味を帯びて想えるようになってきた。

嬉しい。

昨夜 珍しく三人でテレビをみていると 突然 地震発生のテレップが流れた。

それも震度六強と六弱 すぐさま津波注意報が発せられ 予測一メートルだという。

地震が発生した場所は新潟と山形の県境付近で この辺りで過去に発生した大地震を
思い起こさせた。

その頃 まだ在職中だった亡父は新潟へ数日出張し 帰って来た直後の地震だった。
帰りが一日延びていたら 大惨事に巻き込まれ鉄道も止まっていた状況下で いったい
どうなっていたか と 運の良さに感謝しながら現地の被災したひどい有様を 新聞や
テレビで見 家族で心配したことだった。

今朝になって あの時ほどではないようだが被災状況がボツボツ分かってきた。

日本各地の県がそうだが 新潟にもその土地に根付いた産業や手仕事がある。
あの地震の時には その手仕事を主とする織物業が壊滅状態におち入り ようやく
昨今になって元に戻ってきたところだったから 昨夜は またか⁉︎という思いが
よぎったが 今回は被害が出ていないようだから嬉しい。

それにしても 日本列島は 大地震多発周期に入っているらしい。
どこで起こっても不思議ではない。

先日 I さんと会った折に 救急の持出袋をどこに置いておくか の話になった時
彼女から 車の中に一つ入れておくといい と教わった。

我が家は 二階に一つ玄関に二つ寝室に一つ置いているが 車の中に との考えが
なかったから 目からウロコだった。

役に立つ事がなければ それが一番だが 家が壊れて数日を外で過ごさなければ
ならなくなる場合もある。
その時 車が無事で 車中になんらかの救急物資が積んであれば それはおおいに
助かるだろう。

頻繁に起こる地震の備えをもっと真剣に考えねば とあらためて思う。



昨日は 珍しく三つが重なった祝日になった。

日曜日に父の日があるのは決まり事だが その日に次男の誕生日が重なるのは
実に珍しいことだった。

私が退院したてで 家で何か手の込んだ料理をして祝うこともできず
それなら外で と 何が食べたいか次男に聞くと これといってないからお寿司でいい
それに しばらく行っていないから温泉へ行きたい と言った。

それで昨日の午後遅く 温泉行きの用意をして家を出 早めの夕食にお寿司を食べ
その続きで温泉へ行った。

息子自身 これといってめでたくもない様子だったが それでも誕生日なのだから
ささやかではあっても 祝う気持ちだけは 夫も私も伝えたかった。

特に昨日は 世間的にいうと 彼が不惑をむかえた節目の誕生日だった。

息子は 自分が自らを置いている現在の状況を考えると この年齢がよけいに
重く響いているらしかった。

でも 今や人生百年 の時代。
そう考えると 彼の年齢はまだ折り返し点にも達していないのだ。

「大丈夫 まだまだ先は長いんだから」
「元気になることが まずは大事」
夫も私も 明るく軽く そんな会話を交わしながらの車中だった。


夫は 今回息子が病気になって戻って来た時から 自分のこれからの人生の見方を
大きく変えたように思う。
息子の病気が 長いスパンで考えないといけない と覚悟して腹をくくった感がある。

だから 温泉へ向かう車の中でも 「これからの十年まだまだ元気でいなくてはな」
「お互いにな」とも言っていた。

息子たちや娘から今年も父の日のプレゼントがあったが そんな夫の気持ちが反映してか
嬉しさもずっと抑え気味な父の日の迎え方だった。

それよりも夫は 偶然重なった息子の誕生日に気持ちを置きたい という思いが強かった
からだろう。

図らずも重なった今年の父の日と息子の誕生日。

あらためて 夫の心の内を知る日になった。




一昨日に超絶痛い思いをして二泊三日を病院で過ごし 先ほど退院して帰宅。

今回は ものの見事に痛む神経に命中!
手術台の上で 左右の腕と足を三人の看護師と医師に押さえられて痛みをこらえた。

その結果のほどがどのようにあらわれるか 痛かった分 期待したい。

昨日午後 医師が病室へ来てくださって 機器を体に埋め込んで脊髄を刺激する治療法
について また詳しく説明があった。

今回の手術の結果の出方 効果のほど 効果の持続期間など 様子を見て どうするか
今後も神経根ブロックを繰り返していくのか 考えどころになる。

痛い思いをする今の治療法も 手術を受ける間隔が短くなってきているのも事実。

自分でも 今後いったい死ぬまでに何回しなくちゃならないのか と考えるとウンザリ
するし 気が重くなる。

実際 内科のかかりつけ医に そんなに繰り返していいものかねぇ? と言われてもいる。

いろいろ思うところはあるが さしあたって今は 早く効果が出ることを願わねば!

手術がいよいよ明日に迫ってきた。

入院がたびたびだから 必要品は入院用のバッグにまとめて いつも寝室に置いてある。
だから 今回もとりたてて準備する物もなく 入院前日とはいえ 落ち着いたものだ。

ただ またあの痛い思いをするのか という気持ちだけがある。

ジタバタしても始まらない。

なるようにしかならないのだから あとは医師任せにするよりない。

夫と息子が 夫の友人と一緒に 小鮎釣りに行って来た。
今回は珍しく釣果がかなりあったので 長男夫婦を呼んで フライにしてみんなで食した。

塾へ行っていた下の孫は 別にパックに入れて彼らが帰るときに持たせるから食べられるが
上の孫は 今春から家を離れているから 食べさせられない。

好きだったのに食べられないからかわいそうね〜 とみんなで話していると 長男がスマホの
ラインで 今おじいちゃんちで小鮎のフライを食べてるところだよ と 様子を知らせ始めた。

そうして スマホをその場にいた者に順に回して それぞれが上の孫と話した。

彼女のアパートの様子がリアルに画面に映り 生活ぶりがそのまま伝わって来て面白かった。

長男夫婦は 毎日 朝となく夜となく こうして娘と連絡を取り合っている と言う。
だから 家族の関係はまったく家にいた時と変わっていない 娘と離れて暮らしている
感じがあまりない と 長男も嫁も話していた。

いい時代だと思う。

常に 声だけでなくいつも家族と顔を見て話せるから 娘の方も 昔の子が家を離れた時のような
ホームシックにかかることもないし 親も どうしているか 起きたか寝たか と心配することが
なく安心して子供の暮らしを遠くから見ていられる。

親にとっても子にとっても精神的に安定しての暮らしを 今の時代の機器は与えてくれている。

私も 今の時代に子供たちを離れた場所へやりたかった と 彼らがうらやましかった。

もっとも 我が家の子供たちはどの子も独立心が旺盛だったから 監視されているようで嫌だ
と 電源を切られそうな気もするが・・・・・・。


今朝 最寄りのJR駅の広場で待ち合わせ 六年ぶりに中国の青年と会った。
名古屋まで出るつもりでいたが 私の体調を気遣った彼が 最寄り駅まで来てくれた。

待ち合わせ場所へ行くと 離れた場所に 先に着いていた彼がいた。
互いに同時に やすやすと相手を見つけられた。

まずは 駅構内にある喫茶店に入り 腰を落ち着けて互いの消息を報告しあった。

彼は現在 派遣会社の社員として 日本に本社がある会社が中国内の各地に設けている
支社や営業所へ 長期出張の形でIT関係の指導や新しいプログラムのインソールをしたり
してまわる仕事に就いていた。

そして今回彼は 現在は中国内の支社にはない新しいプログラムを日本国内でインストール
するために 中部空港に一番近い支社へ 二週間派遣されて来たのだと言った。

また 日本での滞在の後 そのインストールしたものを持って それを必要としている蘇州の
無錫にある支社へ 中部空港から直に行くのだとも言った。

日本への出張の前には 武漢に半年滞在していたらしい。

広大な国土の中国内の各地に支社や営業所が散らばっているから 生活の本拠である
東北地方の瀋陽には 年に一、二度しか帰れないし ひとたび出張すると行った先々で
長時間の就労を余儀なくされるから とてもキツイ とこぼした。

かといって もし瀋陽市内で就職したら 日本円にすると6万円くらいしか月収がないが
現在はその三倍は収入があるから キツイからといって今の仕事をやめるわけには
いかない とも語った。

それに 二年ほど前に 瀋陽市内に新築された六階建ての集合住宅の 最上階の六階に
分譲住宅を購入したのだと言う。
すぐそばには高層住宅のビルが何棟もあって 当初そこに住みたかったが 二階にしか
空いている住宅がなかったため 通りを隔てた中層ビルの最上階にしたらしかった。


角部屋で百ヘーベあるというから まずまずの占有面積の住宅のようだ。
おまけに最上階の住宅は その上の屋上階も自由に使える と言っていたから 瀋陽の
中心地に建つ最新の住宅とあって 高額な買い物だったに違いない。

瀋陽市は 大阪の人口より多いくらいの八百二十万人以上が暮らす大都市で 市内には
大学が十八校もあるが 希望する学部がある大学に入るには大変な倍率で 日本以上に
勉強しないとダメらしい。
せっかくそうして大学を出ても めぼしい職種や将来性のある就職先は まず党員や
その家族 または縁故者が占めてしまうから 一般の者は なかなか有利な就職先が
ないのだ と以前に話したことがあった。
だから 高給を得ようとすると 彼のように多少の無理をすることになってしまう。

家は手に入れたものの 今のように 国内を転々として しかも日本でいうところの
サービス残業を長時間しなければならないような仕事では お嫁さんを見つけること
もできない と心情を語った。

でも 親はどこの国でも同じとみえて 早くお嫁さんをもらえ と両親がうるさく言う
特に母親がうるさいから 両親の家へ行きたくないのだ と笑って言っていた。

大病院の看護師だった母親は 定年退職した後は孫の面倒をみるつもりでいたらしいが
いつになっても結婚しそうにない息子の様子に 諦めてまた働き始めた と 息子である
彼は 苦笑しながら話してくれた。

中国は特に「一人っ子政策」で 一組の夫婦には子供が一人しかいないから 親が子に
かける思いは 日本のそれとは比べものにならないくらい大きくて重い と想像がつく。

男の子にしても女の子にしても 適齢期の子供は夫婦に一人ずつしかいないから
そうでなくても少ない出会いなのに ひと所に長くいられない職業では なおさら結婚は
遠のいてしまうだろう。

本人も 高給を取りたいが現状の働き方では体がもたないしお嫁さんももらえない
でも瀋陽に定住しての職だと給料はグッと少なくなってしまう と 悩んでいる様子
だった。

そんなこんなや私の体のことなどを話題にしていると 時間などあっという間もなく
過ぎてしまった。

喫茶店 お昼ご飯のお店 また喫茶店 とお店を変えながら話し 名残を惜しみながら
夕方の六時を過ぎる頃 駅で別れて帰って来たのだった。